幻住庵の記
47歳 もどる
石山の奥、岩間のうしろに山有り、国分山と云(いふ)。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。麓(ふもと)に細き流れを渡りて、翠微(すいび)に登る事三曲二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は弥陀の尊像とかや。唯一の家には、甚忌(はなはだい)むなる事を、両部光を和(よは)らげ、利益(りやく)の塵(ちり)を同じうしたまふも又貴し。日ごろは人の詣(もうで)ざりければ、いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸有。蓬(よもぎ)・根笹軒(ねざさのき)をかこみ、屋根もり壁落ちて、狐狸(こり)ふしどを得たり。幻住庵(げんじゅうあん)といふ。あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子(きょくすいし)の叔父になんはべりしを、今は八年ばかり昔に成りて、まさに幻住老人の名をのみ残せり。
予又市中を去ること十年計りにして、五十年(いそじ)やや近き身は、蓑虫(みのむし)の蓑を失ひ、蝸牛(かたつむり)家を離れて、奥羽象潟の暑き日に面(おもて)をこがし、高砂子(たかすなご)歩み苦しき北海の荒磯(あらいそ)にきびすを破りて、今歳(ことし)湖水の波にただよふ。鳰(にお)の浮巣の流れとどまるべき蘆(あし)の一本のかげたのもしく、軒端ふきあらため、垣根ゆひそへなどして、卯月(うげつ)の初めいとかりそめに入りし山の、やがて出でじとさへ思ひそみぬ。
さすがに、春の名残も遠からず、つつじ咲き残り、山藤松にかかりて、時鳥(ほととぎす)しばしば過ぐるほど、宿かし鳥のたよりさへあるを、啄木(きつつき)のつつくともいとはじなど、そぞろに興じて、魂呉・楚東南に走り、身は瀟湘(せいしょう)・洞庭に立つ。山は未申(ひつじさる)にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫(なんくん)峰よりおろし、北風海を侵(ひた)して涼し。比叡の山、比良の高根より、辛崎の松は霞をこめて、城有、橋有、釣たるる舟有、笠とりにかよふ木樵(きこり)の声、麓(ふもと)の小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏(くひな)のたたく音、美景、物として足らずといふことなし。中にも三上山は士峰の俤(おもかげ)にかよひて、武蔵野の古き住みかも思ひ出でられ、田上山に古人をかぞふ。ささほが岳・千丈が峰・袴腰(はかまごし)といふ山あり。黒津の里はいと黒う茂りて、網代守るにぞと詠みけん『万葉集』の姿なりけり。なほ眺望くまなからむと、後の峰に這(はひ)ひのぼり、松の棚作り、藁(わら)の円座を敷きて、猿の腰掛けと名付。かの海棠(かいだう)に巣をいとなび、主簿峰(しゅぼほう)に庵を結べる王翁(わうをう)・徐栓が徒にはあらず。ただ睡癖(すいへき)山民(さんみん)と成って、孱顔(さんがん)に足を投げ出し、空山に虱(しらみ)をひねって座す。
たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みて自ら炊(かし)ぐ。とくとくの雫(しずく)を侘びて、一炉の備へいとかろし。はた、昔住みけん人の、ことに心高く住みなしはべりて、たくみ置ける物ずきもなし。持仏一間(じぶつひとま)を隔てて、夜の物おさむべき処などいささかしつらへり。
さるを、筑紫高良山の僧正(そうじょう)は、 加茂の甲斐何がしが厳子(げんし)にて、このたび洛(らく)にのぼりいまそかりけるを、ある人をして額を乞ふ。いとやすやすと筆を染めて、幻住庵の三字を送らるる。やがて草庵の記念となしぬ。すべて、山居といひ旅寝といひ、さる器、たくはふべくもなし。木曽の檜笠(ひがさ)、越の菅蓑(すがみの)ばかり、枕の上の柱にかけたり。昼はまれまれ訪ふ人々に心を動かし、或は宮守の翁、里のおのこども入り来たりて、猪の稲くひあらし、兎(うさぎ)の豆畑に通ふなど、わが聞き知らぬ農談、ひすでに山の端にかかれば、夜座静かに、月を待ちては影を伴ひ、燈(ともしび)を取りては罔両(もうりょう:影のもう一つ外側にある薄い影のこと)に是非をこらす。
かく言へばとて、ひたぶるに閑寂(かんじゃく)を好み、山野に跡を隠さんとにはあらず。やや病身、人に倦(う)んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙(つたな)き身の科(とが)を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛離(ぶつり)祖室の扉(とばそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労(ろう)じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。楽天は五臓の神を破り、老杜は痩(やせ)せたり。賢愚文質(けんぐぶんひつ)の等しからざるも、いづれか幻の栖(すみか)ならずやと、おもひ捨ててふしぬ。
先づたのむ椎(しい)の木も有夏木立