芭蕉の略年譜と主な芭蕉の句(緑色)  芭蕉メニューへ  

1644年 1歳 寛永二十一年
(正保元年)

伊賀上野赤坂(三重県上野市)で松尾与左衛門の次男として生まれる。
当時は「農人町」という町名だった。父松尾与左衛門は伊賀土豪の末裔の郷士、苗字帯刀を許されていたが無給の「無足人」(むそくにん)という家系。
幼名は金作、後に藤七郎、甚七郎、忠右衛門と称した。名は宗房(むねふさ)。
上に兄半左衛門と姉が一人、下に妹が3人いた。

1637年(寛永14)島原の乱、五人組の規定
1649年(慶安2)慶安の御触書
1651年(慶安4)由比小雪の慶安事件
1657年(明暦3)大火で江戸城本丸・二の丸をはじめ江戸の半ばが焼ける
徳川光圀が『大日本史』の編纂を始める
1660年(万治3)仙台藩伊達騒動

1662年 19歳 寛文二年

藤堂新七郎家(侍大将5千石)の良精(よしきよ)の息子良忠(よしただ)(俳号蝉吟(せんぎん))に仕える。武士ではなく、武家奉公人としての採用か。役職は「台所用人」(御台所の御用人)だが、採用当初は良忠の近習(小姓役)として、学友、遊び友達、召使いであり、俳諧仲間だったか。「台所用人」という役職は、良忠死去後の役職で、生前は近習といったところか。
芭蕉は、忠右衛門宗房と名のる。芭蕉は良忠に仕えたことから、漢詩文や源氏物語、伊勢物語、狭衣物語など当時としては高度な武将としての教育をともに受ける機会があったのではといわれているが、詳細は不明。
春やこし年や行けん小晦日

1663年 20歳 寛文三年 月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿
1666年 23歳 寛文六年

主君の良忠が死去、25歳。芭蕉は、奉公を続けたのか、また職を解かれたのか、自ら辞退したのか、不明。いずれにしても仕官かなわず。
良忠は、京都を代表する俳人で後に将軍綱吉の歌学の師となった北村季吟の門人だった。芭蕉もその縁で季吟に接することもあったのだろうといわれている。芭蕉は、良忠と季吟の間をとりもつ連絡役だったのではともいわれている。

良忠没後、芭蕉は勤めを辞退するが、その後、寛文十二年までの5・6年間の消息は不明。
京都五山の禅寺ひとつにでも入って、勤労奉仕、托鉢、座禅、学問、漢詩文などの修業生活を送っていたのでは、という説もある。(「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛離祖室の扉(とばそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ」(幻住庵記)との記述から推測されたものか。)
年は人にとらせていつも若夷(わかえびす)
若夷が若々しいのは、年は人にとらせて自分は年をとらないからだ。たいして面白くもないが、若き芭蕉はこの機知を面白がっている。
夕顔に見とるるや身もうかりひょん
夕顔に見とれてしまって、自分の身も浮かれてしまうようだ。「ひょん」とはなんだろう。

1672年 29歳 寛文十二年

芭蕉編集の「貝おほひ」を編み伊賀上野菅原神社に奉納、出板。「伊賀上野松尾氏宗房釣月軒にして自ら序す」と署す。

春、江戸に出たかもしれない。
日本橋小田原町に居住。大舟町の名主をしていた小沢太郎兵衛家で「書き役」として帳簿つけや文書作成などの仕事を勤めたようだ。だが、仕事の帳面つけの書き役なのか、連句の書き役なのか。

1673年(延宝1)三井高利が江戸と京都に越後屋呉服店を開く。

1674年 31歳 延宝二年

この頃、妾(内縁の妻)の寿貞(じゅてい)と同居か。
其角入門。其角は14歳頃の入門で最も古い門人。

1675年 32歳 延宝三年

この春、芭蕉は江戸に出たことは確かなようだ。甚七郎と改名。
俳号を「宗房(むねふさ)」から「桃青(といせい)」に改める。尊敬していた李白にちなんで、白い李(すもも)に対する青い桃という意図とか。芭蕉は、後に芭蕉に改名してからも「松尾桃青」や「芭蕉(庵)桃青」として、桃青という名を併用している。よほど気に入っていたようだ。


嵐雪・杉風らが入門。其角・嵐雪は放蕩者、不良青年だったようだ。芭蕉はどう付き合っていたのか。
有能な青年たちも集まり、芭蕉は江戸の俳壇に地歩を固めていく。

1676年 33歳 延宝四年

6月、伊賀上野に戻り、甥の桃印(とういん)をつれて江戸に戻る。
佐夜中山にて
命なりわずかの笠の下涼み
「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」(西行)芭蕉が敬慕する西行の「命なりけり」を踏まえ、夏の暑さの実感を句にした。

1677年 34歳 延宝五年

以後4年間、神田上水(小石川上水)の改修工事(総払い)の監督ないし請負の仕事に従事。点者俳諧師としての生活は楽ではなかったのか、それとも「書き役」としての仕事の延長か。生活のための二束の草鞋か。いずれにしても、芭蕉は起業と運営の能力を発揮した。この頃、関口芭蕉庵(文京区関口)にも住んでいたかもしれない。
あら何ともなきやきのふは過ぎてふくと汁
あらなんともなかった。昨日、河豚汁を食べてびくびくしていたが、過ぎてよかった。
猫の妻へついの崩れより通ひけり
恋猫が竈(かまど)の崩れたところから雌猫のところに通っているよ。「伊勢物語」五段の「むかし、おとこありけり。東の五条わたりにいと忍びていきけり。密なる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり」を踏まえている。

1678年 35歳 延宝六年

俳諧の宗匠として立机。立机披露の万句興行を催す。桃青一門の確立を目指す。
「書き役」という仕事と俳諧の宗匠、内縁の寿貞。芭蕉の好調な日本橋での生活。

1679年 36歳 延宝七年

桃青、我が世の春を謳歌か。
左の写真は、日本橋室町1丁目の佃煮屋の玄関に置かれている記念碑。「発句也松尾桃青宿の春」。
発句也松尾桃青宿の春 (貞亨年間かもしれない)
歳旦の発句である。松尾桃青(芭蕉のこと)、この世の春を謳歌しているよ。

1680年 37歳 延宝八年

四代将軍徳川家綱死去。綱吉が第5代将軍に就任。
家綱時代の放漫な財政政策と自由な町人文化は、綱吉の時代になって財政緊縮、庶民には奢侈を禁じ倹約を強制する厳令を発するようになり、大きな打撃をうけることになる。
談林俳諧の崩壊。町人たちに俳諧に遊ぶ経済的・精神的な余裕がなくなってきたことが背景にあった。

杉風・卜尺・嵐蘭・揚水・嵐雪・其角らの門人を擁し、俳壇的地位を確立。
10月、新小田原町より出火、近隣10余町が類焼。

芭蕉の身に何が起こったのか。人生の大きな転機を迎える。この冬、日本橋小田原町より深川村の草庵に移転する。
深川隠棲。庵を杜甫にちなんで「泊船堂」とする。

この年、畿内・関東で大飢饉。
しばの戸に」句文。
かれ朶(えだ)に鳥のとまりけり(たるや)秋の暮
直訳すれば、「枯れ枝に烏がとまっている、秋の夕暮れ」ということになる。これの何が面白いのか。何がいいのか。何にぐとくるのか。水墨画などに「枯木寒鴉」(こぼくかんあ)というのがある。烏(からす)は鴉とも書く。この気分やセンスは「冷えやせたる句」として連歌の時代から発見されていたようだ。「烏のとまりたるや」は初案だが談林調ということだろうか、後で「烏のとまりけり」と落ち着いた調子に直された。「枯淡静寂の境地」。俳諧における「冷えやせ」の美学といわれる。
まあ理屈はともかくとして、こういう句に何か感じるものがある。寂しいような嬉しいような、心落ち着くものがある。

右の画:「かれえだに」発句画賛 松尾芭蕉筆 森川許六画

愚案ずるに冥途もかくや秋の暮
「愚案ずる」とは、不肖私の考えではという謙譲的表現。この表現は江戸時代の俳諧師たちに流行った表現のようだ。面白いので私も使ってみようかしらん。冥途も今日の秋の夕暮れのように穏やかなところなのだろう。枯れてきた芭蕉だが、穏やかな秋の夕暮れを楽しむゆとりも感じられる。秋の暮れにもいろいろある。

ここのとせの春秋、市中に住侘びて居を深川のほとりに移す。

長安は古来名利の地、空手にして金(こがね)なきものは行路難しと云けむ人のかしこく覚へ侍るは、この身の乏しき故にや
しばの戸にちやをこの葉かくあらし哉

柴の戸に嵐のような北風が吹き付け、茶の木の古葉を吹き寄せかき回している。この身の乏しさ、草庵で茶を煮る。「しばの戸」の句より前書きが面白い。お金のない者には住ずらい名利の地、江戸・日本橋に「住侘び」とはなにを意味しているのか。芭蕉は「身の乏しき故」と謙譲しているが、軽くたわぶれているようにもみえる。そこがあやしい。やはりのっぴきならない事情があったのではないか。江戸に来て9年、住み慣れた日本橋を後に、深川に隠棲する。日本橋には「住侘び」た。生活を一新し新しい俳諧の道を求めよう。だが、深川柴の戸住まいに冬は厳しい。
富家ハ喰イ肌肉ヲ、丈夫ハ喫ス菜根ヲ、予ハ乏し
雪の朝独り干鮭(からざけ)を噛み得たり
富める者は肉のような美味を食い、丈夫は菜根のような粗食を食べる。私は貧しいので、といいながらも雪の朝に干鮭を噛むことができた。さてこれからどうやって生きよう。新しい俳諧の道を見出すことができるのだろうか。

