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エルサレム
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ヨルダン

エルサレム Jerusalem



オリーブ山から、エルサレム旧市街と城壁を望む。金色の建物は、イスラム教の聖地「岩のドーム」。この日は、前日の強風で舞い上がっ砂塵が覆っており、視界不良だった。
エルサレムの地下には紀元前からの遺構が積み重なっていて、丘のように高くなっているのだという。

エルサレム旧市街  [地図]

 1度は見ておきたかったエルサレム。ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の3つの宗教の史跡や伝説や神話に関わる町エルサレムは、自称仏教徒の私にも興味がつきない。ユダヤ人やイスラエルという国にも興味がある。ペトラ遺跡も面白そうだ。いずれにしても、その程度の観光客ということである。

 エルサレムは2度のユダヤ戦争によって破壊され、紀元135年ごろにはローマ風の都市へと再開発されている。 そのため、紀元30年ごろの出来事とされるイエス・キリストの磔刑の舞台、ゴルゴタの位置は分からなくなってしまっていたようだ。 伝えられているところによれば、コンスタンティヌス1世の母フラウィア・ユリア・ヘレナが紀元326年にエルサレムを訪れ、当時はヴィーナス神殿となっていた地をゴルゴタと特定した。これを取り壊して建てられたのが現在の聖墳墓教会、ということである。


糞門(ふんもん)から検問を受けてエルサレムの旧市街に入るとすぐ右手に見えるアル・アクサ−寺院と巨大な城壁。、「西の壁」といわれている。 城壁は時代を経るこどに高くなり、現在は21m。造られた年代により壁の石の色に違いがある。

 
  旧市街は高い城壁に囲まれている。現在見えている城壁の下には、見えている城壁と同じ高さの城壁が埋まっているという。
 1948年のイスラエル建国宣言と同時に勃発した第一次中東戦争により、エルサレム旧市街とヨルダン川西岸地区をトランス・ヨルダン(イギリスの委任統治領)が、ガザをエジプトが占領していた。

「西の壁」にある「嘆きの壁」。金色の屋根は「岩のドーム」。

嘆きの壁

 西の壁の「岩のドーム」寄りの場所は「嘆きの壁」と言われている。「岩のドーム」のある神殿の丘には、かってはユダヤ教の神殿が建っていた。紀元前1000年頃のイスラエルの王ダビデがエルサレムを首都とし、その子ソロモン王がそこに神殿を建てた。その後何回もの破壊と再建を繰り返えしてきた。
 紀元前500年頃、バビロンがペルシャに征服されるとユダヤ人はバビロン捕囚から解放され、エルサレムの神殿を再建する。アレキサンダー大王の東征による支配をうけ、いったんは自治独立を勝ち取るも、さらに紀元70年にはローマの支配を受けユダヤ教の神殿は破壊され、以降またしてもユダヤ人受難の時代を迎えることになる。
 エルサレムの歴史は、ちょっと歴史書をひもといただけで複雑な有為転変・栄枯盛衰を繰り返してきていることがわかる。イスラエル国はエルサレムを首都と定めているが、国際連合はエルサレムを首都とは認めていない。


ユダヤの人々が壁に向かって祈りをささげている。筆者も仏教的・神道的に家内安全、商売繁盛を祈願する。

  ローマ軍による神殿の破壊後、ユダヤ人は年に1度だけこの地を訪ねることが許されたという。
  ローマ軍により破壊された神殿の一部を取り囲む城壁が「西の壁」で、通称「嘆きの壁」と言われている。

 1948年にヨルダンの管理下になるとユダヤ人はこの壁に近づくこともできなくなったが、1967年第3次中東戦争により、エルサレムはユダヤ人にも開放され、ユダヤ人の1900年にも及ぶ歴史的悲願がかなえられ、現在に至ることになる。
 ユダヤの神殿は、紀元前から紀元70年まで存続したが、この神殿に対する渇望の嘆きというより、苦難続きのユダヤ・イスラエルの歴史への嘆きなのかも知れない。

 


最も美しいダマスコ門。

ダマスコ門

 エルサレム旧市街の城壁には8つの門がある。その中で最も華麗で美しいといわれるのがこのダマスコ門。確かに美しい。シンプルな造りながらイスラム的な洗練がある。1537年にスレイマン大帝により立てられた。シリアのダマスコ(ダマスカス)への道はここから始まるとされる。

 ダマスコ門は道路より数m低い位置にある。16世紀に作られた門だから、埋もれたのかと思っていたら、 デビット・ロバーツの左下の絵でもやはり低い位置にあることがわかる。


