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世界遺産 「ポンペイ、エルコラーノ、トッレ・アンヌンツィアータの考古学地域」1997年    ポンペイの地図



正面の山がベスビオ火山。

 ポンペイは、私が小さいときにベスビオ火山により埋もれた町ということを本で読んで、世界にはそんなことがあるんだと感動したことがあり、是非行ってみたい町のひとつだった。人々が食事をしていた時に火山灰に覆われそのままタイムカプセルに閉じこめられてしまったため、食事している姿のままで発掘されるとのとこだった。

 事実は少しちがっていたようだ。
 ポンペイはナポリから東に約25Km離れたところに位置し、紀元79年のベスビオ火山の噴火により埋もれた。灰は4mも積ったという。当時、約2万人が町に住んでいた。初期の火山活動により多くの人々は危険を感じて避難したが、避難する余裕のない人や奴隷、そして地下室があるからたいがいの火山には耐えられるとタカをくくっていた人々が生き埋めになった。現在、約2000の遺体が発掘されているという。どの遺体も高熱のガスや熱い火山灰を吸い込んでもがき苦しみ、すごい形相で死んでいったということ。下の右側の写真では苦しみながら息絶えていった様子がそのまま記録としてのこされている。
 遺跡発掘中に妙な空洞があるのを見つけ、そこに石膏を流し込んだら、下の写真のような人間の形が出てきたという。火山灰に閉じこめられた後、人体が燃焼して骨もろとも消滅した跡だった。

彩色された壁画 荷物の運送業の看板らしい

 いたるところにレリーフや壁画がのこされている。左上の写真は青果市場の壁面に描かれていた絵。


通りの要所にある水飲み場

 ここには紀元1世紀ころのローマ時代の町がタイムカプセルのように閉じこめられたまま発掘されていた。
 水は石のレリーフの口から常時流れていて、人も馬もここで水を飲んだ。しかし、石の水槽からあぶれた水はそのまま道路に流れていた。


石臼とパン焼き釜

 この石臼で小麦を挽いた。棒を通す穴が開けられておりそこに棒を通して牛に引かせたという。

 下の写真の釜でパンを焼いた。
 これはほとんど現在のパンづくりとほとんどかわらない。

 神殿、役所、劇場、公衆浴場、居酒屋、運送屋、洗濯屋、赤線地帯など、町の日常生活に必要なサービスはすべてそろっている。貴族や権力者の家、庶民の家、生活水準も社会階層によりまちまちで、現在の町の生活とほとんど変わらない。

 

盗掘が絶えなかった

 ポンペイが火山灰に埋もれてしまったという報告はローマにも届き救援活動もあったようだが、復旧不能として放置されたようだ。埋もれていることは周知の事実だったから、古代よりポンペイの盗掘は絶えなかったようだ。
 めぼしい金目のものは盗掘されつくされたという話しもある。それでも地下室などからたくさんの生活用品が発掘され、それらから当時の生活のようすをかなり具体的に推測することができるようだ。
 盗掘の話しは悲しいが、人の営みは古代も現代も、変わらないのだろうか。

道路の飛び石

 道路にはところどころ飛び石が並べられている。横断歩道という説明。でもどうして横断歩道がでっぱっているのか。道路には牛馬の糞が落ちており、水が流れ、ひょっとすると人糞や尿も流れていたかもしれない。そうすると、このような横断歩道もうなずける。道路には、馬車の通り道といわれる溝がある。写真の道路には3つの石があり、これでは馬車は通れない。当時は、車道と人の歩く道が分かれていたのかもしれない。
 糞尿の道路ではせっかくの人の道なのに台無しのような気もするが、近世になってもヨーロッパの街の道路は馬糞や人糞がそのまんま落ちているのが当たり前だったということだから、それも文化ということなのだろう。

 

ベスビオ山は、現在はほとんど火山活動を停止しているようだ。ナポリとポンペイは同じような位置にあるがどうしてポンペイが灰に埋もれたか、どうも風向きに原因がありそうだ。
 これほど離れているのに4mもの灰が積もるというのは珍しいが、鹿児島・桜島にも火山灰に埋もれた鳥居がある。風向きによっては、鹿児島市内は日本のポンペイになっていたかもしれない。

 
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photo by miura 2005.11