1681年 38歳 延宝九年
(天和元年)

5月、高山伝右衛門宛ての手紙でこの頃の俳諧観や作句5か条を記す。
「一、一句、前句に全体はまる事、古風・中興共可申哉。(古風=貞門・中興=談林)
一、俗語の遣いやう風流なくて、又古風にまぎれ候事。
一、一句細工に仕立て候事、不用候事。
一、古人の名ヲ取出て何何の白雲などと云い捨る事、第一古風にて候事。
一、文字あまり、三四字、五七字あまり候而(て)も、句のひびき能候へばよろしく、一字にても口にたまり候ヲ御吟味可有候事。」

門人李下から芭蕉の株を贈られ、草庵の庭に植える。

深川臨川庵で仏頂和尚に就き禅について学んだか。あるいは交遊か。
仏頂和尚の教えによるものか、荘子・杜甫の影響。漢文・漢詩調へ。
庵を「芭蕉庵」に変える。


侘びてすめ」の詞書、「芭蕉野分して」の詞書、「乞食の翁」句文、寒夜の辞、笠やどり
月をわび、身をわび、拙(つたな)きをわびて、わぶと答へむとすれど、問ふ人もなし。なほわびわびて、
侘(わび)てすめ月侘斎がなら茶歌
月を眺めて侘び、わが身の孤独を侘び、才能の乏しきを侘び、問う人があれば侘びているよとこたえんとすれど問う人もいない。月を見て侘びる月侘斎(風狂の侘び人か)、大いに侘びて住むがよい、粗末な奈良茶飯を食らってうたう歌も、空の月のように澄みわたれ。我が心も澄みわたれ。質素な草庵での侘び住まい、粗末な奈良茶飯を食らい、月をを見て澄む。枯淡の俳諧的情趣といわれる。「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦にもしほたれつつ侘ぶと答へよ」(古今集・在原行平)の歌を踏まえている。行平の場合、韜晦の立場からの歌のようだ。芭蕉の侘び趣味全開。こころざし破れ悲観静寂のうちに貧しく居住まう芭蕉。「侘び」の伝統的な美意識のうちに、そんな境遇を楽しんでいるようなところも。

茅舎(ぼうしゃ)ノ感

芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞夜哉
「其世の雨をばせをの葉にききて、独寝(ひとりね)の草の戸」の前書きあり。芭蕉の葉に雨が当たるとどんな音がするのだろうか。杜甫や蘇東坡の詩境をしのびつつ、芭蕉の葉に雨音を聴きながら独り寝する。「野分の風が激しく庭の芭蕉葉を吹き荒らしている夜、草庵の内に独り座し、盥(たらい)に落ちる雨の音に耳を傾けていると、杜甫や蘇東坡(そとば)の侘びの生活への想いが偲ばれることだ。」芭蕉の生活のリアリティでもあり、見出した侘び趣味の表現でもあるようだ。野分が芭蕉の葉を揺らし、漏れ落ちる雨を盥に受けて、その音を聞きながら侘び住まいに親しんでいる。

深川冬夜ノ感
櫓(ろ)の声波をうって腸(はらわた)氷る夜やなみだ
寒夜、独り草庵に孤愁を詫びていると、江上に櫓が波を打つパサッという音が聞こえ、腹の底まで凍てつくような想いがして、不覚にも涙を流してしまった。杜甫の詩を芭蕉庵の風景に重ねて、その侘びの情を推しはかることはできても、侘びの本当の楽しみを知るまでにはいたってはいない。杜甫のように多病をかこい、粗末なあばら屋の芭蕉の葉の蔭に隠棲して、門人たちの施しで生活する俳諧師としての暮らしを、芭蕉は「乞食(こつじき)の翁(おきな)」と卑下する。

くれくれて餅を木魂(こだま)のわびね哉
年も暮れに暮れ、いよいよ大晦日も近づいて、あちこちから餅つきの音が響いてくる。草庵独居の自分は餅をつくこともなく、侘しく寝ているのだよ。 

1682年 39歳 天和二年

6月、仏頂和尚は、土地をめぐる鹿島神宮との争いに勝訴したが、住職をしていた根本寺を弟子に譲り、行脚の旅に出たようだ。芭蕉の胸に、仏頂和尚の行脚修行の旅の生き方が肝銘として残ったのではないか。
「芭蕉」の俳号を初めて使用する。
以降も「ばせを」や「芭蕉(庵)桃青」、「風羅坊芭蕉」、「泊船堂芭蕉」などの名を使っている。

12月、江戸駒込大円寺を火元とする江戸大火(八百屋お七の「お七火事」)により芭蕉庵消失。火宅・無常・無所住の心。
人を頼って甲斐へ。


笠はり1」(「世にふるも」句文)
花にうき世我酒白く食(めし)黒し
江戸の連衆との歌仙での発句。憂いを抱いて酒の本当の味がわかり、貧に居て初めて銭のありがたみがわかる。人々は花に浮かれる浮世だが、我が貧しい草庵では酒は濁酒、飯は麦飯で足りている。この句に一晶は「眠を尽す陽炎の痩」と脇句をつけている。「痩」は「冷え」「痩(や)せ」「乾(から)び」と並んで枯淡を志向する美的理念の一つ。(山本健吉)
氷苦く偃鼠(えんそ)が喉(のど)をうるほせり
あさがほに我は食(めし)くふおとこ哉

「草の戸に我は蓼(たで)くふ蛍哉」(其角)自身は放蕩三昧の生活をしていくせに、いけしゃあしゃあと、こんな侘びの句を平気でつくる。この句に対して芭蕉はこの「あさがほ」の句を作った。「蓼くふ虫も好き好き」を踏まえ、我を「蓼くふ蛍」という其角の鬼才。芭蕉は我を「食くふおとこ」(朝顔を見ながら食べる平凡な男)と対置させた。なんということもない句だが、朝顔に向かって黙って朝飯を食べる男、そんな芭蕉が好きだ。
手づから雨のわび笠をはりて
世にふるもさらに宗祇(そうぎ)のやどり(しぐれ)哉
「ふる」は「経る」であり「古」であり「降る」でもある。「ふる」は時雨の縁語。坡翁=蘇東坡は雲の浮かぶ広い空を笠にたとえた。老杜=杜甫は呉天の雪を笠として戴いたのだろうか。芭蕉庵での侘び住まいのつれづれ、しぶ笠を張りながら、旅に生きた西行法師の笠を思う。この世に生きながらえるのも、宗祇の詠んだ時雨の宿りのようなものだなあ。
元句は宗祇の「世にふるもさらに時雨の宿りかな」。元禄元年の「笠はり2」の俳文に続く。「彼(かの)西行の侘笠(わびがさ)か、坡翁雲天(はおううんてん)の笠か。いでや宮城野の露見にゆかん、呉天の雪に杖をひかん。霰(あられ)に急ぎ、時雨を待て、そぞろめでて、殊に興ず。興中(きょうちゅう)俄(にはか)に感ることあり。ふたたび宗祇の時雨にぬれて、自ラ筆をとりて、笠のうちに書付侍りけらし。」宗祇の句は、さらに「世にふるは苦しきものを槙(まき)の屋にやすくも過ぐる初時雨かな」(新古今集 二条院讃岐)による。「世にふる」といういいかたは現代ではあまりしないが、古来からのこの言い回しはいろいろな意味がこめられていて新鮮で面白い。芭蕉の句は最初は「世にふるは」だった。「世にふるも」より意味がはっきりしてクール。

1683年 40歳 天和三年

甲斐より江戸に戻る。門人・友人知己の喜捨により新築された芭蕉庵に移る(第二次芭蕉庵)。6月、伊賀の母死去。
みなしぐり」、其角が編者。漢詩文調の俳諧撰集。
くわのみや花なき蝶の世すて酒
「花なき蝶」はこれからどうやって生きていけばよいのだろう。芭蕉は「花なき蝶」に自らを重ねる。芭蕉に何があったのか、「世すて酒」をあおる。40歳と言えば「四十からもんどりかへせ老いの春」(作者不明)や「命長ければ恥多し。長くとも、四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。」(「徒然草」第七段)江戸時代人生50年、40歳は完全に老境の始まり。生き方もいろいろ。芭蕉も世捨て酒などといっている場合ではないのだが。
馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉
芭蕉が江戸を焼け出され甲斐に寄寓していた時の作。
あられきくやこの身はもとのふる柏

やはり詫び趣味は変わらない。

1684年 41歳 天和四年
(貞亨元年)

8月、門人千里を伴って「野ざらし紀行」の旅に出る。帰郷して母の供養。
東海道を経て伊勢神宮外宮参詣。大垣・桑名・熱田・名古屋に滞在。
名古屋で歌仙「冬の日」を巻く。連衆は、芭蕉・野水・荷兮・重五・杜国・小池正平。蕉風の確立。

