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ハットゥーシャ
 

ハットゥーシャ


場所:首都アンカラから東約150km ボアズカレ
トルコの地図
世界遺産名:ハットゥシャ・ヤズルカヤ  登録年:1984年   

紀元前2000年ころのヒッタイト人によるレリーフ

ヒッタイト王国の首都

 アンカラから東へ200kmのところに、ヒッタイトの首都が置かれたハットゥーシャがある。
 古代にアナトリア高原に栄えたヒッタイト帝国の首都だったが、ヒッタイト人というのがよくわかっていないそうだ。
 ヒッタイト人はインド=ヨーロッパ語族の一派で、紀元前2000年ころ小アジアのアナトリア高原に入り、ヒッタイト古王国を作り上げた。
 アナトリア高原は鉱物資源が豊富で、先住民のハッティ人を征服した際に製鉄技術を知り、その後紀元前1400年ころに鋼(はがね)を発明した。
 ヒッタイト人は「馬と鉄」の民族といわれ、鉄を始めて鋳造したといわれている。小アジアのヒッタイトは古代エジプトと戦争を繰り返し、そして和解したことが記録として残っている。ヒッタイトは鉄の鋳造技術をエジプトにも伝えたようだ。
 ヒッタイトは鉄と馬を使った戦車の力によりまわりの国々を制圧していったようだ。

 日本に大陸から鉄器が伝えられたのは弥生時代の後半、紀元前後ころ。吉野ヶ里遺跡から出土した鉄製品は、鎌や斧、鋤先、摘み鎌等の農工具がその大部分をしめるが、剣や鏃などの武器もみられる。

 写真はハットゥーシャの近くの聖地ヤズルカヤの12人の神々のレリーフ。
 ハットゥーシャの遺跡から2kmほど離れた岩山にある聖地と考えられる場所。
 祭壇などがあり、神々を祭った場所のようだ。いくつかのレリーフが残っているのだが、いかんせん4000年の風化によりレリーフも限界にきている。

 ヒッタイト王のレリーフといわれている。これらも大部風化がすすんでいて、まことにおしい。

聖地ヤズルカヤから見たハットゥーシャの城壁や砦の跡

 紀元前1000〜2000年の遺跡というだけでもう感動してしまう。
 今は山にも木らしいものはほとんど生えていないが、かっては水源も豊かで緑の森林に覆われ、穀物も豊富だったという。
 ひとつの文明が過ぎ去ってしまった跡を見るのは、人間の営みの空しさのようなものを感じてしまう。2000年後の私たちの文明も、このような姿になってしまうのだろうか。

首都ハットゥーシャの点在する遺跡

 これらの遺跡のどこかの倉庫跡から粘土の文字板が大量に発見された。シリア・パレスチナ地域の支配をめぐってエジプトと大きな戦争があったことを伝えたえている。ヒッタイト王とエジプトのラムセス2世との間でその後世界初といわれる平和条約が結ばれたとある。
 古代エジプト文明に匹敵する文明がここにあったはずなのだが。

ハットゥーシャの門

 ライオン門やスフィンクス門など6つの門があった。今は石垣が当時の面影を残すのみ。


 ハットゥーシャの遺跡のひとつ。
 写真中央の大通りは大きな石が敷き詰められている。遺跡といっても大きな石がごろごろしているだけだが、当時の首都として行政、宗教機能の中心であったことがうかがえる。

 エジプトとの平和条約締結後の紀元前13世紀後半に、海の民といわれる未知の民族の侵入をうけ、いくつかの都市国家に分裂し、紀元前8世紀にはアッシリア併合され、やがて歴史の流れに飲み込まれていってしまった。
 エジプトはピラミッドや偉大な遺跡を残し、中国は万里の長城を残したが、残念ながらヒッタイトは何も残すことなく歴史に埋もれてしまった。鉄の文明を形にして後世に残してもらいたかった。製鉄所の跡などもいまだ発掘されていないという。
 世界遺産に指定されているが、発掘調査は進んでいないようだ。

 ハットゥーシャの遺跡のすぐそばに小さな街がある。遺跡の中の草地には馬や羊が放牧されていた。 子供たちが遺跡のなかで遊んでいた。 遺跡は生活の中にあった。

ドライブインにあった水たばこ

 試したかったが準備に30分以上かかるとのことで、あきらめた。

 レストランに飾ってあったヒッタイトのレリーフのレプリカ?

 人の顔や造形が素朴で、古代的なおおらかさが感じられて、なぜか楽しい。

 
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