元禄2年9月、1689年、芭蕉46歳。
光秀のエピソード。明智光秀が出世する前の貧しかった頃、連歌会を催すもお金がなくて集まった人をもてなす膳の用意もままならない。妻は黒髪を切り売ってその料とした。光秀は妻への報恩を心に決め、出世の後には「輿にものせん」の思いかなえ、終生妻へのいたわりを欠くことはなかったという。妻のけなげさと光秀の妻への想いのエピソード。
芭蕉は、判官義経や明智の妻のような話が大好きな人情家であった。光秀は主君への裏切り者のような悪いイメージで語られることも多いが、江戸時代前期において光秀に対する芭蕉のような発想と評価はどの程度の意見だったのか。芭蕉には、自分にも「明智が妻」のような妻がいたらよかったのに、といった思いがあったのだろうか。芭蕉の妾だといわれいてるが「数ならぬ身」と思っている寿貞との関係はどうだったのだろうか。芭蕉の抱える現実と、こうありたいものだという理想との葛藤がうかがわれる。
「月さびよ」が効いている。貧しく寂しい秋の月だが満ち足りた静謐。芭蕉の「侘び」や「さび」は単純ではない。内に、実現したい自己や明日への希望や志、「風雅の誠」の追求といったものを秘めている。そういう緊張感の中で、今日の貧しい食卓や芭蕉の茂るあばら屋で侘びている。
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明智が妻(「月さびよ」の句文)
(ア)
将軍明智が貧のむかし、連歌会営みかねて侘び侍れば、其の妻ひそかに髪をきりて、会の料(れう)にそなふ。明智いみじくあはれがりて、いで君、五十日のうちに輿(こし)にものせんといひて、頓(やが)て云いけむようになりぬとぞ。
ばせを
月さびよ明智が妻のはなしせむ
又玄子(いうげんし)妻にまいらす。
明智が妻(「月さびよ」の句文) (イ)
伊勢の国又幻(いうげん)が宅へとどめられ侍る比(ころ)、その妻、男の心にひとしく、もの毎(ごと)にまめやかに見えければ、旅の心をやすくし侍りぬ。彼日向守(かのひゅうがのかみ)の妻、髪を切りて席をもうけられし心ばせ、今更申出て、
月さびよ明智が妻の咄(はな)しせん
風羅坊
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