馬に寝て」の詞書、「狂句こがらしの」の詞書
唐土(もろこし)の俳諧とはんとぶ小蝶
唐土にも俳諧はあるのだろうか。あるならどんな句を作っているのか。飛ぶ小蝶よ教えてくれ。
奈良七重七堂(しちどう)伽藍八重ざくら
世にさかる花にも念仏申しけり
この句は蕪村のものと思いきや芭蕉だった。やや線香くさい句。41歳にしてこういう句を詠むとは。
野ざらしを心に風のしむ身かな

「野ざらし紀行」(「甲子吟行」)の旅の門出の句。「千里に旅立ちて路粮(みちかて)をつゝまず、三更月下(さんこうげっか)無何(むか)に入るといひけん、昔の人の杖にすがりて、貞享甲子(ちょうきょうきのえね)秋八月、江上の破屋(はおく)を出づる程、風の声そゞろ寒げなり。」の後にこの句が来る。我が屍を野にさらす覚悟で旅に出た。だが我が心を吹き抜ける秋風が冷たい。こんな芭蕉にしびれる、かっこいいと思う。江戸時代からの男のロマン。
霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き
あるべきところにあるべきものがない。それも一興。
猿を聞人捨子に秋の風いかに
道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり

道のべの木槿を見ていたら馬がパク、ムシャムシャっと食べてしまった。詞書「眼前」。この句は眼前体ともいわれる即興句だが、まさに眼前の一瞬を句にした。大井川を越えてからの作か。
馬に寝て(馬上落んとして)残夢月遠し(残夢残月)茶のけぶり
小夜中山での作。最初は「残夢残月」だったが、「残夢月遠し」に変えた。馬に寝て落ちそうではっと眼をさましたら、茶を煮る煙のなか残夢と残月。
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ
伊勢山田での作。前文「西行谷の麓に流あり。をんなどもり芋あらふを見るに」。西行谷には「二見の西行谷」と宇治の西行谷」の2つの伝承地がある。女たちが芋を洗っているところに芭蕉が通りかかる。西行ゆかりの地でもあり、西行の「江口の君」の話しを思い出す。宿に泊めてくれない遊女に西行は、「世中をいとふまでこそかたからめ仮のやどりを惜む君かな」(現世をいとうことまでは難しいでしょうが、仮の宿さえ惜しむとは。)それに対して江口の遊女は「世をいとふ人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ」(世をいとう出家した人ですから、こんな遊女の宿などに泊まりたいなどと思ってくださいますな。)江口の遊女と芋洗う女とではだいぶ状況が異なるが、芭蕉の遊び心か。
手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜
芭蕉の母は前年の6月に他界した。芭蕉は伊賀上野の兄の家で数日過ごし、母の白髪を拝んで涙した。「秋の霜」は白髪の比喩。
きぬた打て我にきかせよや坊が妻
吉野の寺の宿坊にて詠める句。「みよし野の山の秋風さよふけて古里寒く衣うつなり」(新古今集・参議雅経)を踏まえるか。砧打ちは現代ではないが、かって木綿や麻の生地をやわらかくするために木槌で打つ作業をいう。
露とくとく心みに浮世すすがばや
「野ざらし紀行」の「西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町ばかり分け入るほど、柴人(しばびと)の通ふ道のみわづかに有りて、さがしき谷を隔てたる、いとたふとし。かのとくとくの清水は昔にかはらずと見えて、今もとくとくと雫落ちける。」の文の後に続く句。西行がこの場で、「とくとくと落つる岩間の苔清水くみほすほどもなき住居かな」と詠んだといわれ、芭蕉の句はこの歌をうけている。
御廟年経てしのぶは何を忍草
義朝(よしとも)の心に似たり秋の風

源義朝は平治の乱で破れ殺害されるが、その心が「秋の風」とはどういうことか。義経の母である常盤御前と何か関係があるのか。
秋風や藪(やぶ)も畠も不破の関
不破の関は古来の歌枕で、岐阜県不破郡関ケ原町松尾にある。平安初期には廃止されていたらしい。「人すまぬ不和の関屋の板庇荒れにしのちはただ秋の風」(新古今集・藤原良経)を踏まえている。「藪も畑も」がいい感じに効いている。
しにもせぬ旅寝のはてよ秋の暮
「野ざらし紀行」には、「大垣に泊まりける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出る時、野ざらしを心におもひて旅立ちければ」の文の後にこの句が続いている。木因の家で休んでいるときの句だろうか。野ざらしを覚悟して江戸を出たが、死にもせず大垣まで旅寝を重ねながらよくやってきた。
明けぼのやしら魚白きこと一寸
「野ざらし紀行」には、「草の枕に寝あきて、まだほのぐらきうちに濱のかたに出でて、」という文に続いてこの句がある。場所は伊勢桑名の木曽川の河口に近いあたり。まだ薄暗いなかの白魚の一瞬の白いきらめきを「白きこと一寸」と印象的に表現している。
此海に草鞋すてん笠しぐれ
しのぶさへ枯れて餅かふやどり哉

「熱田に詣(もうず)」という題。わかったようでよくわからない句。「枯れて餅かふ」に俳味を感じるのだが。
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
(歌仙「冬の日」の発句)
「野ざらし紀行」には、この句の前に「名護屋に入る道のほど風吟す」とある。名古屋での句会の席で出た句。竹斎は名古屋の医師だが、狂歌を詠みながら諸国を行脚、放浪した藪医者で、名古屋に流れ着いて開業していた。狂歌の才子ではあったが、身なりは乞食然としていたようで、その格好のまま治療に当たっていたという伝説がある。「狂句」とは、川柳の別称であるとともに、連歌に対して俳諧を卑下していう言葉であるようだ。俳諧は、「戯れ」「和」さらに「即興」「滑稽」「挨拶」といった性格をもっていた。
芭蕉は、木枯らしに吹かれて俳句を詠んで放浪している自分の姿はほとんど竹斎だなあ、というのだ。
その竹斎の格好のまま、年末になってもまだ笠や草鞋の旅装束で暮らしている。そんな自分を風狂の狂句に詠んでいる。
海くれて鴨のこゑほのかに白し
「鴨のこえほのかに白し」と芭蕉はいう。海浜の夕暮れ、薄暮は白暮か。
年くれぬ笠きて草鞋はきながら
「爰(ここ)に草鞋(わらじ)をとき、かしこに杖をすてて、旅寝ながらに年のくれければ、」という前書き。芭蕉は年の暮れを旅しているのだろうか。旅から帰ってきたが、笠をきて草鞋を履いた気分のまま、年の暮れになってしまった、ということだろうか。故郷の伊賀上野での越年にさいして詠んだ句。気分は旅寝そのまま。人生という時間は旅のようなもの、流れゆくもの。諸行無常の人生。
白菊よ白菊よ恥長髪よ長髪よ
「命長ければ恥多し。長くとも、四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。」(吉田兼好「徒然草」第七段)延命の白菊の花弁は白髪のように長く垂れていつまでも萎れない。命長いと恥じ多い、と言われると私のような者は恥じ入ってしまう。私は坊主頭だからいくらかはよかったのだろうか。
元日やおもへばさびし秋の暮
単に、元日なのに寂しいといっているだけ、多くの俳人も同じような句を作っている。やはり芭蕉もそういう思いだったのか、ただそういってみただけなのか。

1685年 42歳 貞亨二年

伊賀を出て奈良興福寺の薪能、二月堂お水取り見物。京都鳴瀧の三井秋風の別荘に半月滞在。その後、伏見を経由して大津へ。「野ざらし紀行」旅を終えて木曽路を経て江戸に帰る。
めでたき人の」の詞書
将軍綱吉、最初の生類憐みの令
杜若(かきつばた)われに発句のおもひあり
歌仙の席で、庭の杜若を見て詠んだもの。芭蕉の発句(俳句)への思い。さあ、詠もうじゃないか、句にせずにはおれない思いがあるんだ、といった溢れる思い、意気込みか決意か。珍しく元気な芭蕉。
春なれや名もなき山の薄霞
山路来てなにやらゆかしすみれ草

京都から大津へ抜ける山道(小関越え)で詠まれた。「なにやらゆかし」菫の花を見たときの心の揺らぎ。そんなことってあるよね。
辛崎の松は花より朧にて

この句は最初は、「辛崎の松は小町が身の朧」だったらしい。煙雨の中の朦朧とした松、孤独な小町の行く末への思い。そして「花より朧かな」になり、最終的に「花より朧にて」となった。松は花より朧というところに俳諧があるというところか。
命二つの中に生たる櫻哉
命二つとは、芭蕉と土芳のこと。芭蕉を一途に思慕する土芳に20年ぶりに合った。芭蕉から桜の贈り物。2つの命の出会い、それを祝福するかのような満開の桜。
菜畑に花見貌なる雀哉
いざともに穂麦喰はん草枕

「伊豆の国蛭(ひる)が小島の桑門、これも去年(こぞ)の秋より行脚しけるに我が名を聞きて草の枕の道づれにもと、尾張の国まで跡をしたひ来たりければ、」との前文がある。ここでの桑門とは路通のことらしい。路通はこの後、芭蕉の弟子となる。芭蕉はその路通に、さあいっしょに穂麦でも食べよう、お互い辛い草枕の身なのだから、とでも言っているようだ。
白げしにはねもぐ蝶の形見哉
「杜国におくる」という題。白げしは杜国、はねもぐ蝶は芭蕉か。杜国との別れへの痛切な思い。心の痛み。
行駒の麦に慰むやどり哉
「行駒の麦に慰む」。麦に慰むのは駒か芭蕉か。そのような甲斐の宿というのだが、「麦に慰む」旅情が利いている。「うは風に音なき麦をまくらもと」は蕪村の句。芭蕉の宿も、音なき麦を枕元で楽しむような宿だったのだろうか。
山賤(やまがつ)のおとがい閉るむぐらかな
「むぐら」(葎)は、生い茂って藪(やぶ)のようになる、つる草の総称。山で仕事をする人、問うても返事もない。
夏衣いまだ虱(しらみ)をとりつくさず