デビッド・ロバーツが描いたダマスコ門。

 この絵の作者はデビッド・ロバーツDavid Roberts。 デビット・ロバーツはスコットランド・エジンバラに1796に生まれた。早くから画家としての才能を発揮して、フランス・ベルギー・ドイツなどを旅行して絵を描いた。とりわけスペインが気に入って多くの都市を回ってスケッチなどをし、画集として出している。さらに1838〜9年にかけてエジプトからシナイ半島を横切りパレスチナをまわる11か月の旅行をして、各地の遺跡の多くの作品を残している。この画集はその時の作品である。
 彼の絵はエジプトにおいて秀逸だが、ヨルダン・ペトラでもその筆致はさえている。ペトラ遺跡でも印刷の悪い怪しげなデビッド・ロバーツの絵本を数冊買ってしまった。

 左の絵をみると、200年前のダマスコ門は現代でほとんど変わっていないことがわかる。出入りの人々は完全にアラビア風・ベドウィン風。現代と同様、門は狭く容易には侵入できないようになっている。


「岩のドーム」へのモロッコ門からのアプローチ。

岩のドーム
The Dome of the Rock

 中心には大きな聖岩があり、その覆いがこの金色の「岩のドーム」である。この聖岩は、ダビデ王が神の棺を祀った場所であり、アブラハムが我が子をイクサの神に捧げようとしたモリヤの丘(旧約聖書に出て切る地名)であり、イエスが教えを宣した場所であり、預言者ムハンマドが天馬に乗って昇天した場所である、といわれている。つまりこの場所は、ヤダヤ教・キリスト教・イスラム教の3つの宗教の聖地ということになる。
 ここにはかってソロモン王が建てた神殿があったという。イスラム王朝により紀元691年に神殿が建てられた。十字軍時代には教会に改修され、アラブがエルサレムを占領したときにはモスクが建てられ、1964年にはヨルダン国王の寄進によりドームは金メッキのアルミ板になった。ドームは八面体でブルーのタイルが貼られている。
 岩のドームは、イスラム教徒以外は入れない。あやしい人はコーランの一節を言わされるそうだ。即答できなければ当然中へは入れない。イスラム教にとってこの岩のドームは、メッカ・メディナに続く第三の聖地となっている。


金箔のドームと青いタイルのコントラストが美しい。

 この金色の屋根はエルサレムのシンボル的な存在として市内のどこからでも眺められる。まっ、そういうわけでエルサレムは、3つの宗教の聖地として、平和共存の道を歩まざるを得ない奇跡的に稀有な場所となっている。

アル・アクサー寺院


南北の道路は左右にアーケードがあり、古代の一大マーケットになっていたようだ。上の写真は発掘されたアーケードを支える石柱の列。

 ヨルダンのマダバの町に「聖ジョージ教会」があり、その床に世界最古のパレスチナ地図のモザイクがある。その地図に描かれた古代エルサレムの地図が上の写真である。北が右側で南北に大きな通りが描かれている。

銃弾の跡が生々しいシオン門。エルサレムが経てきた戦歴を刻んでいた。


 軍人が小銃を背負いながらデート中。男子は3年、女子は2年の兵役がある。銃をかついだ女性兵士の姿もよく見かけた。銃は所属している部隊から支給されしっかり自己管理しなければならないのだそうだ。

 旧市街地は、地形がデコボコなのに建物が込み合っていて、さらにユダヤ教とキリスト教各派とイスラム教の建物が混在しており、とにかく複雑怪奇で、とても興味をひかれる様相を呈している。
 表面上は、3つの宗教もさらに細かい教会も平和にうちに共存しているように見える。観光客も世界各国から来ており変化に富んでいるようだ。世界の教会や旅行会社が引率して、そろいの帽子やジャケットやリュックを背負って、思い思いに集まってきている。街中の雰囲気もとても開放的で明るい。ユダヤ教の伝統や習慣を守っている敬虔なユダヤ教徒の人々もよく見かけ、ここがユダヤ・イスラエルであることを実感させられる。

ダビデの墓

 どこまで本当かは不明だが、ダビデ王の墓だといわれている。
 この他に、 マリアの墓といわれる「マリアの墓の教会」や「イエス昇天の教会」や「マグダラのマリア教会」やイエスが捕えられた場所といわれる「ゲッセマネの園」、「万国民の教会」、マルコの家といわれる「聖マルコ教会」、イエスの裁判が行われた場所「エッケ・ホモ教会」、マリア生誕の地「聖アンナ教会」等々、とにかくエルサレムは町のどこを歩いても遺跡に出くわすようだ。だが、2000年前の話なので、どこまで史実で事実なのかはまったくわからない。しかし、そうと信じられていることは事実である。

