笈(おい)の小文 もどる
1687年44歳
百骸九竅(ひゃくがいきゅうけい)の中に物有り。かりに名付けて風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすものの風に破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。終(つひ)に生涯のはかりごととなす。ある時は倦(うん)で放擲(ほうてき)せん事を思ひ、ある時は進んで人に勝たむ事を誇り、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。暫(しばら)く身を立てむ事を願へども、これが為にさへられ、暫(しばら)く学んで愚を暁(さとら)ん事を思へども、是が為に破られ、つひに無能無芸にして只(ただ)此の一筋に繋(つなが)る。西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶における、其の貫道(かんどう)する物は一(いつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)に随(したが)ひて四時(しじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。思ふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。
神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、
旅人と我が名よばれん初しぐれ
又山茶花(さざんか)を宿々にして
岩城の住、長太郎と云ふもの、此の脇を付けて其角亭(きかくてい)において関送りせんともてなす。
時は冬よしのをこめん旅のつと
此の句は露沾(ろせん)公より下し給はらせ侍りけるを、はなむけの初として、旧友、親疎、門人等、あるは詩歌文章をもて訪(とぶら)ひ、あるは草鞋(わらじ)の料(りょう)を包みて志を見す。かの三月の糧を集むるに力を入れず。紙布(かみこ)・綿小(わたこ)などいふもの帽子したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪(そうせつ)の寒苦をいとふに心なし。あるは小船をうかべ、別墅(べつしょ)にまうけし、草庵に酒肴携へ来りて行衛(わくへ)を祝し、名残を惜しみなどするこそ、ゆへある人の首途するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。
抑(そもそも)、道の日記といふものは、紀氏(きし)・長明・阿仏(あぶつ)の尼の、文をふるひ情を尽してより、余は皆俤(おもかげ)似かよひて、其の糟粕(そうはく)を改むる事あたはず。まして浅智短才の筆に及べくもあらず。其の日は雨降り、昼より晴れて、そこに松有り、かしこに何と云ふ川流れたりなどいふ事、たれたれもいふべく覚え侍れども、黄奇蘇新(くわうそしん)のたぐひにあらずば云ふ事なかれ。されども其の所々の風景心に残り、山館(さんかん)・野亭(やてい)の苦しき愁も、かつは話の種となり、風雲の便りとも思ひなして、忘れぬ所々跡や先やと書き集め侍るぞ、猶(なお)酔へる者の猛語(もうご)にひとしく、いねる人の譫言(うはごと)するたぐひに見なして、人又亡聴(ぼうちょう)せよ。
鳴海(なるみ)にとまりて
星崎の闇を見よとや啼千鳥
飛鳥井雅章(あすかいまさあき)公の此の宿に泊らせ給ひて、「 都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてて」と詠じ給ひけるを、自ら書かせ給ひて、たまはりけるよしをかたるに、
京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲
三川の国保美(ほび)といふ処に、杜国(とこく)が忍びて有りけるをとぶらはむと、まづ越人(えつじん)に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里尋ね帰りて、其の夜吉田に泊る。
寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき
あまつ縄手(なはて)、田の中に細道ありて、海より吹上ぐる風いと寒き所なり。
冬の日や馬上に氷る影法師
保美村より伊良古崎へ壱里ばかりも有るべし。三河の国の地つゞきにて、伊勢とは海隔てたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に撰び入れられたり。此の洲崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云ふは鷹を打つ処なり。南の海の果にて、鷹のはじめて渡る所と云へり。いらご鷹など歌にもよめりけりと思へば、猶(なお)あはれなる折ふし、
