ピサ |
世界遺産 アッシジ・サン・フランチャスコ聖堂とその他のフランチャスコ会ゆかりの地」(アッシジ)2000年 |
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アッシジのMap |
左の写真は、サンフランチェスカ聖堂。中世さながらという形容のピッタリくる町。 アッシジの修行者たちは、「裸足で、痩せ細って、ぼろぼろの修道衣をまとい、ベルトの代わりに荒縄を締めている。」 「キリスト教の教えに従って清貧を尊び、家族を捨て私財を捨て生業を捨てて野山に臥し、善行を行って報酬を求めず、托鉢だけで露命をつなぎ、感謝の祈りを欠かさず、当初は嘲罵し石を投げて追い払っていた付近の住民も、しだいに彼らを聖者として崇拝」(「物語イタリアの歴史U」
藤沢道郎)していた。 |
サンフランチェスカ聖堂からアッシジの市街に続く道。 |
アッシジは丘の中腹に造られた中世の城壁都市。丘の頂上には城塞がある。 ここにはかって城主がいた。封建城主である。 |
アッシジの市街はさながら中世の街。イタリアの街はどこもこのような中世的な素朴な石造りのよさをよく残している。 |
1154年、皇帝フリードリッヒ1世と自治都市連合の戦争が始まり、当初は皇帝が押していたが、教皇庁が本格的に肩入れしてから形勢は逆転し、皇帝軍は大敗してフリードリッヒ1世はドイツに引き上げた。 |
教皇は、フランチャスコたちを受け入れた。異端派を支えている民衆的な基盤を教会に引き込むことなしには、教会の将来がなかったからだ。 アッシジの領主は、皇帝直系のドイツ貴族で丘の上に城を築いて街を支配していたが、残忍で横暴だったため、領主が留守の時に市民は立ち上がって居城を攻め落とし、ついで貴族たちの住居を襲って破壊した。これにより、領主や貴族の特権はすべて剥奪され、新興市民の自治都市となった。 フランチャスコたちの信仰は、このような時代に生まれた。信仰に学問や教義はいらないとして、暮らしの貧しさだけでなく、精神と知的な豊かさをも認めなかった。彼は「愛と平和と清貧」の自然主義者だったようだ。 |
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photo by miura 2005.11 |