江戸の草庵に帰ってきた。着ていた夏衣の虱もまだそのままになっている。旅の感動や余韻が残り、虱取りどころではない。
たび寝して我句をしれや秋の風
芭蕉は、旅に出ることで自分の句が何であるのか、表現とは何かを考え続けた。風流の誠を追い求める生き方が、旅寝の中で見えてきたということか。いや、あなたも旅寝のひとつでもして、自分の句が何であるのか考えてみたら、ということか。「此の一巻は必ず紀行の式にもあらず。ただ山橋野店(さんきょうやてん)の風景、一念一動をしるすのみ。・・・他見恥づべきものなり。」(「野ざらし紀行」のあとがき)「東海道の一筋も知らぬ人風雅におぼつかなし」(三冊子・しろそうし) 旅のなかで見た風景への一念一動、人生の、人の世の喜怒哀楽。

めでたき人の数にも入(いら)む老いのくれ
年の暮れか老いの暮れか。なんとかこの年まで生きてきた。いちおう「めでたき人の数に入」るのだろう。旅から帰ってきた安堵感、幸せ感、でもなんとなく我が身の老いを感じている芭蕉。

1686年 43歳 貞亨三年

井原西鶴『好色五人女』
荷兮が「春の日」を編集。「冬の日」の続編。門人の句が主であり、芭蕉の作品は「古池」などわずか。
芭蕉庵で蛙の句の句合「蛙合」。
古池や蛙(かはず)飛こむ水のをと
古池に蛙が飛び込む水の音がする。「鳴く蛙」に対する「飛び込む蛙」という感性や発想が新しいものとされる。其角が「山吹や」のほうがよいのではないかといったという話しも伝わっている。古池は芭蕉庵の近くにあった杉風の生簀のような池だといわれる。芭蕉にとっては、「蛙飛び込む水の音」は眼前の風景、現前のできごとをそのまま句にしただけのことではなかったか。生きることの哀しさや寂寥感、侘び・さび・閑寂・幽玄の趣と解釈する向きもある。受け取り方や解釈は読者の自由である。だがこの句は、「正風開眼の句」とされ、日本人の誰もが知っている俳句の古典となっている。
雪丸げ」の詞書
東にしあはれさひとつ秋の風
東と西いずれにいても、秋の風には哀れさを誘われる。
名月や池をめぐりて夜もすがら

名月の夜、其角ら門人が集まり、名月の鑑賞会のようなものをひらいていた時の句。月を見て「池をめぐりて夜もすがら」が俳諧、日本の伝統的な風狂の精神。観月の風流はどこへいってしまったのだろう。昔の人は現代人には思いもよらないような観月を楽しんでいた。
座頭かと人に見られて月見哉
ものひとつ瓢(ひさご)はかろきわが丗哉

「ものひとつ」は、米を入れる瓢一つ。瓢の米は残り少なく、私の今の生活のように軽い。瓢の米が少なくなると門弟たちが米を入れていってくれる。貧しく乏しい暮らし、それでもどうにかやっていける。
君火をたけよきもの見せむ雪まるげ
「芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水(しんすい)の労をたすく」(「おくの細道」)と芭蕉は曾良のことを書いている。「雪だるまをつくって見せてあげるよ」、この句はその曾良に精一杯の感謝の気持ちを込めて詠んだもの。
酒のめばいとど寝られぬ夜の雪
「物をもいはず、ひとり酒のみて、心にとひ、心にかたる。」独り酒を飲んで物思いにふけりたいが、「月の夜、雪の朝」は友が尋ねてくるのは致し方ないことだ。雪を眺めながら、酒を飲み、筆をとって何かを書こうするが、何も浮かんでこない。
酒を飲んでも寝られそうもない、そんな雪の夜もある。芭蕉にしては、なんとストレートな句であることか。月や雪は、人の心のうちまで浄化してくれるものなのだろうか。俳聖にしてから、ひとり酒を飲みたい気分の時もある。
年の市線香買に出ばやな
年の市で世の中は忙しく騒がしい。私としては線香でも買いに出ようかな。独り暮らしの私には、年が暮れたからと言って特に忙しいわけでも買い物しなければといったものもない。暮れの街中の雑踏にはなんとなくひかれるものがある。たいして必要なものでもないが、線香でも買いに行こうかな。「何に此の師走の市にゆく烏」という、何かへの怒りのような句も残している。  
月雪とのさばりけらしとしの昏
俳諧は「夏炉冬扇」のごときもの。や雪やと世の中のためにもならぬ風流三昧に過ごしてきた。のさばってき月てしまった年の暮れ。芭蕉の面目躍如。

1687年 44歳 貞亨四年

曽良・宗波を伴い鹿島神宮に向け江戸を発つ、「鹿島詣」。
「あつめ句」成る。
笈の小文」の旅に出発。蟄居中の杜国を越人とともに伊良子崎に訪ねる。
伊賀上野に帰り、越年。
箱根越す人のあるらし今朝の雪
よくみれば薺(なずな)花さく垣ねかな

ふっと見た垣根。そこには小さな白い花が。つい見入ってしまった。人の世の営みと寄り添うような素朴な小さな白い花。芭蕉はそんな気分を楽しんでいる。「妹が垣根三味線草の花咲きぬ」(蕪村)三味線草はなずな・ぺんぺん草の別名。蕪村は、いとしい芸者の三味線草の花を見ている。
花の雲鐘は上野か浅草か
寺に寝てまこと顔なる月見哉
五月雨ににおの浮巣を見に行む

琵琶湖はかって「にほの海」とも呼ばれていた。「にほの巣」は、水草の茎を支柱として水面に「浮き巣」をつくり、水面の上下に従って巣も浮き沈みするようになっている。芭蕉はその「にほの浮き巣」を見に行こうというのだ。芭蕉は、五月雨の中、浮き巣を見に行くということに「俳諧がある」という。俳諧の世界は一歩抜け出した新しみなくてはならない。
蓑虫の音を聞きに来よ草の庵
月はやし梢は雨を持ちながら
酔うて寝んなでしこ咲ける石の上

河原の石ころだろうか大きな石の上だろうか。なでしこの花が咲いているなかで、いっぱいやって昼寝。旅の途中、そういう時もある。
旅人と我が名よばれん初時雨
「笈の小文」で最初に出てくる句。好きな句のひとつ。「神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、」の後に続いている。自分のことを旅人と呼んでほしいといっているのか、呼ばれたというのだろうか。芭蕉の好きな初時雨の中で。時雨の中、行人・旅人と呼んでほしいものだ、いったところか。尊敬する西行や宗祇のように自分も風狂の旅人として生きよう。覚悟は決めた、だがもう初時雨の季節になってしまった、「定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して」、行くしかない、自分で選んだ道だから。
星崎の闇を見よとや啼千鳥
寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき
冬の日や馬上に氷る影法師

鷹一つ見付けてうれし伊良湖崎

鳥羽の方へ渡ろうとしている鷹だろうか。私は明日、海を渡る。
人のいほりをたずねて
さればこそあれたきままの霜の宿
杜国の隠れ家である美保での作。「さればこそ」、思っていたとおりの荒れたままの霜ふった杜国の侘び住まい。
旅寝して見しや浮世の煤払い
漂白の旅寝の人生、世間は年の暮れの煤払い。芭蕉はこの二つを見ている。己の生き様、人生を見ている。
いざさらば雪見にころぶ所迄
「いざ出でん雪見にころぶ所まで」が初案。「雪見にころぶ」芭蕉の心が俳諧。
旧里や臍(ほぞ)の緒に泣としのくれ

1688年 45歳 貞亨五年
(元禄元年)

柳沢吉保が側用人に。
井原西鶴『日本永代蔵』
2月、杜国と落合い伊勢神宮参拝。吉野、高野山、和歌の浦、奈良、大阪、須磨、明石、京都、ここで杜国と別れる。その後、京都、岐阜、鳴海・名古屋遊ぶ。
8月、越人と信濃路「更科紀行」の旅、姥捨てに向かう。
芭蕉庵で「深川八貧」の句会。

夏はあれど」の詞書、「蛸壺や」の詞書、「おもかげや」句文、更級姥捨月之弁
二日にもぬかりはせじな花の春
元日は伊賀上野の生家、兄の家で旧友らと昼まで酒に興じていた。二日にはぬかりのないようにせねば。
はだかにはまだ衣更着(きさらぎ)の嵐かな
此山のかなしさ告げよ野老堀(ところぼり)

伊勢にて
神垣(かみがき)やおもひもかけず涅槃像
伊勢の外宮にて、思いもかけず涅槃の仏像を見た。当時は神仏混淆の時代、二月十五日の涅槃会で外宮の館にも涅槃像が安置されていたようだ。
伊勢山田
何の木の花とはしらず匂哉