鷹一つ見付てうれしいらご崎
熱田御修覆
磨(とぎ)なをす鏡も清し雪の花
蓬左(ほうさ)の人々に迎ひとられて、しばらく休息する程
箱根こす人も有るらし今朝の雪
有人の会
ためつけて雪見にまかるかみこ哉
いざ行かむ雪見にころぶ所まで
ある人興行
香を探る梅に蔵見る軒端哉
此の間、美濃・大垣・岐阜のすきものとぶらひ来りて、歌仙、あるは一折など度々に及ぶ。
師走十日余り、名ごやを出でて、旧里(ふるさと)に入らんとす。
旅寝してみしやうき世の煤(すす)はらひ
「 桑名よりくはで来ぬれば」と云ひ日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍(にぐら)うちかへりて馬より落ちぬ。
歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬哉
と物うさのあまり云ひ出で侍れ共、終に季ことば入らず。
旧里(ふるさと)や臍(へそ)の緒に泣くとしの暮
宵のとし、空の名残惜しまむと、酒のみ夜ふかかして、元日寝わすれたれば、
二日にもぬかりはせじな花の春
初春
春立ちてまだ九日の野山哉
枯芝ややゝかげらふの一二寸
伊賀の国阿波の庄といふ所に、俊乗上人の旧跡有り。護峰山新大仏寺とかや云ふ、名ばかりは千歳の形見となりて、伽藍は破れて礎を残し、坊舎は絶えて田畑と名の替り、丈六(じょうろく)の尊像は苔の緑に埋もれて、御ぐしのみ現前とおがまれさせ給ふに、聖人の御影(みえい)はいまだ全(まった)くおはしまし侍るぞ、其の代の名残疑ふ所なく、泪こぼるゝばかり也。石の蓮台、獅子の座などは、蓬(よもぎ)・葎(むぐら)の上に堆(うづたか)く、双林の枯れたる跡も、まのあたりにこそ覚えられけれ。
丈六にかげらふ高し石の上
さまざまの事おもひ出す桜哉
伊勢山田
何の木の花とはしらず匂哉
裸にはまだ衣更着(きさらぎ)の嵐哉
菩提山
此の山のかなしさ告げよ野老掘(ところぼり)
龍尚舎
物の名を先づとふ芦の若葉哉
網代民部(みんぶ)雪堂に会
梅の木に猶やどり木や梅の花
草庵会
いも植えて門は葎(むぐら)のわか葉哉
神垣のうちに梅一木もなし。いかに故有る事にやと、神司(かんづかさ)などに尋ね侍れば、只何とはなし、おのづから梅一もともなくて、子良(こら)の館(たち)の後に、一もと侍る由を語り伝ふ。
御子良子(おこらご)の一もとゆかし梅の花
神垣やおもひもかけず涅槃像(ねはんぞう)
弥生半ば過ぐる程、そゞろに浮き立つ心の花の、我を道引(みちびく)枝折(しおり)となりて、吉野の花に思ひ立たんとするに、かの伊良古崎にてちぎり置きし人の、伊勢にて出むかひ、共に旅寝のあはれをも見、且は我が為に童子となりて、道の便りにもならんと、自ら万菊丸と名をいふ。まことにわらべらしき名のさま、いと興有り。いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書す。
乾坤無住同行二人
よし野にて桜見せうぞ檜の木笠
よし野にて我も見せうぞ檜の木笠 万菊丸
旅の具多きは道ざはりなりと、物皆払ひ捨てたれども、夜の料(りょう)にと紙衣(かみこ)壱つ、合羽やうの物、硯、筆、紙、薬等、昼笥(ひるげ)なんど物に包みて、後に背負ひたれば、いとゞ脛(すね)弱く、力なき身の跡ざまにひかふるやうにて、道猶進まず。たゞ物うき事のみ多し。
草臥(くたび)れて宿かる比や藤の花
初瀬
春の夜や籠り人(ど)ゆかし堂の隅
足駄(あしだ)はく僧も見えたり花の雨 万菊
葛城山
猶みたし花に明け行く神の顔
三輪 多武峯
臍峠 多武峯ヨリ龍門ヘ越ス道也
雲雀より空にやすらふ峠哉
龍門
龍門の花や上戸(じょうご)の土産(つと)にせん
酒のみに語らんかゝる滝の花
西河
ほろ/\と山吹ちるか滝の音
蜻めいが滝
布留の滝は布留の宮より二十五丁山の奥也。
津国幾田の川上に有 大和
布引の滝 箕面の滝
勝尾寺へ越る道に有り。
桜
桜がりきどくや日々に五里六里
日は花に暮てさびしやあすならふ
扇にて酒くむかげやちる桜
苔清水
春雨のこしたにつたふ清水哉
吉野の花に三日とゞまりて、曙、黄昏(たそがれ)のけしきにむかひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるは摂政公のながめにうばはれ、西行の枝折(しおり)にまよひ、かの貞室が是は/\と打ちなぐりたるに、われいはん言葉もなくて、いたづらに口をとぢたる、いと口をし。おもひ立ちたる風流、いかめしく侍れども、爰(ここ)に至りて無興(ぶきょう)の事なり。
高野
ちゝはゝのしきりにこひし雉(きじ)の声
