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世界遺産 「フィレンツェの歴史地区」1982年  



ウフィツィ美術館の入り口から、ヴェッキオ宮共和国政庁とその塔を望む。

フィレンツェのMap

「花の都」フィレンツェ

 1400年代のルネッサンス、メディチ家の人々、ミケランジェロ、ラファエロ、ボッティチェッリ、ダビィンチ。どれもすばらしい。この文化と芸術の香りにむせかえってしまう。フィレンツェはなんといってもルネサンス発祥の地。
 写真は、ウフィツィ美術館の入り口から、ヴェッキオ宮共和国政庁とその塔を望んだもの。手前の左右の建物はメディチ家の事務局だったが、現在はウフィツィ美術館となっている。
 フィレンツェ・ルネサンスの芸術のすべてここにあるという。
メディチ家最後の後継者ギャラリーは、所有していた作品を「公共のもので、譲渡してはならない」と明言したために、ウフィツィ美術館で公共のものとして公開されることになった。予約はなかなか取れず、当日券も半日並ばないと入れないという。2時間くらいではとても鑑賞しきれない。


ウフィツィ美術館 ダビンチの「受胎告知」
あまりにもすばらしいのでついつい。



シニョリーア広場からベッキオ宮(共和国政庁)とウフィツィ美術館を撮ったもの。


ベッキオ宮の入り口や周りは巨大な彫刻で埋め尽くされている。弱小軍隊や傭兵しか持たないフィレンツェは、芸術の力で共和国を防衛しようとしているようだ。


4mの巨大なダビデ像、ミケランジェロ作。もちろん本物ではない。


ダビデ像
巨大なゴリアテを石つぶてで仕留めて大喝采を受けたといわれる。左肩には石つぶてを投げる布のようなものがある。フィレンツェに攻め込む者はこのダビテが許さないということか。

ウフィツィ美術館(右側)とベッキオ宮(左側)とシニョリーア広場

 シニョリーア広場からベッキオ宮(共和国政庁)とウフィツィ美術館を撮ったもの。この広場の醸し出す雰囲気はなんともいえない。広場は雨にもかかわらず世界中からの観光客で埋め尽くされ、解説者は熱くルネサンスと花のフィレンツェを語っている。中世の茶色の石とレンガと立ち並ぶ彫刻と人間復興ルネサンス。このような場は日本にはないように思う。イタリア・ルネサンスの雰囲気そのまんまとでもいえばよいか、いつまでもこの場に立ち止まって、風景の中で感じていたい、そんな想いにさせられる。石の彫刻の圧倒的な存在感、ただただ感動して立ちつくすしかなかった。

 ベッキオ宮の入り口の右側には、ミケランジェロ作「ダビデ」が、左側には「ネプチューン」の噴水がおいてある。ダビデ像はもちろん本物ではないが、コピーであってもそのすばらしさは変わらない。
 ミケランジェロはメディチ家に育てられたが、専制化するメディチ家から離れて、共和国の自治都市民主制に与した。
 1504年、ダビデ像は完成した。メディチ家の支配に対抗して、共和国の自由と民主の象徴として迎えられた。像は共和国政庁の入り口に据えられ、最初は石を投げる人もいたようだが、筋骨隆々の全裸の若者の像の存在感に圧倒されたという。
 この像には青年のもつ美しさと力と勇気と自負と、そして不安と愚かしさと、すべての要素がそなわっているようだ。若きダビデはフィレンツェ共和国の自由と民主の防衛の象徴になった。共和制下の民主といっても、君主をいただいていないというだけで、ブルジョワジーによる専制に近いものだったようだ。だが、フィレンツェの市民はダビデの青年の裸像を受け入れた。

 この時代、マキャベリはフィレンツェのために「君主論」を書いて、共和国を防衛しようとした。だが、フィレンツェ共和国は独自の軍隊を持たず必要な時に傭兵を雇っていた。しかしそれではフランス絶対君主の近代軍隊にはかなわない。マキャベリは徴兵制をひいて市民による軍隊をつくろうとしていたが、後の祭りだった。そういう時代にダビデ像はつくられた。
 共和国政府は4m余りの大理石を買い込んで、彫刻をミケランジェロに依頼した。石があまりにも巨大なため何人かの彫刻家が挑戦しては失敗し、その失敗の跡も石に残っていた。若きミケランジェロはその困難な仕事に敢然と立ち向かった。そして彼は石の中からダビデを掘り出した。
この像の前に立つと、その存在感に圧倒される。その若さと力と可能性に圧倒される。

 ウフィツィ美術館の一角に屋外彫刻ギャラリーがある。ロッジア・デイ・ランツィという。すばらしいルネサンス彫刻が並んでいて、壮観。若者たちが像の台に座り込んだり、周りを取り囲んで鑑賞していた。こんな環境から若き彫刻家がでてくるのだろうか。

