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ヨルダン・ペトラ
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ヨルダン・ペトラ遺跡 Petra



 ペトラへの入り口付近。ペトラは高山の谷間ではなく、平地から山の谷間に下っていく感じ。入り口付近にも住居跡や墳墓らしきものが散見される。

ペトラ遺跡  [地図]

 ペトラは、死海とアカバ湾の間にある渓谷で、死海から約80km南に位置している。1985年ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。2007年7月、新・世界七不思議に選出されているそうだ。
 ペトラは自然の要害であった。西にガザ、北にダマスカス、紅海にも近く、中東での人や物の行き交う要衝の地でもあった。ナバテア人の首都で、砂漠を移動していたキャラバン隊の中継基地であったと伝えられている。 立地条件の良さのため、紀元前1世紀ごろから、古代ナバテア人の有力都市として、スパイス交易(香料・絹・乳香)の拠点として栄えた。
 

 19世紀になって世界に紹介されるようになり、世界は驚異の石レリーフ文化を知ることになる。発見が遅かったのた、住みついていたベドウィンたちがペトラへの出入り口を秘密にしていたためだといわれている。

 紀元前1200年頃から、エドム人たちがペトラ付近に居住していたらしいが、エドム人たちの詳細は不明。紀元前1世紀ごろから、エドム人達を南へ追いやったナバテア人達が居住しはじめる。ナバテア人はアラビア付近の貿易を独占。それにともないペトラも古代ナバテア人の有力都市として栄えた。
 紀元前64年ごろ、ナバテア人はローマの将軍ポンペイウスによりその支配下におかれる。ローマは、ナバテアの自治は認めたものの税を課した。また砂漠から進入してくる異民族の緩衝地帯とした。ローマ風の建築物の造営がこのころ始まった。106年には、ローマ皇帝トラヤヌスによりペトラとナバテア人はローマのアラビア属州として完全に組込まれる。
 1812年、スイス人の探検家、ルートヴィヒ・ブルクハルトが、十字軍以降最初にペトラをヨーロッパへ紹介した。 (Wikipediaより)

 左のイラスト地図は、ペトラが交易の中心地としていかに重要な位置にあったかの説明図で、交易ルートが記されている。紅海の上、死海のあたりの印刷が薄れているが、ガイドさんが棒で指して説明するからで、その位置がペトラということになる。

 ペトラに続く通路の左右には、水を通す水路が整備されていた。鉄砲水が出るとこの通路も川になり、不通になることもあったという。ペトラへと続く岩の通路は数km続く。寒い。みんな震えながら歩いて行く。


 完全な岩礁地帯なので、農業には不向きの土地である。雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内を通過していった。左の写真に見られるような狭い通路(シクと呼ばれる)は、最初は水が走ってつくられた川底を通路として人の手で加工したもの。ナバテア人は、ダムを作って鉄砲水を防ぎ、さらに水道管を通して給水システムを作り上げたことが分かっている。


 狭く蛇行するシクの終点の「宝物殿=エル・ハズネ」 。文明とは無縁の岩間かに見えた古典的な異文化の香りは感動ものである。イスラムでもキリストでもなく、ギリシャ・ローマとも違うナバテア人の文化が確かにここにあった。

 上は、ペトラ入り口付近の古代の墳墓。
 左は、通路を30分ほど歩いて行くと、突然このような風景が出現する。シクの終点の暗い岩盤の間から覗く感動的な「宝物殿」。「インディージョーンズ 最後の聖戦」の舞台にもなった。 鏡のような橋や聖杯はないようだが、確かに「最後の聖戦」のこの場面に魅せられて、ここにやってきたのかもしれない。

ペトラ遺跡の代表、「アル・ハズネ=宝物殿」。高さ40m、幅28m。宝物殿として使われていた記録はない。宝物殿の内部は立ち入り禁止。警察官が馬に乗って見張っている。大きな声で騒いた地元の青年が注意を受けておとなしくしていた。

 英国生まれのデビット・ロバーツが描いた宝物殿の絵。 1839年頃とおもわれるが、アル・ハズネの前には現在は見られない川が流れている。岩間の通路シクがかっては川底だったという説を裏付けている。
 レリーフが今よりのこっているが、1階のコリント式石柱が1本折れて下に転がっている。現在のアル・ハズネはそれを修復して立っている。

レリーフがだいぶ風化しているが、地形の関係で保存状態がよい。

 王の霊廟か宗教儀式用か。近年までベドウィンたちが住いとしていたらしい。

 洞窟の中は暗く、四角に掘られた洞窟になっている。
  これらは墳墓や儀式のための宗教施設、王の霊廟などではないか見られているが、結論は出ていない。外見のレリーフはよくできているが、内部は岩を切り出した立方体でレリーフや壁画はない。紀元前1世紀から紀元2世紀頃の作ではないかといわれている。

 住居跡の洞窟。近年までベドウィンが住んでいた。洞窟の内部が黒ずんでいるのは焚火のススだという。

 ペトラ遺跡に囲まれた土産物店。近くに住んでいたベドウィンたちに、立退きを条件にお店やラクダやロバなどの観光営業が認められている。ついつい奇異なものを買ってしまう。

