エルサレム Jerusalem |
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オリーブ山から、エルサレム旧市街と城壁を望む。金色の建物は、イスラム教の聖地「岩のドーム」。この日は、前日の強風で舞い上がっ砂塵が覆っており、視界不良だった。 エルサレムの地下には紀元前からの遺構が積み重なっていて、丘のように高くなっているのだという。 |
エルサレム旧市街 [地図] 1度は見ておきたかったエルサレム。ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の3つの宗教の史跡や伝説や神話に関わる町エルサレムは、自称仏教徒の私にも興味がつきない。ユダヤ人やイスラエルという国にも興味がある。ペトラ遺跡も面白そうだ。いずれにしても、その程度の観光客ということである。 |
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旧市街は高い城壁に囲まれている。現在見えている城壁の下には、見えている城壁と同じ高さの城壁が埋まっているという。 1948年のイスラエル建国宣言と同時に勃発した第一次中東戦争により、エルサレム旧市街とヨルダン川西岸地区をトランス・ヨルダン(イギリスの委任統治領)が、ガザをエジプトが占領していた。 |
「西の壁」にある「嘆きの壁」。金色の屋根は「岩のドーム」。 |
嘆きの壁 西の壁の「岩のドーム」寄りの場所は「嘆きの壁」と言われている。「岩のドーム」のある神殿の丘には、かってはユダヤ教の神殿が建っていた。紀元前1000年頃のイスラエルの王ダビデがエルサレムを首都とし、その子ソロモン王がそこに神殿を建てた。その後何回もの破壊と再建を繰り返えしてきた。 |
ユダヤの人々が壁に向かって祈りをささげている。筆者も仏教的・神道的に家内安全、商売繁盛を祈願する。 |
ローマ軍による神殿の破壊後、ユダヤ人は年に1度だけこの地を訪ねることが許されたという。
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最も美しいダマスコ門。 |
ダマスコ門 ダマスコ門は道路より数m低い位置にある。16世紀に作られた門だから、埋もれたのかと思っていたら、 デビット・ロバーツの左下の絵でもやはり低い位置にあることがわかる。 |
デビッド・ロバーツが描いたダマスコ門。 |
この絵の作者はデビッド・ロバーツDavid Roberts。 デビット・ロバーツはスコットランド・エジンバラに1796に生まれた。早くから画家としての才能を発揮して、フランス・ベルギー・ドイツなどを旅行して絵を描いた。とりわけスペインが気に入って多くの都市を回ってスケッチなどをし、画集として出している。さらに1838〜9年にかけてエジプトからシナイ半島を横切りパレスチナをまわる11か月の旅行をして、各地の遺跡の多くの作品を残している。この画集はその時の作品である。 左の絵をみると、200年前のダマスコ門は現代でほとんど変わっていないことがわかる。出入りの人々は完全にアラビア風・ベドウィン風。現代と同様、門は狭く容易には侵入できないようになっている。 |
「岩のドーム」へのモロッコ門からのアプローチ。 |
岩のドーム 中心には大きな聖岩があり、その覆いがこの金色の「岩のドーム」である。この聖岩は、ダビデ王が神の棺を祀った場所であり、アブラハムが我が子をイクサの神に捧げようとしたモリヤの丘(旧約聖書に出て切る地名)であり、イエスが教えを宣した場所であり、預言者ムハンマドが天馬に乗って昇天した場所である、といわれている。つまりこの場所は、ヤダヤ教・キリスト教・イスラム教の3つの宗教の聖地ということになる。 |
金箔のドームと青いタイルのコントラストが美しい。 |
この金色の屋根はエルサレムのシンボル的な存在として市内のどこからでも眺められる。まっ、そういうわけでエルサレムは、3つの宗教の聖地として、平和共存の道を歩まざるを得ない奇跡的に稀有な場所となっている。 |
南北の道路は左右にアーケードがあり、古代の一大マーケットになっていたようだ。上の写真は発掘されたアーケードを支える石柱の列。 |
ヨルダンのマダバの町に「聖ジョージ教会」があり、その床に世界最古のパレスチナ地図のモザイクがある。その地図に描かれた古代エルサレムの地図が上の写真である。北が右側で南北に大きな通りが描かれている。 |
銃弾の跡が生々しいシオン門。エルサレムが経てきた戦歴を刻んでいた。 |
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旧市街地は、地形がデコボコなのに建物が込み合っていて、さらにユダヤ教とキリスト教各派とイスラム教の建物が混在しており、とにかく複雑怪奇で、とても興味をひかれる様相を呈している。 |
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ダビデの墓 どこまで本当かは不明だが、ダビデ王の墓だといわれている。 |
