ウフィツィ美術館(右側)とベッキオ宮(左側)とシニョリーア広場
シニョリーア広場からベッキオ宮(共和国政庁)とウフィツィ美術館を撮ったもの。この広場の醸し出す雰囲気はなんともいえない。広場は雨にもかかわらず世界中からの観光客で埋め尽くされ、解説者は熱くルネサンスと花のフィレンツェを語っている。中世の茶色の石とレンガと立ち並ぶ彫刻と人間復興ルネサンス。このような場は日本にはないように思う。イタリア・ルネサンスの雰囲気そのまんまとでもいえばよいか、いつまでもこの場に立ち止まって、風景の中で感じていたい、そんな想いにさせられる。石の彫刻の圧倒的な存在感、ただただ感動して立ちつくすしかなかった。
ベッキオ宮の入り口の右側には、ミケランジェロ作「ダビデ」が、左側には「ネプチューン」の噴水がおいてある。ダビデ像はもちろん本物ではないが、コピーであってもそのすばらしさは変わらない。
ミケランジェロはメディチ家に育てられたが、専制化するメディチ家から離れて、共和国の自治都市民主制に与した。
1504年、ダビデ像は完成した。メディチ家の支配に対抗して、共和国の自由と民主の象徴として迎えられた。像は共和国政庁の入り口に据えられ、最初は石を投げる人もいたようだが、筋骨隆々の全裸の若者の像の存在感に圧倒されたという。
この像には青年のもつ美しさと力と勇気と自負と、そして不安と愚かしさと、すべての要素がそなわっているようだ。若きダビデはフィレンツェ共和国の自由と民主の防衛の象徴になった。共和制下の民主といっても、君主をいただいていないというだけで、ブルジョワジーによる専制に近いものだったようだ。だが、フィレンツェの市民はダビデの青年の裸像を受け入れた。
この時代、マキャベリはフィレンツェのために「君主論」を書いて、共和国を防衛しようとした。だが、フィレンツェ共和国は独自の軍隊を持たず必要な時に傭兵を雇っていた。しかしそれではフランス絶対君主の近代軍隊にはかなわない。マキャベリは徴兵制をひいて市民による軍隊をつくろうとしていたが、後の祭りだった。そういう時代にダビデ像はつくられた。
共和国政府は4m余りの大理石を買い込んで、彫刻をミケランジェロに依頼した。石があまりにも巨大なため何人かの彫刻家が挑戦しては失敗し、その失敗の跡も石に残っていた。若きミケランジェロはその困難な仕事に敢然と立ち向かった。そして彼は石の中からダビデを掘り出した。
この像の前に立つと、その存在感に圧倒される。その若さと力と可能性に圧倒される。
ウフィツィ美術館の一角に屋外彫刻ギャラリーがある。ロッジア・デイ・ランツィという。すばらしいルネサンス彫刻が並んでいて、壮観。若者たちが像の台に座り込んだり、周りを取り囲んで鑑賞していた。こんな環境から若き彫刻家がでてくるのだろうか。
日本にも「ダビデ」像より300年も前に運慶や快慶の仁王や優れた仏像の作品があり、ダビデと比べてもまさるとも劣らないと思うが、宗教的なものと自由と民主の象徴とでは、比較にならない。人間復興のルネサンスの息吹躍如というところか。どうして16世紀の昔に、フィレンツェはこのような青年の裸像を生み出すことができたのだろうか。中世世界の抑圧からの解放と人間復興への情熱がフィレンツェの街に渦巻いていたのだろう。
ウフィツィ美術館には、ボッティチェッリの「ビーナス誕生」や「春」などの作品があり、鑑賞にはいくら時間があってもたりない。ギリシャやローマの寓意に満ちた作品は日本人にはわかりにくいが、その表現センスのすばらしさはわかる。ボッティチェッリの作品はうまいのかへたなのかよくわからないが、何かやはりルネサンスを感じさせる。フィリッポ・リッピの「聖母子と天使」の聖母マリアは絶品。ダ・ビンチの「受胎告知」はえもいわれぬ不思議世界。
ベッキオ宮の印象的な屋上部分。
ウフィツィ美術館の屋上の屋根裏のような所に喫茶店がある。そこからカフェをすすりながらの眺めがよい。屋上に出ると目の前にベッキオ宮があり、市街の眺めが最高。
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