神宮に奉納し句。「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行?)を元にしている。伊勢の神域の神々しさを詠んだ挨拶か。
さまざまのこと思い出す桜かな
故主君蝉吟公の庭での句。芭蕉は主君の仕えていた若い日のことを思い出し、感無量の思いを句にした。「さまざまなこと」しかなかった。
乾坤無住同行二人
吉野にて桜見せふぞ檜の木笠
初瀬
春の夜や籠り人(ど)ゆかし堂の隅

芭蕉と杜国は伊勢をたって翌日長谷寺に詣でた。「籠り人ゆかし」の初瀬の参籠は古典に多くえかがれる。
花の陰謡(うたひ)に似たる旅ねかな
芭蕉は吉野の花見気分。鼻歌まじりの旅寝かな。どうということのない俳文と句だが、芭蕉の旅の実相を垣間見せてくれる。心細い旅の中で、農夫の親切で一夜を借り、それなりのもてなしを受けた。その主の情けがうれしくて、つい句が出てしまった。「風狂の精神」の発露。
ほろほろと山吹ちるか瀧の音
吉野川の山吹はほろほろと散るか。
日は花に暮れてさびしやあすなろう
この句は「さびしさや」の句に続いていく。「笈の小文」に出てくる句。あすなろの木は「ヒノキ科」ではあるが檜とは区別される。明日は檜になれるのか、檜になれなかった木なのか。
さびしさや華のあたりのあすなろう
「あすは檜(ひのき)とかや、谷の老木のいへること有。きのふは夢と過ぎて、あすはいまだ来たらず。ただ生前一樽(いっそん)の楽しみの外に、あすはあすはといひくらして、終(つひ)に賢者のそしりをうけぬ。」という俳文の後にこの句が続く。芭蕉にも「あすなろ」の思いがあったのだろうか。
父母のしきりに恋し雉(きじ)の声
「山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」(行基)を踏まえている。
行春にわかの浦にて追付たり
一つぬいで後に負ぬ衣がへ
若葉して御目の雫ぬぐわばや

唐招提寺での作。鑑真和尚の盲目の肖像に涙する芭蕉。鑑真への芭蕉のやさしい気持ち。
草臥(くたび)れて宿かる比や藤の花
歩き疲れてたどりついた宿。そこに疲れたように枝垂れかかる藤の花。
月はあれど留主のよう也須磨の夏
「卯月(うづき)の中比、須磨の浦一見す。うしろの山は青ばにうるはしく、月はいまだおぼろにて、はるの名残もあはれながら、ただ此浦のまことは秋をむねとするにや、心にもののたらぬけしきあれば、
ばせを
夏はあれど留守のよう也須磨の月」(「夏はあれど」の詞書)
蛸壺やはかなき夢を夏の月
須磨の浜の蛸壺に、滅亡して蛸になった平家の哀れをみた。いや芭蕉は蛸のような自分をみていたのかもしれない。はかない夢・はかない人生、何か笑ってしまうような可笑しさがある。「はかなき夢」をみる蛸とはかない「夏の月」。なんかコミカルな感じとはかなさが一体になっていて、私の好きな句のひとつ。
面白うてやがて哀しき鵜舟(鵜飼い)哉
鵜飼は面白いが、それが終わると悲しみが迫ってくることだ。悲しみは鵜舟のかがり火が消えた後の闇の悲しさか、殺生して生きることのはかなさ悲しさか。
たびにあきてけふ幾日やら秋の風
旅に飽いた芭蕉の実感。
粟稗(あわひえ)にまづしくもなし草の庵

芭蕉らしい稗や粟の清貧。その清貧を楽しんで悠悠自適の生活。「まずしくもなし」が初案で「とぼしくもあらず」が成案とか。
かけはしやいのちをからむ蔦かづら
木曽の架け橋は岩山の横っ腹に張り付いている。その架け橋は蔦でできているのだろうか。私のいのちも蔦かづらにからむ。
おくられつおくりつはては木曽の秋
草いろいろおのおの花の手柄かな
俤(おもかげ)や姥ひとり泣月の友

「ことし姥捨の月みむことしきりなりければ、八月十一日みの国をたち、道とほく日数すくなければ、夜に出でて暮に草枕す。思ふにたがはず、その夜さらしなの里にいたる。山は八幡(やはた)という里より一里ばかり南に、西南に横をりふして、すさまじく高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只あはれ深き山のすがたなり。「なぐさめかねし」といひけんもことわりしられて、そゞろに悲しきに、何故にか老たる人を捨たらんと思ふに、いとゞ涙も落そひければ、」(「更科姥捨月之弁」)。の前書きに続く句。
いさよひもまだ更科の郡哉
身にしみて大根からし秋の風

身に染みてからいのは大根か身を切る秋の風か。
吹き飛ばす石はあさまの野分哉
木曾の痩もまだなをらぬに後の月
西行の草鞋もかかれ末の露
冬籠りまたよりそはん此のはしら

寂しい芭蕉に冬が近付いてくる。また草庵のこの柱に寄り添って冬ごもりか。なんかほほえましく、かわいらしい芭蕉。そんな顔をみせることもある。
二人見し雪は今年も降りけるか
「庭竈集」に「尾張十歳、越人と号す。越路の人なればなり。粟飯(ぞくはん)・柴薪(さいしん)のたよりに市中に隠れ、二日つとめて二日遊び、三日つとめて三日あそぶ。性酒をこのみ、酔和する時は平家をうたふ。これ我友なり」と前書きがある。去年、伊良湖岬で杜国を訪ね、二人で見た雪を思いやり、懐かしんでいる。どってことない句だが、越人についての前書きが面白い。
雪の夜の戯に題を探て、米買の二字を得たり
米買に雪の袋や投頭巾(なげずきん)

盗人(ぬすびと)に逢ふたよも有年のくれ

何の家財も財産もない草庵、そこに泥棒が入ったこともある年の暮れ。「年の市線香買に出ばやな」「何に此師走の市にゆくからす」の句に続く年の暮れの句。盗人は本当か夢かはわからないが、芭蕉の草庵になぜ盗人が。
ほととぎす今は俳諧師なき世哉

「鹿島紀行付録」に収録されている。昔歌人や俳諧師により歌に詠まれた「ほととぎす」だが、今はそれを句にする風雅を解する俳諧師もいない。

1689年 46歳 元禄二年

曾良を伴って「おくのほそ道」の旅に出る。「おくのほそ道」3月〜9月。

伊勢、伊賀上野、奈良、京都をへて大津の膳所へ。膳所で越年。
草の戸も」の詞書(雛の家) 明智が妻(「月さびよ」の句文) 「銀河の序」 「初しぐれ」の詞書
「阿羅野(あらの)」荷兮が編集。さびの境地。新時代の俳諧に迷っている人々を、荒野をゆくひとにたとえ、荷兮を道案内人としたもの。
春雨や蓬(よもぎ)をのばす草の道
「蓬をのばす」春の雨降る草の道。「百年の春雨を感じてゐる。「蓬をのばす草の道」の気品の高いのは云ふを待たぬ。」と芥川龍之介は「芭蕉雑記」で書いている。「古池や」「しずかさや」や「夏草や」「なずな花」などと並べるとやや地味だが、「春雨」の名作だと思う。春の野辺を歩んでこの句を口ずさんでいると、なんとなくうれしくなる。雨の蓬草道が芭蕉らしくてとてもいい。
月花もなくて酒のむひとり哉
今日も特にこれっといっていいこともなかった。ひとり生きている。酒を飲む。「おくの細道」旅立ち前の芭蕉にしては、高揚感もないしぶい句。
草の戸も住替る世ぞひなの家

行はるや鳥啼うをの目は涙
あらたうと青葉若葉の日の光

山も庭もうごき入るるや夏座敷
木啄も庵はやぶらず夏木立

黒羽の奥の雲厳寺にある仏頂和尚の山居の跡を、芭蕉は尋ねた。仏頂和尚は芭蕉の禅の師。「かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関(しかん)、法雲法師の石室をみるがごとし。」(おくの細道)芭蕉は「縦横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」という歌を紹介している。  
野を横に馬牽きむけよほととぎす
黒羽から殺生石に向かう途中の那須野での作。「是より殺生石に行く。館代より馬にて送らる。此の口付のをのこ、「短冊得させよ」と乞ふ。やさしき事を望み侍るものかなと、」の後に続けてこの句がある。即興の一句。
田一枚植えて立ち去る柳かな
早乙女たちが田植えを終え、次の田へ立ち去っていった。柳の木が残っていた。柳の精が田植えを舞って立ち去ったのかもしれない。
西行が「道の辺に清水流るる柳かげしばしとてこそたちどまりつれ」とよんだ歌枕、「遊行柳」。芭蕉の後、蕪村は「柳散清水枯石処」と詠んだ。
風流の初めやおくの田植うた
等窮から、「先づ白河の関いかに越えつるや」と問われ、芭蕉は「長途の苦しみ身心つかれ、かつは風景に魂うばはれ、懐旧に腸(はらわた)を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず」としながらもうたった句。奥州での最初の風流が、味わいのある田植え歌だった。

世の人の見付ぬ花や軒の栗
等窮は友人で俳諧仲間の可伸という僧を芭蕉に紹介した。可伸は等窮の近くの大きな栗の木のある家に隠棲していた。「此の宿の傍に、大きなる栗の木蔭(こかげ)をたのみて世をいとふ僧あり。橡(とち)ひろふ太山(みやま)もかくやと間(そぞろ)に覚えられて、物にかきつけ侍る。その詞、栗といふ文字は、西の木とかきて西方浄土に便(たより)ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此の木を用ひ給ふとかや。」
早苗とる手もとや昔しのぶ摺り
「みちのくのしのぶもじずり誰ゆえに乱れそめにし我ならなくに」(古今和歌集・小倉百人一首)信夫(しのぶ)の里の文智摺り(もじずり)というのがよく分からないが歌枕。
笠島はいずこ五月のぬかりみち

