「しばの戸に」句文
ここのとせの春秋、市中に住侘(すみわび)て、居を深川のほとりに移す。「 長安は古来名利(みょうり)の地、空手(くうしゅ)にして金(こがね)なきものは行路難(かた)し」と云けむ人のかしこく覚へ侍るは、この身のとぼしき故にや。
しばの戸にちやをこの葉かくあらし哉
延宝8年冬、1680年、芭蕉37歳、深川の草庵に居を移した頃の最初の俳文か。
芭蕉が伊賀から江戸に出てきてから9年がたっていた。隅田川と小名木川の合流点に近い深川村の草庵は、最初は「 泊船堂」と名づけられていた。
「長安の都は昔から、名声と利欲に狂奔している街、お金のない者には住みにくく生きていくのも難しい」と白楽天がいったがもっともなことである。だが、そう感じてしまうのは私が貧乏なためであろうか。
木枯らしの風が烈しく吹きすさび、落ち葉を庭の片隅に掻き寄せている。その落ち葉を集めて焚き火をし、茶を煮て侘しい草庵ですすっている。
貧乏人には江戸の街は住み難い、といっているのか。芭蕉は窮乏生活と己の才能のなさを嘆いているのではない。むしろ笑い飛ばしているようにみえる。
だが、なぜ、市中日本橋に住み侘びて深川草庵の侘び住まいなのか。「 市中に住み詫び」るとはどういう意味なのだろう。芭蕉は直接には何も説明していない。私の乏しい理解力では心もとないが、そのまま「住み厭(あ)きた」と解釈してよいのだろうか。
それなりに恵まれていたと思われる日本橋での宗匠点者生活や水道工事請負などの生活にはもう飽きた。名声やお金のための仕事や生活からもうそろそろ離れよう、深川草庵に遁世しよう、ということになる。17世紀の芭蕉の本当の心がどのあたりにあるのかはわからないが、日本橋の生活に見切りをつけ、「
風雅の誠」をせめようと決意した芭蕉の決断がすばらしい。