栖去(せいきょ)之弁
ここかしこうかれありきて、橘町といふところに冬ごもりして、睦月(むつき)・きさらぎになりぬ。風雅もよしや是(これ)までにして、口をとじむとすれば、風情(ふぜい)胸中をさそひて、物のちらめくや、風雅の魔心(ましん)なるべし。なを放下(ほうか)して栖(すみか)を去、腰にただ百銭をたくはへて、柱杖一鉢(ちゅうじょういっぱつ)に命を結ぶ。なし得たり、風情終(つい)に菰(こも)をかぶらんとは。
放下:放棄
柱杖一鉢:禅僧が行脚に使う杖、托鉢に使う鉄鉢。
元禄5年5月、1692年、芭蕉49歳。
わかったようでよくわからない。俳句のような俳文。だが、芭蕉俳諧の凄味のようなものが伝わってきて、なぜか魅かれてしまう。
あちらこちらと俳諧の旅に浮かれ歩いて、江戸橘町というところで、正月・二月と過ごした。風雅(俳諧)もまあこれまでにして、句を読むこともやめようとしたが、風情の情感が抑えがたく、見るものもちらちら、風雅(風狂)の魔心にはかなわない。すべて放棄して住みかを去り、百銭を腰に杖と托鉢にその日を託すことにした。我ながらよくやったものだ。風雅の道を究めようとして、ついに菰(こも)をかぶって乞食の境涯にまでなろうとは。
やはり、わかったようでよくわからない。芭蕉とは生きる時代が違うからか、中世的気質といわれる芭蕉がよく見えないからか。芭蕉が実際に「菰をかぶって」俳諧を作ったわけではないだろうが、芭蕉はどうも自己破壊的なところがある。そういう中から自分の新しい生き方と芭蕉俳諧を生みだそうとしたのだろう。
いくら「風雅の魔心」に誘われたとはいえ、俳諧の道がなぜ、 菰(こも)をかぶることになるのか。「風雅もよいやこれまでにして口を閉じ」ようとするが、どうしても「風雅の魔心」が顔を出す。だが、「風雅の魔心」とは何か。
「乞食の翁」、捨てて捨ててすべてを捨てても、なお俳諧が残る。いや「風雅の魔心」がどうしょうもなく疼く。菰(こも)をかぶり、「
柱杖一鉢」に命をつなぐ。「俳諧の誠」の求道が行きつく境地か。俳諧以外のすべてを捨て去る心意気、その精神の高揚、それが芭蕉俳諧である。こういう生き方がカッコいいのだと言い張っているように見える芭蕉。
「胸中一物(いちもつ)なきを尊しとし、無能無智を至(いたれり)とす。無住無庵、又其次也。」(「
移芭蕉詞」より)
「無能無智」が最高で 「無住無庵」がその次だといっている。芭蕉の元禄3年、47歳の時の句、
「みやこちかきあたりにとしをむかへて
菰(こも)をきてたれ人います花のはる」
菰を着ていらっしゃいます、と乞食の人に敬語的な表現を使い、明るくも切ない「花のはる」と結んでいる。芭蕉には「菰をきる」ことに憧れのようなものを感じているところがある。芭蕉はみずからもまた「
乞食の翁」を自認し、「此の一筋」の道を歩く。