藤原実方は、藤原一門のなかでも由緒ある家柄の生まれで、美貌と風流を兼ね備えた貴公子、源氏物語の光源氏のモデルともいわれている。「歌枕見て参れ」との勅命で各地の名所旧跡を訪ね歩いた。名取郡笠島道祖神の前で落馬し、それがもとでこの地でなくなったと伝えられている。
小山が田のなかへ入り江のように入り込んでいる地形で、笠島の場所は分かりにくい。芭蕉は、五月雨のぬかり道の中で、とうとう歌枕の笠島を探し当てることができなかったようだ。
あやめ草足にむすばん草鞋の緒
「名取川を渡って仙台に入る。あやめふく日なり。旅宿をもとめて、四、五日逗留す。ここに画工加右衛門というものあり。紺の染緒(そめお)をつけたる草鞋(わらじ)二足餞(はなむけ)す。さればこそ、風流のしれもの、ここに至りて其の実を顕わす。」の後に続けてこの句がある。
あやめは端午の節句の菖蒲に縁があり、独特の6月の風のようなスッキリとした香りがあり、邪気を払うといわれる。あやめを草鞋の染め緒にして、旅の無事を祈るという趣向に、芭蕉は感激した。
夏草や兵共がゆめの跡
「三代の栄耀(えいえう)一睡の中にして、大門のあとは一里こなたに有り。秀衡が跡(あと)は田野に成りて、金鷄山のみ形を残す。先づ高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。康衡(やすひら)等が旧跡は、衣(ころも)が関を隔てて、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐと見えたり。偖(さて)も義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時のうつるまで泪(なみだ)を落し侍りぬ。」という記述の後にこの句が続く。
五月雨の降りのこしてや光堂
「かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺(くわん)を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠の扉(とぼそ)風に破れ、金(こがね)の柱霜雪(さうせつ)に朽(く)ちて、既に頽廃空虚(たいはいくうきよ)の叢(くさむら)となるべきを、四面新に囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぐ。暫時(しばらく)千歳の記念とはなれり。」という記述の後にこの句が続く。
蚤しらみ馬の尿する枕元
「其の夜飯塚にとまる。温泉あれば、湯に入りて宿をかるに、土座に筵(むしろ)を敷きて、あやしき貧家也。灯(ともしび)もなければ、いろりの火かげに寝所をもうけて伏す。夜に入りて、雷鳴雨しきりに降りて、臥せる上よりもり、蚤・蚊にせせられて眠られず。持病さへおこりて、消入計になん。短夜(みじかよ)の空もようよう明くれば、又旅立ちぬ。」
閑さや岩にしみ入る蝉の声
「岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧(しょうはくとしふり)、土石老いて苔滑らかに、岩上の院院扉を閉じて、物の音聞こえず。岸をめぐり、岩を這いて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。」
五月雨をあつめて早し最上川
「最上川のらんと、大石田と云ふ所に日和を待。爰(ここ)に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしして、新古ふた道にふみまようといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰に至れり。」
涼しさやほの三日月の羽黒山
「八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に引きかけ、宝冠に頭(かしら)を包、強力と云ふものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏みてのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶身こごへて頂上に到れば、日没して月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥して明くるを待。日出でて雲消ゆれば、湯殿に下る。」
雲の峰幾つ崩れて月の山

象潟や雨に西施がねぶの花

「此の寺の方丈(ほうじょう)に坐して簾(すだれ)を捲(ま)けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海天をさゝへ、其の影うつりて江(え)にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築きて、秋田にかよふ道遥かに、海北に構へて浪うち入るゝ所を汐ごしといふ。江の縱横一里ばかり、俤(おもかげ)松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟は怨むがごとし。寂しさに悲しみをくわへて、地勢魂をなやますに似たり。」
暑き日を海に入れたり最上川
五月雨を集めて涼し最上川
あつみ山吹浦かけて夕涼み

酒田を出て吹浦までは平坦な道だか、ここから象潟までは海沿いの難所が続く。芭蕉は雨のためここ吹浦で一泊したが、そのときのイメージの句か。
荒海や佐渡によこたふ天河
芭蕉は、出羽の国(山形県)から越後路に入ってから、15日間ほどは何も記していない。「暑湿(しょしつ)の労に神をなやまし、病おこりて事を記さず。」とある。暑さにやられたのと持病がおきたためといっている。鼠(ねず)の関を出てからは、村上に泊まり瀬波に遊び、新潟を通って弥彦の明神にも参詣している。さらに寺泊をへて出雲崎に宿泊、その夜は雨が強く降ったと「曾良旅日記」にはある。

出雲崎の良寛資料館裏に高台がある。海が荒れていたかどうかはわからないが、強い雨のなかで佐渡を望むことも天の川を見ることもできなかったはずだ。芭蕉は出雲崎で「荒海や佐渡によこたふ天河」と詠んだ。この有名な句は写実であるよりも虚構に近いものだといわれているが、実景以上に実景らしい。佐渡の流人の島としての悲しい歴史と旅情と乾坤の銀河。出雲崎で佐渡を眺めると、この句の絵画的イメージが実感でき、見る人を無条件に納得させてしまう。

薬欄にいづれの花をくさ枕
薬欄は薬園のこと。前書きに「細川春庵亭ニテ」とある。細川春庵は高田の医師だが、芭蕉は無理に連れてこられたようだ。この句を読んだとき「きく枕」だと思った。蕪村の句に「うは風に音なき麦をまくらもと」があり、気になっていた句だからである。音なき麦の声を枕元で聞いているような、なつかしくも悲しいような旅情を感じる。「くさ枕」ではなく「きく枕」だったら蕪村の句と同じような旅情にしたることができたのに。残念、凡作。

一家に遊女も寝たり萩と月
「今日は親知らず子知らず・犬もどり・駒(こま)がへしなどいふ北国一の難所をこえて疲れ侍れば、枕引きよせて寝たるに、一間隔てて面の方に、若き女の声二人ばかりと聞ゆ。年老いたるをのこの声も交りて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、此の関までをのこの送りて、あすは故郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝(ことづて)などしやるなり。白波のよする汀に身をはふらかし、蜑(あま)のこの世をあさましう下りて、定めなき契日々の業因いかにつたなしと、物いふを聞く聞く寝入りて、あした旅立つに、我々に向ひて、行方知らぬ旅路のうさ、余り覚束なうかなしく侍れば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひ侍らん。衣のうへの御情に、大慈のめぐみをたれて結縁(けちえん)せさせ給へ」と泪(なみだ)を落す。不便の事には侍れども、我々は所々にてとゞまる方多し、只人の行くに任せて行くべし、神明の加護必ず恙(つゝが)なかるべしと云ひすてて出でつゝ、哀れさ暫らく止まざりけらし。」
早稲の香や分け入る右は有そ海
「黒部四十八か瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古といふ浦に出づ。担籠(たこ)の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀れとふべきものをと、人に尋ぬれば、「これより五里、磯づたひして、むかふの山陰に入り、蜑(あま)の苫(とま)ぶきかすかなれば、蘆(あし)の一夜の宿かすものあるまじ」と云ひおどされて、加賀の国に入る。」
塚も動け我が泣く声は秋の風
「卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何処と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、」の後に続く句。
あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風
「旅愁なぐさめ兼て、ものうき秋もややいたりぬれば、さすがにめにみえぬ風の音づれもいとどかなしげなるに、残暑猶(なお)やまざりければ、」に続く句。
(行き行きてたふれ伏すとも萩の原 曾良)
しほらしき名や小松吹萩すすき
むざんやな甲の下のきりぎりす

「此の所、太田の神社に詣づ。実盛が甲(かぶと)・錦の切(きれ)あり。住昔(そのかみ)、源氏に属せし時、義朝公より賜はらせ給ふとかや。げにも平士(ひらさぶらひ)の物にあらず。目庇(まびさし)より吹返(ふきかへ)しまで、菊唐草(からくさ)の彫りもの金(こがね)をちりばめ、竜頭(たつがしら)に鍬形(くはがた)打(う)ちたり。実盛討死の後、木曾義仲願状(ぐわんじやう)にそへて、此の社にこめられ侍るよし、樋口(ひぐち)の次郎が使せし事ども、まのあたり縁紀に見えたり。」
石山の石より白し秋の風
「山中の温泉に行ほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也。那智・谷組の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。」
庭掃いて出でばや寺に散柳

義仲の寝覚めの山か月悲し
月清し遊行のもてる砂の上

「その夜月殊に晴れたり。「明日の夜もかくあるべきにや」といへば、「越路のならひ,猶(なほ)明夜の陰晴(いんせい)はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、気比(けい)の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭(しやとう)神さびて、松の木の間に月のもり入りたる、おまへの白砂霜(しも)を敷けるが如し。往昔(そのかみ)遊行二世の上人、大願發起(だいぐわんほつき)の事ありて、みづから草を刈り、土石を荷ひ、泥ていをかわかせて、参詣往来(さんけいわうらい)の煩なし。古例今に絶えず。神前に真砂を荷ひ給ふ。「これを遊行の砂持と申し侍る」と、亭主の語りける。」
名月や北国日和定めなき
寂しさや須磨にかちたる浜の秋