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最後の晩餐の部屋 ダビデ王の墓の近くに、イエス最後の晩餐をとったといわれる部屋がある。現在の建物は十字軍が建てたもので、15世紀のオスマン朝の時代にはイスラム寺院として使われていたという。 左のダ・ビィンチの「最後の晩餐」は、残念ながらイメージすることはできなかった。この絵はダ・ビィンチの全くの想像の産物であり歴史考証はなにもないが、ドラマチックで興味がつきない。 |
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紀元30年頃の食事は。絵のような立派な食卓などではなく、床に敷いた敷物に直接座り込んで、食事をとるのが一般的だったようだ。 マタイ福音書では次のように描写している。 |
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オリーブ山から見たウルサレム。この日は前日の強風のため砂塵が町を覆っていた。 |
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エリコの町から見た「誘惑の山」。山の中腹の切り立った崖に修道院がある。 その山の麓までロープウェイが通っているが、動いている途中で何度も停止するという。観光サービスのためではないそうだ。 |
エリコ Jericho エリコは死海の北端にほど近い、海抜-260mの低地にある古代からのオアシスの町、パレスチナ自治区にある。水が豊富で過ごしやすく暖かい気候。B.C.7〜8000年あたりから人が住んでいた遺跡があり世界最古の都市ともいわれている。 |
テルアッスルターンの遺跡から、エリコの町を見た。町の向こうに誘惑の山が連なっているが、草木一本ない荒涼とした砂漠。 |
エリコ攻略にはこの街の遊女が手助けした。 指導者ヨシュアはエリコ侵攻直前にこの遊女とその親族を逃した。 |
テルアッスルターンの遺跡から見たエリコの町並み。この遺跡にはがっかり。緑が多い美しい町だという。 |
その後、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の上に立たせて「神の子なら飛び降りてみろ」という。イエスは「あなたの神なる主を試みてはならない」と答えた。 エリコは、B.C.8000年あたりから開かれた最後の都市だといわれるが、交易の拠点という他、農業や牧畜ではなく、やはり死海や近くから取れる塩の流通が、都市化の大きな理由だったのではないかといわれている。当時、死海の塩は食用になったのだろうか。 |
クムランの山。中腹の洞窟に人々は住み、集会所で宗教生活をしていたようだ。 |
死海写本が見つかったクムラン 死海の北西、岸から1kmほど入った岩山に、クムラン人が住み始めたのは、B.C.8世紀頃だという。B.C.2世紀頃にクムラン教団と呼ばれるユダヤ教の一派が、集団で禁欲的な生活をしていたようだ。ユダヤ教の伝統や習慣を重んじ、自給自足、共有財産制のもとで生活をしていた。 1948年、このあたりの洞窟で遊んでいたベドウィンの少年が、土器の壺に入った文書のようなものを見つけて届け出た。発見に驚いた当局は、その文書に高額の報酬を出した。そうしたら、近くに住むベドウィンの人だちが大挙して岩山を探し回り、次づきと文書をみつけ報酬を手にしたという。 |
正面の谷に面した洞窟から壺に入った死海写本が見つかった。 ローマ軍がエリコに入ったとき、 クムランの人々は、写本を壺に入れ洞窟などに隠し、この地をさっていったようだ。 |
報酬に味をしめたベドウィンは、1枚の写本を2つにさらに4つに分けて当局に売り込んだ。当局は文書紙片1つにつきはらっていた報酬を、文書の面積により額を決めることにした。その結果、まとまった写本が続々と発見されるようになったのだという。 |
ロープウェイ乗り場からマサダを見る。 約400mの高さがある。 |
マサダ Massada
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マサダから下のロープウェイ乗り場を見る。2つの塀で囲まれた場所があるが、ローマ軍の兵舎があった場所。 |
ヘロデは、マサダに壮麗な大宮殿を築き、堅牢な要塞も建てた。豪華なモザイクの床や壁画の他、巨大な貯水槽やサウナ設備、食料庫を備えていた。だが、ヘロデの息子の代になるとマサダはローマの管轄下におかれた。 そのような言い伝えがあったが、そのとおりに砦の前の谷を埋め尽くした坂道が見つかった。それによりマサダ砦は2001年に世界文化遺産に認定された。 |
ローマ軍がマサダを攻略するために築いた坂道がそのまま残っている。 |
ユダヤ教は自殺を禁じている。そのためお互いが殺し合い最後の人だけが自殺したのだという。 その後、ローマ軍の要塞として使用されていたが、間もなく廃墟となった。5世紀にビザンチンの修道士たちが少数住みつくこともあったが、イスラエル国が誕生するまで静かな荒れ地となって放置されていた。 |
マサダ砦からローマ軍が築いた坂道を見た。左側に道が作られていて砦まで歩いて登れる。このローマ軍が築いた坂道が言い伝えの通りに残っていたため、世界文化遺産として登録がなったのだという。 |
坂道と攻城兵器の製造には、捕えられたユダヤ人たちが使われ、特に要塞からの攻撃にさらされる危険な仕事は彼らに命じられた。要塞の兵士は泣く泣く同胞に向けて岩を投げ落としたのだという。 |
photo by miura 2012.3 |