許六離別の詞(柴門ノ辞)
  許六離別詞
 去年(こぞ)の秋、かりそめに面(おもて)をあはせ、ことし五月の初、深切に別れをおしむ。其のわかれにのぞみて、ひとひ草扉(そうひ)をたたいて、終日(ひねもす)閑談をなす。其の器(うつはもの)、画を好、風雅を愛す。予、こころみにとふ事有。「画は何の為好や」、「風雅の為好」といへり。「風雅は何為愛すや」、「画の為愛」といへり。其まなぶ事二にして、用をなす事一なり。まことや、「君子は多能を恥」と云れば、品ふたつにして用一なる事、可感(かんずべき)にや。画はとつて予が師とし、風雅はをしへて予が弟子となす。されども、師が画は精神微に入、筆端妙(たんみょう)をふるふ。其幽遠なる所、予が見る所にあらず。予が風雅は夏炉冬扇(かろとうせん)のごとし。衆にさかひて用(もちい)る所なし。ただ釈阿・西行のことばのみ、かりそめに云ちらされしあだなるたはぶれごとも、あはれなる所多し。後鳥羽上皇のかかせ給ひしものにも、「これらは歌に実(まこと)ありて、しかも悲しびをそふる」とのたまひ侍しとかや。されば、この御ことばを力として、其細き一筋をたどりうしなふ事なかれ。猶(なほ)「古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と、南山大師の筆の道にも見えたり。風雅も又これに同じと云て、燈(ともしび)をかかげて、柴門(さいもん)の外に送りてわかるるのみ。
 元禄六孟夏末     風羅坊芭蕉


 元禄6年、1693年、芭蕉50歳。
 森川許六は、近江彦根藩士で、芭蕉晩年の弟子。江戸勤番を終えて近江に帰るときに芭蕉が餞別として許六に送った文書。
 許六は俳画に優れるが、それ以外にも諸芸に秀でて多才多能だった。「君子は多能を恥」てするなどと揶揄しながらも、「師が画は精神微に入、筆端妙(たんみょう)をふるふ。其幽遠なる所、予が見る所にあらず。」と絶賛している。
 それに比べて、「予が風雅は夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用る所なし」として、自分の俳諧は大衆に迎合しないし、何かの役に立つということもない、としている。俳諧は無用の用、まぁ、そのようなもの。風雅といっても、自分の風雅は「夏炉冬扇」のようなものとやや自虐的に表現しているが、人生の「あはれ」は古人も多く追い求めてきたもので、「古人の求めたる所」「その誠」を自分もその「一筋」に連なっているという思いがある。
 後鳥羽上皇は、藤原俊成や西行の歌は「 あはれなる所多し」、歌に実、誠心がこもっていて、しかも悲しみをそえている、とおっしゃったとか。この言葉を力と頼み、歌の伝統を探り尋ねて、見失ってはならない。
「古人の後を追ったり真似をしたりせず、古人が追い求めたところのものを追い求めよ。」(弘法大師空海といわれる)俳諧の道もまた、これと同じである。
 ちょっと技術や才能があるからといって、人まね・物まねのようなものばかりうまくてもしょうがない。 古人と同様、俳諧も俳画もその「誠」やこころを追い求める「細き一筋」をたどるような生き方がよい、として許六を諭ている。
「実(まこと)ありて、しかも悲しびをそふる」、これは芭蕉俳諧の誠にして男の美学である。芭蕉はそのような生き方をしたいものだというのだ。許六に送る言葉だが、芭蕉の本懐が素直に表現されている。

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