ちる花にたぶさはづかし奥の院 万菊
和歌
行く春にわかの浦にて追付きたり
きみ井寺
跪(きぶす)はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しをおもひ、馬をかる時はいきまきし聖の事心に浮ぶ。山野海浜の美景に造化(ざすか)の功を見、あるは無依(むえ)の道者の跡を慕ひ、風情の人の実(まこと)をうかがふ。猶(なほ)栖(すみか)を去りて器物の願ひなし。空手なれば途中の愁もなし。寛歩(かんぽ)駕(が)にかへ、晩食(ばんしょく)肉よりも甘し。とまるべき道に限りなく、立つべき朝に時なし。只一日の願ひ二つのみ。こよひよき宿からん、草鞋(わらじ)のわが足によろしきを求めんとばかりは、いさゝかのおもひなり。時々気を転じ、日々に情をあらたむ。もしわづかに風雅ある人に出合ひたる、悦かぎりなし。日比は古めかしく、かたくななりと悪(にく)み捨てたる程の人も、辺土の道づれにかたりあひ、はにゅう・むぐらのうちにて見出したるなど、瓦石(がせき)のうちに玉を拾ひ、泥中に金(こがね)を得たる心地して、物にも書付、人にも語らんとおもふぞ、又是旅のひとつなりかし。
衣更(ころもがへ)
一つぬいで後に負ひぬ衣がへ
吉野出て布子売りたし衣がへ 万菊
灌仏(かんぶつ)の日は、奈良にて爰(ここ)かしこ詣で侍るに、鹿の子を産むを見て、此の日においてをかしければ、
灌仏の日に生れあふ鹿(か)の子哉
招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎ給ひ、御目のうち塩風吹入て、終(つひ)に御目盲(めしひ)ひさせ給ふ尊像を拝して、
若葉して御めの雫(しづく)ぬぐはばや
旧友に奈良にて別る
鹿の角先づ一節の別れかな
大坂にてある人のもとにて
杜若(かきつばた)語るも旅のひとつ哉
須磨
月はあれど留守のやう也須磨の夏
月見ても物たらはずや須磨の夏
卯月中比の空も朧(おぼろ)に残りて、はかなきみじか夜の月もいとゞ艶(えん)なるに、山は若葉にくろみかゝりて、時鳥(ほととぎす)鳴き出づべきしのゝめも、海の方よりしらみそめたるに、上野とおぼしき所は、麦の穂波あからみあひて、漁人(あま)の軒近き芥子(けし)の花の、たえだえに見渡さる。
海士(あま)の顔先づ見らるゝやけしの花
東須磨・西須磨・浜須磨と三所に分れて、あながちに何わざするとも見えず。「 藻塩(もしお)たれつゝ」など、歌にも聞え侍るも、いまはかゝるわざするなども見えず。きすごといふ魚を網して、真砂の上に干し散らしけるを、鳥(からす)の飛び来りてつかみ去る。是をにくみて弓をもておどすぞ、海士のわざとも見えず。もし古戦場の名残をとゞめて、かゝる事をなすにやといとゞ罪深く、猶むかしの恋しきまゝに、てつかひが峯にのぼらんとする、導きする子のくるしがりて、とかく言ひ紛らはすをさまざまにすかして、「
麓の茶店にて物くらはすべき」など云ひて、わりなき体に見えたり。かれは十六と云ひけん里の童子よりは、四つばかりもおとうとなるべきを、数百丈の先達(せんだつ)として、羊腸険岨(ようちょうけんそ)の岩根をはひのぼれば、すべり落ちぬべき事あまたたびなりけるを、つつじ・根笹にとりつき、息を切らし、汗をひたして、漸(ようよう)雲門に入るこそ、心もとなき導師のちからなりけらし。
須磨のあまの矢先に鳴くか郭公(ほととぎす)
ほとゝぎす消え行く方や嶋一つ
須磨寺や吹かぬ笛きく木下やみ
明石夜泊
蛸壺(たこつぼ)やはかなき夢を夏の月
かゝる所の秋なりけりとかや。此の浦の実(まこと)は秋をむねとするなるべし。悲しさ、淋しさ云はむかたなく、秋なりせば、いささか心のはしをもいひ出づべき物をと思ふぞ、我が心匠(しょう)の拙なきを知らぬに似たり。淡路嶋手に取るやうに見えて、須磨・明石の海右左にわかる。呉楚東南の詠もかゝる所にや。物しれる人の見侍らば、さま/゛\の境にも思ひなぞらふるべし。
又後の方に山を隔てて、田井の畑といふ所、松風・村雨ふるさとといへり。尾上つゞき丹波路へかよふ道あり。鉢伏のぞき、逆落など恐ろしき名のみ残りて、鐘懸松(かねかけまつ)より見下すに、一の谷内裏(だいり)やしき、めの下に見ゆ。其の代の乱れ、其の時のさはぎ、さながら心に浮び、俤(おもかげ)につどひて、二位の尼君、皇子を抱き奉り、女院の御裳(おんもすそ)に御足もたれ、船やかたにまろび入らせ給ふ御有様、内侍(ないし)・局(つぼね)・女嬬(にょじゅ)・曹子(ぞうし)のたぐひ、さま/゛\の御調度もてあつかひ、琵琶・琴なんど、しとね・蒲団にくるみて船中に投げ入れ、供御(くご)はこぼれて、うろくづの餌となり、櫛笥(くしげ)は乱れてあまの捨草となりつゝ、千歳のかなしび此の浦にとゞまり、素波(しらなみ)の音にさへ愁(うれひ)多く侍るぞや。