「十六日、空(そら)霽(は)れたれば、ますほの小貝ひろはんと、種(いろ)の浜(はま)に舟を走(は)す。海上七里あり。天屋(てんや)何がしといふもの破籠(わりご)小竹筒(さゝえ)などこまやかにしたゝめさせ、僕(しもべ)あまた舟にとり乗せて、追風時(とき)の間に吹きつけぬ。浜はわづかなる海士(あま)の小家にて、侘しき法華寺(ほつけでら)あり。こゝに茶を飲み酒をあたゝめて、夕暮の淋しさ感に堪へたり。」
波の間や小貝にまじる萩の塵(ちり)
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

「路通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて」に続く句。
月さびよ明智が妻のはなしせむ
光秀のエピソード。明智光秀が出世する前の貧しかった頃、連歌会を催すもお金がなくて集まった人をもてなす膳の用意もままならない。妻は黒髪を切り売ってその料とした。光秀は妻への報恩を心に決め、出世の後には「輿にものせん」の思いかなえ、終生妻へのいたわりを欠くことはなかったという。妻のけなげさと光秀の妻への想いのエピソード。
憂きわれを寂しがらせよ秋の寺
嵯峨日記の「獨住むほどおもしろきはなし。長嘯隱士(ちょうしゅういんし)の曰、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と素堂此言葉を常にあはれぶ。予も又  うき我をさひしからせよかんこどり」の句となるか。
初時雨猿も小蓑を欲しげ也
去来・凡兆編集「猿蓑」のタイトルの元になった句。
何に此師走の市にゆくからす
「何に此」と烏にいう。なぜ、何を好んで師走の雑踏の街に出て行く、此の我は。「何に此」といった表現が口をついて出るときがある。ついつい口癖になる。「何に此」。このいら立ちは師走の雑踏に対してか、自分に対してか。

1690年 47歳 元禄三年

1月伊賀上野に帰郷。
3月義仲寺の無名庵に滞在。
4月〜7月まで国分山の幻住庵に暮らし「幻住庵の記」を書く。
6月京都に出て凡兆宅に滞在。幻住庵に戻る。
伊賀に帰るが、12月には大津の乙州の新宅に滞在する。
「ひさご」(珍硯(ちんせき)が編集、観念を排して具体的な描写。「かるみ」を志向。)出板。

薦(こも)を着て誰人(たれびと)います花の春
菰を着ている人=乞食がいますと丁寧なことば。乞食もいい気持、そんな陽気の花の春。
木のもとに汁も鱠(なます)も桜かな

一里(ひとさと)はみな花守の子孫かな
行く春を近江の人と惜しみける

先たのむ椎の木も有り夏木立

幻住庵の記「かく言へばとて、ひたぶるに閑寂(かんじゃく)を好み、山野に跡を隠さんとにはあらず。やや病身、人に倦(う)んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙(つたな)き身の科(とが)を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛離(ぶつり)祖室の扉(とばそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労(ろう)じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。楽天は五臓の神を破り、老杜は痩(やせ)せたり。賢愚文質(けんぐぶんひつ)の等しからざるも、いづれか幻の栖(すみか)ならずやと、おもひ捨ててふしぬ。」の文の後に続く句。
(右の写真は幻住庵の前の椎の木)
我宿は蚊のちいさきを馳走かな
芭蕉の侘び生活と諧謔趣味か。ここまでくるとほとんど自虐的諧謔趣味。というよりこういう侘しい生活を楽しんでる。いや笑い飛ばしている。
やがて死ぬけしきは見えず蝉の声
すがたは見えないがしきりに鳴く蝉。間もなく死ぬ定めにあることを知ってか知らでか。

住みつかぬ旅のこころや置火燵(こたつ)
「いねいねと人にいはれても猶喰(なおくい)あらす旅のやどり、どこやら寒き居心を侘びて」の前書き。置火燵は持ち運びができるこたつ。「どこやら寒き居心」がすればすぐまた旅立つ。
病雁(びょうがん)の夜さむに落ちて旅寝哉
「かただにふしなやみて」という前書き。芭蕉は体調がわるいなか旅寝してたのだろうか。病雁は芭蕉自身りことか。
乾鮭(からさけ)も空也の痩(や)せも寒の内
乾鮭・空也・寒、ともにkで始まる。も・の・も・のでつながっていく。芭蕉もこの句作に苦心したようだ。

1691年 48歳 元禄四年

京都の凡兆宅から、去来の別宅、落柿舎(らくししゃ)へ。そこで「嵯峨日記」、去来・凡兆編集「猿蓑」(不易流行・さび・しおりの表現)。
市中はもののにほいや夏の月(凡兆)
下京や雪つむ上の夜の雨(凡兆)

京と大津・膳所の間を往復、風吟を重ねる。
膳所では、義仲寺に新築された無名庵に入る。

山里は万歳(まんざい)遅し梅の花
「句の事は行て帰る心の味也。たとへば、山里は萬歳おそし梅の花、といふ類なり。山里は萬歳おそしといひはなして、むぬは咲るといふ心のごとくに、行て帰るの心、発句也。山里は萬歳遅といふ計のひとへは平句の位なり。先師も発句は取合ものと知るべしと云るよし。ある俳書にも侍る也。」(三冊子・くろそうし) この句は「行て帰る心の味」だというのだ。「山里は萬歳おそしといひはなして、むぬは咲るといふ心」、これは「取り合わせ」ともいうが、「行きて帰らぬ」「生きて帰る」、その心は深い、ような気がする。
梅若菜鞠子(まりこ)の宿(しゅく)のとろろ汁
(右の写真 静岡市駿河区丸子 旧家風のつくりだが、観光客が多く、名所のような感じ)なんということのない挨拶句のような句。
不性(ぶしょう)さやかき起こされし春の雨
故郷の兄半左衛門での作。くつろいで朝寝していた芭蕉を「かき起され」たものは何か。自分の「不性」=不精さに怨みの「春の雨」。春の雨に掻き起されたものは不精さだけではない。芭蕉の心を掻き起こしたものは何か。
麦めしにやつるる恋か猫の妻
猫はなぜか恋の場面によく描かれる。猫の表情には人間的な何かがある。
猫の妻へついの崩れより通ひけり 芭蕉
巡礼の宿とる軒や猫の恋 蕪村
ほととぎす大竹藪をもる月夜
憂きわれを寂しがらせよ閑古鳥

「獨住むほどおもしろきはなし。長嘯隱士(ちょうしゅういんし)の曰、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と素堂此言葉を常にあはれぶ。予も又」(「嵯峨日記」)の後に続く句。
「とは、ある寺に獨居て云し句なり。」(嵯峨日記)が続く。
能なしの寝(ねむ)たし我をぎゃうぎゃう(きやうきやう)し(行行子)

「嵯峨日記」にある句。なんなのでしょう、この句は。芭蕉さん、だいじょうぶ?といいたくなるような句だが、残念ながら「ぎゃうぎゃうし」は行々子(ぎょうぎょうし スズメ目ヨシキリ科の小鳥のこと)、ヨシキリに能無しで眠たい我をどうしょうというんだい、といったところか。私はてっきり、芭蕉が自分りことを「この能無し」とかいいながら自分の身体をぎゅうぎゅうしているのかと思った。
五月雨や色紙へぎたる壁の跡
粽(ちまき)結ふかた手にはさむ額髪

粽を結んでいる女性が額に垂れる髪を手に挟んで耳の後ろにかけた。そんな情景を芭蕉は句にした。これは実景か妄想か。芭蕉はこの句を「物語の体」といっている。現代でも、ふとしたひょうしに女性がなにげなく見せるそんな仕草を、みたことがあるようなないような。
葱(ねぶか)白く洗ひたてたるさむさ哉
白いねぶか、洗い立てたる、寒さのイメージ。「易水に葱(ねぶか)流るる寒哉」蕪村は芭蕉のこの句からイメージをもらったか。
ともかくもならでや雪の枯れ尾花
十月に、芭蕉は江戸に帰ってきた。ともかくも生きて帰ってきた。「雪の枯尾花」のようにならずにすんだ。いやほとんど「雪の枯尾花」なのかもしれない。

1692年 49歳 元禄五年

杉風らが新築した芭蕉庵に入る。(第三次芭蕉庵)
許六入門。「かるみ」の作風。芭蕉晩年の作風。
栖去(せいきょ)之弁」「芭蕉を移す詞
うらやましうき世の北の山桜
芭蕉はなぜうらやまいがっているのか。挨拶句。「浮世の外の」だったらしいが、「浮世の北の」になった。なるほど「浮世の外の山桜」。こういう幻想的な山桜をいつかみたことがあるような気がして。「うらやまし」は余計。
鎌倉を生きて出けむ初鰹
ほととぎす啼くや五尺の菖(あやめ)草
青くても有べきものを唐辛子