ローマによる支配の時代には、ローマ風のメインストリートが造られていた。通りの左側にはローマ風の柱が数本立っていた。

 道路の左右には石柱により支えられたアーケードが造られ、交易の商売やサービスが提供されていた。 中央にはローマ風神殿も残っている。

風化が進んだ王の霊廟?とその前のベドウィンの少年が商うお店。 近くで採れる石を売っている。

 上は、ローマ風円形劇場。やはり岩をくりぬいて作られている。ローマ人には、どこへ行ってもお風呂と劇場は欠かせないようだ。
 左は、歴代の王の霊廟ではないかといわれている。洞窟の中は暗くすすけていて、近年までベドウィンが生活していたらしい。この中で暖をとったり煮炊きをしていたようだ。遺跡の現実である。


 ペトラの山のあっちこっちに洞窟のような穴が空いている。中はただ岩がくり抜かれただけで何もない。
 自動車が入れないペトラは、ラクダは重要な移動手段。ラクダにのった男はカッコよく見える。ただ観光客が乗るにはしきいが高い。


「ライオンの墓」

 「ライオンの墓」といわれる洞窟。入り口の左右にライオンのレリーフがあることからこの名がついた。近くに水場があり、旅人の渇きを癒したのだろう。

 遺跡に通じる道のあっちっちに、地元のベドウィンの人たちのお店があり土産物を売っていた。近くで採れた地層が縞模様の石やその加工品などが中心で、あまり売れるもののようには見えない。お店の場所や扱う商品にも、メインストリートと岩山沿いの道端では大きな格差がある。少年がこの辺りでとれたという縞模様の石を買ってくれという。どこにでもある石片で欲しいものではないが、少年の熱心さに負けて1ドルを渡した。
  ベドウィンの人の住居は別の場所が定められているというのだが、お店の横で煮炊きをしたり子供の泣き声が聞こえてきたりで、ここは住居もかねているのかも知れない。


デイルへの道。コーナーにはベドウィンのお店がある。道にお店の半分が出ている。


 道の横のお店。半分ほど道にはみ出ている。
  ろばも重要な移動手段。


デイル(修道院) は必見お勧めスポット。下はデイルの入り口の筆者。

デイル

 デイル(修道院)は、アル・ハズネ=宝物殿と並ぶペトラの人気スポット。ペトラの中心からさらに40分ほど山道を歩かなければならない。このデイルへの道は、失われた砂漠と岩山の古代都市ペトラの雰囲気を楽しみたい人には推すすめ。
 紀元1世紀頃、ナバテア王国末期に建てられた神殿であると言われている。高さは40mでアル・ハズネ=宝物殿と同じだが横幅は50mでアル・ハズネ=宝物殿の28mよりだいぶ広い。
 中へ入ってみるとかなり広く天上も高い。整備されていればやや暗いが居心地はよいだろう。ここで宗教的な儀式や集会などが行われていたのだろうか。ペトラへ来たら、デイル(修道院)は必見である。

 ここからさらに10分ほど歩くと山の頂上に至る。ここは見晴らし台になっていてぺトラの山々が一望できる。


山の中腹から見たデイル(修道院)。 クリックで拡大。

 デビット・ロバーツが描いた 1839年頃のデイルの絵。クリックすると拡大する。
 デイルに向かう途中の風景。ペトラの独特の岩山が連なり圧巻。下はベドウィンのかぶり物をした筆者。こんな格好のおっさんはいそうでいない。ベドウィンのおっさんたちから親しげに話しかけられるのがうれしい。話せるのは、アラビア語のアッサラームアライコム(こんにちは)とシュクラン(ありがとう)だけ。それだけでも大うけだった。よい人たちだ。

 デイルに向かう途中の坂道を小さなロバに乗って登る太った観光客。ロバがかわいそう。疲れたロバが死んだように眠っていた。

 ベドウィンの住居。これは定住を予定した住い。
  ベトウィンの伝統的な住まいは黒いテントで、基本的に遊牧のための移動に適した住居である必要がある。上は老人が羊の番をして岩にこしかけていた。

ワディラム のベトウィンの黒いテント。
 

ベドウィンと言われる放牧の民がいる。アラビア半島などに広く住んでいる。彼らは、都市や農村の住民ではなく、放牧の民であることを誇りにしているようだ。砂漠での農耕は無理で、羊やヤギやロバやラクダを飼いながら草地を求めて移動生活をする。羊やラクダの売買だけでなく、土地の管理や荷物の輸送、穀物の販売、観光業といった仕事についている。中東の遊牧はおそらく、中東・メソポタミアでの小麦などの穀物栽培と同時か、それより古いといわれている。ベドウィンの歴史は、B.C.3,000年頃の人類文明発祥に源がある。
 男性は赤と白の格子模様のターバンを頭に巻いている人が多い。農民の白黒ターバンに対して、自分たちの赤白ターバンを放牧の民の生きざまとして誇りにしているようだ。

 ペトラの文化を築いた紀元1世紀頃のナバテア人とベトウィンとは何の関係もないようだ。
 

photo by miura 2012.3 mail:お問い合わせ
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