更科紀行
1688年45歳 もどる
さらしなの里、姨捨(おばすて)山の月見んこと、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて、ともに風雲の情を狂すもの又ひとり、越人と云。木曾路は山深く道さがしく、旅寐の力も心もとなしと、荷兮子(かけいし)が奴僕(ぬぼく)をして送らす。おのおの心ざし尽すといへども、駅旅の事心得ぬさまにて、ともにおぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、なかなかにおかしき事のみ多し。
何々と云ふ所にて、六十(むそ)ばかりの道心の僧、おもしろげもおかしげもあらず、ただむつむつとしたるが、腰たわむまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうにあゆみ来れるを、ともなひける人のあはれがりて、おのおの肩にかけたるもの共(ども)、かの僧のおひね物とひとつにからみて、馬に付けて、我をそ上にのす。高山奇峰頭(かしら)の上におほひ重なりて、左は大河ながれ、岸下の千尋(せんじん)のおもひをなし、尺地(せきち)も平らかならざれば、鞍の上しづかならず。只あやうき煩(わずら)ひのみやむ時なし。桟(かけ)はし、寝覚(ねざめ)など過て、猿が馬場・たち峠などは四十八曲がりとかや、九折重なりて、雲路にたどる心地せらる。歩行(かち)より行くものさへ、眼くるめき、たましひしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕、いともおそるゝけしき見えず、馬の上にてたゞねぶりに眠りて、落ぬべき事あまたたびなりけるを、あとより見あげて危き事かぎりなし。仏の御心に衆生のうき世を見給ふもかゝる事にやと、無常迅速のいそがはしきも、我身にかへり見られて、阿波(あは)の鳴戸は波風もなかりけり。
夜は草の枕を求めて、昼のうち思ひまうけたるけしき、むすび捨たる発句など、矢立取出(いで)て、灯(ともしび)のもとに目をとぢ、頭をたゝきてうめきふせば、かの道心の坊、旅懐の心うくて物思ひするにやと推量し、我を慰んとす。わかき時拝みめぐりたる地、あみだの尊き数を尽し、おのがあやしと思ひし事ども、噺(はなし)つゞくるぞ、風情のさはりとなりて、何を云出(いひいず)ることもせず。とてもまぎれたる月影の、壁の破れより木の間がくれにさし入て、引板(ひた)の音、鹿おふ声、処/\に聞えける。まことにかなしき秋の心、ここに尽せり。「いでや月のあるじに酒ふるまはん」といへば、さかずき持出たり。よのつねにひとめぐりも大きに見えて、ふつゝかなる蒔絵をしたり。都の人は斯るものは風情なしとて、手にもふれざりけるに、思ひもかけぬ興に入て、青宛玉巵(せいわんぎょくし)の心地せらるゝも処がらなり。
あの中に蒔絵書たし宿の月
桟(かけはし)やいのちをからむつたかづら
桟やまづおもひいづ駒むかへ
霧晴れて桟はめもふさがれず 越人
姨捨山
俤(おもかげ)や姨(うば)ひとり泣月の友
いざよひもまだ更科の郡かな
更科や三よさの月見雲もなし 越人
ひよろ/\と猶露けしやをみなへし
身にしみて大根からし秋の風
木曾の橡うき世の人の土産かな
送られつ別れつ果は木曾の秋
善光寺
月影や四門四宗も只ひとつ
吹飛す石は浅間の野分哉
「更科姥捨月之弁」
あるひはしらら・吹上ときくに、うちさそはれて、ことし姥捨の月みむことしきりなりければ、八月十一日みのの国をたち、道とほく日数すくなければ、夜に出でて暮に草枕す。思ふにたがはず、その夜さらしなの里にいたる。山は八幡(やはた)という里より一里ばかり南に、西南に横をりふして、すさまじく高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只あはれ深き山のすがたなり。「なぐさめかねし」といひけんもことわりしられて、そゞろに悲しきに、何故にか老たる人を捨たらんと思ふに、いとゞ涙も落そひければ、
俤(おもかげ)や姨(うば)ひとり泣月の友
いざよひもまだ更科の郡哉