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世界遺産 アッシジ・サン・フランチャスコ聖堂とその他のフランチャスコ会ゆかりの地」(アッシジ)2000年   



バスから。向こうの丘がアッシジの街。

アッシジのMap


サンフランチェスカ聖堂。

 左の写真は、サンフランチェスカ聖堂。中世さながらという形容のピッタリくる町。
 なだらかな丘の上に段段に築かれた町は城壁に囲まれ、中世とほとんど変わっていない。小鳥のさえずる自然、サン・フランチャスコという清貧の聖者が活動した街として有名。

 アッシジの修行者たちは、「裸足で、痩せ細って、ぼろぼろの修道衣をまとい、ベルトの代わりに荒縄を締めている。」 「キリスト教の教えに従って清貧を尊び、家族を捨て私財を捨て生業を捨てて野山に臥し、善行を行って報酬を求めず、托鉢だけで露命をつなぎ、感謝の祈りを欠かさず、当初は嘲罵し石を投げて追い払っていた付近の住民も、しだいに彼らを聖者として崇拝」(「物語イタリアの歴史U」 藤沢道郎)していた。
 ローマ教皇は彼らの修道会を開きたい願いを聞き入れた。1210年、ボロをまとい荒縄をベルトがわりにした青年の名はフランチェスコという。
 彼は「愛と平和と清貧」を説く。だが、信仰とは何か、罪とは何か。 なぜ、「清貧」なのか。なぜ、カトリックなのか。


サンフランチェスカ聖堂からアッシジの市街に続く道。

 アッシジは丘の中腹に造られた中世の城壁都市。丘の頂上には城塞がある。

 ここにはかって城主がいた。封建城主である。
 1096年の第1回十字軍から1270年の第7回十字軍により、新思想・新文化が西欧に持ち込まれた。当時のイスラム世界は西欧キリスト教世界より文明はすすんでおり、文化は洗練されていた。12世紀は、西欧キリスト教世界が異文化と接することにより大きな混乱と危機を迎えていた。
 冨を蓄えてきた新興都市ブルジョワジーは、封建的な制度を桎梏と感じ、いたるところで封建貴族・領主と衝突した。
 危機を感じた封建領主は「皇帝権」を振りかざし、対抗する都市は同盟して「教皇権」を後ろ盾とした。


アッシジの市街はさながら中世の街。イタリアの街はどこもこのような中世的な素朴な石造りのよさをよく残している。

 1154年、皇帝フリードリッヒ1世と自治都市連合の戦争が始まり、当初は皇帝が押していたが、教皇庁が本格的に肩入れしてから形勢は逆転し、皇帝軍は大敗してフリードリッヒ1世はドイツに引き上げた。
 皇帝軍がいなくなると、都市はいがみあいを始め、内分抗争も盛んだった。一方、新興ブルジョワジーはますます力をつけていた。
 教皇庁はヨーロッパ全教区から1/10の税を徴収したから経済が振興するにつれて収入は巨額になりローマに金が流れ込んだ。壮大なロマネスク教会が建ち、収入が増えるにしたがって、生活は豊かになり、聖職者の堕落が進んだ。
 聖職者と教会の堕落に、意義をとなえる信者や勢力が現れたが、教皇庁はそれらを異端として徹底的に弾圧し、火あぶりの刑に処した。ワルド派やパタリ派は貴族や騎士たちとも合流して教皇庁に対抗しようとしたが、教皇庁は20年におよぶ異端征伐に入ろうとしていた。
 フランチャスコたちが、教皇の前に現れたのはそのような時だった。 教皇の取り巻きは、フランチャスコたちに危険なものを感じた。フランチャスコたちの信仰はワルド派に近いものがあり、そのうちに教会に牙をむくことになることを恐れた。

 教皇は、フランチャスコたちを受け入れた。異端派を支えている民衆的な基盤を教会に引き込むことなしには、教会の将来がなかったからだ。

 アッシジの領主は、皇帝直系のドイツ貴族で丘の上に城を築いて街を支配していたが、残忍で横暴だったため、領主が留守の時に市民は立ち上がって居城を攻め落とし、ついで貴族たちの住居を襲って破壊した。これにより、領主や貴族の特権はすべて剥奪され、新興市民の自治都市となった。

 フランチャスコたちの信仰は、このような時代に生まれた。信仰に学問や教義はいらないとして、暮らしの貧しさだけでなく、精神と知的な豊かさをも認めなかった。彼は「愛と平和と清貧」の自然主義者だったようだ。

 
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photo by miura 2005.11