座右之銘 人の短をいふ事なかり 己が長をとく事なかれ
物いへば唇寒し秋の風
こういう人生訓じみた句はいかがなものかと思うが、芭蕉も何か思うところがあったのだろうか。ただ、寒くてものをいうのもつらい、そんな秋の風といった感覚だけだったのかもしれないが。
けふばかり人も年よれ初時雨
芭蕉の好きな初時雨。そんな日は時雨を侘びながらしみじみ老年をあじわいたいものだ。私もはや老境か、いやいまだ心は老境ならず。
塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店(たな)
「歯ぐきも寒し」はわかるような気もするが、塩鯛に歯茎がみえるのかどうかわからない。
月花の愚に針たてん寒の人
月花と浮かれる愚に針を刺す。これから寒に入るのだから。もっともです。芭蕉は以前に「月雪とのさばりけらしとしの昏」と詠んでいる。風流人はどうしても月雪花と遊んでしまう。現代の金株酒女車美食博打など遊興に身を焦がすよりはましではないか。
魚鳥のこころはしらずとしの暮
蛤の生る甲斐あれとしの暮

蛤にどうして「生きる甲斐」があるのか。こういう擬人化した蛤に自身の心境を反映させている。この時期の芭蕉は死を賭したような大きな旅の後の脱力感が感じられる。それは軽みの境地ともかさなるか。

1693年 50歳 元禄六年

桃印、芭蕉庵にて没。
許六離別の詞」(柴門の辞)「閉関の説」を草す。
芭蕉の体調がおもわしくない。
年ゞや猿に着せたる猿の面
昆若(こんにゃく)にけふは売勝(うりかつ)若菜哉

面白い、芭蕉はこんな遊んでいるような句を詠むこともある。「老武者と大根あなどる若菜哉」蕪村は、芭蕉のこの句からインスピレーションを得たのかもしれない。憎らし気なこんにゃくや大根よりどうしても若菜に軍配を上げてしまう。野菜を擬人化して、あそばしている。芭蕉は晩年になって、身の回りの小さな自然に身を任せ、一体になって楽しんでいるようだ。
旅人のこころにも似よ椎の花
旅人の心とは何か。はやり芭蕉の心のことなのか。よくわからないが。
うき人の旅にも習へ木曾の蠅
許六への送別句。ここでもまた「うき人の旅」を思えと説いているようだ。「木 曾の蠅」は許六のことか。
あさがほや昼は錠おろす門の垣
元禄6年7月、1693年、芭蕉50歳のときの「閉関之説(へいかんのせつ)」の最後に出てくる句。芭蕉は7月中旬のお盆過ぎから8月の中旬までの1か月間、閉関の生活に入り、固く人には合わなかったようだ。この書はその折に書かれたもの。閉関とは、門を閉じて閑居すること。でも芭蕉の閉門は1か月で終わってしまう。まっそういうこともある。
老の名の有ともしらで四十雀(しじふから)
四十雀が明るく元気のよい声で鳴いている。老いがあるとも知らないで。と五十になった芭蕉が、己への警句だろうか。翌年に芭蕉は逝ってしまう。何かの予感なのだろうか。
いきながら一つに氷る海鼠哉
分別の底たたきけり年の昏(くれ)

「分別の底たたく」とは、ありたけの知恵をしぼるということ。年の瀬をこすのに、世の人たちは分別の限りを尽くすという。芭蕉は何に知恵を絞ったのだろうか。

1694年 51歳 元禄七年

この年、「軽み(かるみ)」を提唱する。
「炭俵」(新しい門人の野坡、利牛、孤屋が編集。「かるみ」表現。)出板。(1698年、元禄11年、「続猿蓑」、芭蕉の撰そのまま又は支考の偽撰かと詮索されている。)

「おくのほそ道」完成。元禄二年に「おくのほそ道」の旅に出てから5年の歳月がたっていた。完成はしたが出版されるのは、芭蕉没後8年たった元禄十五年だった。芭蕉は「おくのほそ道」を出版して世に問う気持ちがあったのかどうか。

伊賀上野に帰り、「おくのほそ道」の清書版を兄に渡す。
5月伊賀上野をへて、大津膳所へ。
6月 芭蕉の内縁の妻、寿貞が芭蕉庵で死去。寿貞の死を知らせる手紙を京都嵯峨の落柿舎で受け取る。
義仲寺の無名庵へ。

むめががにのつと日の出る山路かな

「むめがが」は梅が香のこと。旅の朝、山道に通りかかった芭蕉は、突然、のっと顔を出した日の出と道端から香ってきた梅の花を楽しんでいる。このころ芭蕉が提唱していた「軽み」を表現している句。
鶯や竹の子藪に老を鳴
竹藪から聞こえてきた老いたような鶯の鳴き声。芭蕉はまた自分の老いを意識している。
世を旅にしろかく小田の行戻り
「しろかき」は田植えのために、田に水を入れて土を砕いてかきならす作業のこと。田の表面を左右に行きつ戻りつしながらならす作業。「世を旅」にしている芭蕉には、しろかきの行き戻りの働く姿が自分の旅と重なっていろように思えた。
清滝や波にちり込青松葉
最初は「清滝や波に塵なき夏の月」、「大井川浪に塵なき夏の月」が、この姿に変わったもの。夏の滝の爽やかな納涼イメージか。
秋ちかき心の寄や四畳半
内縁の妻?寿貞の訃報を聞いて悲しみのなかにあった芭蕉は、四人の子弟と狭い一室で内輪の集いを開いていた。「心の寄」四畳半に芭蕉はなごんでいる。私は、深川芭蕉庵のある日の旅から帰っていた芭蕉の思いのように感じていたのだが。
前髪もまだ若草の匂ひかな
老境の芭蕉にしては色っぽい句だなと思っていたが、「前髪」をたらしていたのは若い歌舞伎役者のことのようだ。
蕎麦はまだ花でもてなす山路かな
ひやひやと壁を踏まえて昼寝かな

芭蕉が壁に足を掛けるような面白い恰好をしている。自由人、「軽み」の芭蕉。
数ならぬ身となおもいそ玉祭り
「尼寿貞が身まかりけるとききて」と前置きがある。寿貞は、我が身を「数ならぬ身」と思うような境涯だったのだろうか。芭蕉は「そんな風に思ってくれるな」と慈しんでいる。芭蕉がこんな句をささげた女性寿貞とは何者だったのか。野坡の談として、「寿貞は翁の若き時の妾にて」がある。「寿貞無仕合もの、まさ・おふう同じく不仕合」(芭蕉からの村松猪兵衛宛書簡(元禄7年6月8日))寿貞の連れ子の「まさ・おふう」は芭蕉の子ということになるが。寿貞は、芭蕉が愛した唯一の女性であったのかもしれない。寿貞の訃報の4か月後、芭蕉は逝ってしまう(10月12日)。
菊の香やならには古き仏達
秋深き隣は何をする人ぞ
此道や行人なしに秋の暮
この秋は何で年よる雲に鳥

 「何で年よる」のフレーズが胸から離れまい。還暦をすぎたあたりから、特に身に染みる。芭蕉50歳、やはり道に迷うか。芭蕉は「雲に鳥」の表現に苦しんだようだが、季語ダブリを気にしなければ「萩の花」「枯れ薄」「秋の暮れ」でもよいように思う。西の空に飛び立つ鳥のイメージか。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る
この句には芭蕉51年の人生が凝縮されているように思う。辞世の句とされている。

9月8日、「続猿蓑」を遂げた芭蕉は、支考や江戸から戻っていた二郎兵衛とともに、大坂(大阪)に向けて伊賀上野を旅立った。出発当日の8日は奈良に一泊し、翌日大坂に到着した。
9月10日の晩、芭蕉は悪寒・頭痛に襲われ、この日から10日間ほど同じ症状を繰り返した。
芭蕉は病を押して9月26日から28日まで3日連続して俳席に連座した。「秋深き隣は何をする人ぞ」(28日吟)を発句として芝柏亭俳諧が行われることになっていた29日の夜、下痢のために床に臥し、この日を境に次第に容態が悪化していった。

大阪の酒堂(しゅどう:珍碩)と之道(しどう)の争いの調停、失敗。

10月に入ると病状はいよいよ差し迫り、芭蕉は之道亭から花屋仁左衛門の貸座敷に移され、膳所、大津、伊勢などの門人に急が告げられた。
8日の夜更け、病中吟「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を示すなどの気力も見せたが、翌々日の10日になって、暮方から様態が急変した。死に際を悟った芭蕉は、同日、兄半左衛門宛に自らの手で遺書を認めた後、門人たちへの遺書を支考に代筆させた。
10月11日、朝から食を断って不浄を清めていた芭蕉のもとへ、上方の旅先から其角が駆けつけた。その夜、芭蕉は永久の別れを直ぐにして門弟たちの夜伽の句を耳に残し、翌12日申の刻(午後4時ごろ)、51歳でその生涯を閉じた。
10月12日、芭蕉逝く。
同日夜、芭蕉の遺言通り義仲寺に葬るため、去来・基角・乙州・支考・丈草・惟然・正秀・木節・呑舟・二郎兵衛の十人が、遺骸とともに淀川をさかのぼった。
13日午後柩を膳所義仲寺に運び、14日境内に埋葬。

<年齢不詳>
西行の庵もあらん花の庭
ほととぎす今は俳諧師なき世かな
子に飽くと申す人には花もなし
魚の骨しはぶる迄の老を見て

 年譜はおもに三省堂「芭蕉ハンドブック」、岩波文庫「芭蕉俳文集(下)」により、その他の資料を参考にした。
俳句はおもに岩波文庫「芭蕉俳句集」、角川文庫「芭蕉全句集」による。掲載した芭蕉の俳句は筆者の個人的な趣味みたいなもので、俳句の嗜好はひとにより異なる。