 日本にも「ダビデ」像より300年も前に運慶や快慶の仁王や優れた仏像の作品があり、ダビデと比べてもまさるとも劣らないと思うが、宗教的なものと自由と民主の象徴とでは、比較にならない。人間復興のルネサンスの息吹躍如というところか。どうして16世紀の昔に、フィレンツェはこのような青年の裸像を生み出すことができたのだろうか。中世世界の抑圧からの解放と人間復興への情熱がフィレンツェの街に渦巻いていたのだろう。

 ウフィツィ美術館には、ボッティチェッリの「ビーナス誕生」や「春」などの作品があり、鑑賞にはいくら時間があってもたりない。ギリシャやローマの寓意に満ちた作品は日本人にはわかりにくいが、その表現センスのすばらしさはわかる。ボッティチェッリの作品はうまいのかへたなのかよくわからないが、何かやはりルネサンスを感じさせる。フィリッポ・リッピの「聖母子と天使」の聖母マリアは絶品。ダ・ビンチの「受胎告知」はえもいわれぬ不思議世界。



ベッキオ宮の印象的な屋上部分。
 ウフィツィ美術館の屋上の屋根裏のような所に喫茶店がある。そこからカフェをすすりながらの眺めがよい。屋上に出ると目の前にベッキオ宮があり、市街の眺めが最高。


ペルセウスがメドゥーサの首を切り落として掲げている像。ギリシャ神話の話。元々美少女であったメドゥーサは、海神ポセイドーンとアテナの神殿の1つで交わったためにアテーナーの怒りをかい、醜い怪物にされてしまう。

「サビニの女たちの略奪」像
古代ローマの伝説らしい。

「ネプチューンの噴水」
ネプチューンはローマの神、ギリシア神話のポセイドンに相当する。

 ウフィツィ美術館の前の彫刻群。
どうもギリシャ神話の題材をとった作品が多い。ルネサンスは、ギリシャの「ミロのビーナス」のようなリアルな人間像に魅せられ、それの復興でもあったようだ。
 画学生らしい青年たちがデッサンにいそしんでいた。こんなすばらしい彫刻群に囲まれ、彼らは幸せ者だ。


サンタ・マリア・デル・フィオーレ全景。美しい大理石で組み立てられているが、どうも重すぎるようだ。ピサの斜塔ほどではないが正面の塔がやや右に傾いているように思う。

ドゥオモ: 花の聖母教会

 サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母)と呼ばれる大聖堂でフィレンツェ共和国の象徴。1296年から170年あまりの歳月をかけて完成された。
 教会はヨーロッパの重々しいゴシック様式とは違い、華麗で感じが明るい。空の青さのせいだけではない。ゴシックの持つ垂直的な重々しさではなく、水平線がそれを和らげている。荘厳かつ豪華。
 色のついた代理石。緑、ベージュ、ピンクの組み合わせで幾何学的に構成されている。これが教会のルネサンス的表現なのだろうか。
 街の建物は中世風にくすんでいるが、教会だけはきれいな大理石の輝きに包まれていて、独特の雰囲気を放っている。
 大聖堂のお椀を伏せたような円蓋を、石を積み重ねてつくるのは大変な技術だったようだ。ゴシック様式の教会の屋根はたくさんの尖塔を立てて空中に力を拡散させるが、ルネッサンス様式は建物に働くすべての力を総括し、均衡させて無化するという。
 このルネサンス様式はローマ・バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の大円蓋にも使われている。




ドームの天井にはミケランジェロの「最後の審判」

ドゥーモの正面と天井の「最後の審判」

 すごい迫力と重量感で迫ってくる。3万人が一度に礼拝することができる大きさをもつ大聖堂。
 長方形の四角い石組みにシンプルな幾何学的なデザインのものと聖人の石像がそなえられているものがある。装飾過剰なゴシック様式に比べればシンプルだが、色の異なる大理石の組み合わせを基本的な枠組みとしている。緑色の大理石の枠組みとピンクがかった白い大理石の組み合わせが独特の雰囲気を演出している。

 ドームの天井には「最後の審判」のフラスコ画が一面に描かれており、それが明るく照明されていて、荘厳な雰囲気を出している。
 正面の礼拝堂には、ミケランジェロが「天国の門」と名付けた入り口がある。
 ドームの床にあるメディチ家の紋章。6個の丸薬マーク。



左の塔はベッキオ宮、右はサンタ・マリア・デル・フィオーレ。

ミケジャンジェロ広場

 フィレンツェの街を一望できる丘にある。ミケランジェロのダビデ像が中央に建って、フィレンツェの街を見ている。
 下の写真の塔はベッキオ宮。

 
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photo by miura 2005.11