最後の晩餐の部屋

 ダビデ王の墓の近くに、イエス最後の晩餐をとったといわれる部屋がある。現在の建物は十字軍が建てたもので、15世紀のオスマン朝の時代にはイスラム寺院として使われていたという。
 部屋の中は何もなかった。ただ部屋があるだけだった。いろいろ理由があるのだろうが、あの「最後の晩餐」をイメージさせるようなものは何もない。どこの国からの信者たちだろうか、部屋いっぱいに響く大きな声で讃美歌を歌っていた。それを聞きながら、ぼぉーとして、最後の晩餐の部屋を眺めていた。

 左のダ・ビィンチの「最後の晩餐」は、残念ながらイメージすることはできなかった。この絵はダ・ビィンチの全くの想像の産物であり歴史考証はなにもないが、ドラマチックで興味がつきない。

  紀元30年頃の食事は。絵のような立派な食卓などではなく、床に敷いた敷物に直接座り込んで、食事をとるのが一般的だったようだ。

 マタイ福音書では次のように描写している。
「ユダという12人の弟子の一人が大祭司連のところに行って、「いくらくれますか、あの男をあなた達に売ってもいいが」と言った。彼らはシケル銀貨30枚(6万円)を払い渡した。この時からユダは、イエスを引き渡すよい機会をねらっていた。」
「イエスは12人の弟子をつれて席につかれた。彼らが食事をしているとき、言われた、「アーメン、わたしは言う、あなたたちのうちの一人が、わたしを敵に売ろうとしている!」これを聞くと弟子たちはすっかり悲しくなって「主よ、わたしではないでしょう!」と人々はイエスに言い始めた。」


オリーブ山から見たウルサレム。この日は前日の強風のため砂塵が町を覆っていた。

エリコの町から見た「誘惑の山」。山の中腹の切り立った崖に修道院がある。
その山の麓までロープウェイが通っているが、動いている途中で何度も停止するという。観光サービスのためではないそうだ。

エリコ Jericho

 エリコは死海の北端にほど近い、海抜-260mの低地にある古代からのオアシスの町、パレスチナ自治区にある。水が豊富で過ごしやすく暖かい気候。B.C.7〜8000年あたりから人が住んでいた遺跡があり世界最古の都市ともいわれている。

 モーセは、約束の地カナンへは入る直前のネボ山で死んでしまう。後を継いだイスラエル人の指導者ヨシュアが、ヨルダン川を渡り、エリコを陥落させカナンへ攻め入った。旧約聖書のエリコ攻略は、紀元前1300〜1200年頃に、パレスチナのエリコの民に対して行われたと伝えられる大虐殺である。ヨシュアがカナンの地に入り、最初に攻め落とした町がエリコだったという。
 旧約聖書・ヨシュア記によれば、ヨシュアは神の話にしたがって、神の箱を担いで六日間町の周りを回り、七日目に七人の祭司が角笛を吹きならき鳴らし、人々が時の声をあげると、街の城壁は崩れ落ち、エリコを攻略することができた。彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた」 という話。


テルアッスルターンの遺跡から、エリコの町を見た。町の向こうに誘惑の山が連なっているが、草木一本ない荒涼とした砂漠。

 エリコ攻略にはこの街の遊女が手助けした。 指導者ヨシュアはエリコ侵攻直前にこの遊女とその親族を逃した。
 これらの話が何を意味しているのかは不明。

 他にも、イエスの「荒野の誘惑」という新約聖書の話がある。
 「間もなくイエスは悪魔の誘惑にあうため、御霊につれられて荒野に上がられた。四十日四十夜断食をされると、ついに空腹を覚えられた。すると誘惑する者(悪魔)が進み寄って言った。「神の子なら・・・そこらの石ころに、パンになれと命じたらどうです。」しかし答えられた、「"パンがなくとも人は生きられる。もしなければ、神はそのお口から出る言葉のひとつびとつでパンを造って、人を生かしてくださる"と聖書に書いてある。」」(マタイ福音書)
 イエスの言葉は、悪魔の問いへの直接の返答になっていないが、人はパンはなくても神の言葉によって生きられるというイエスの言葉は感動的である。もちろん、人はパンを食べなければ生きられないというのは前提の話ではあるが。


テルアッスルターンの遺跡から見たエリコの町並み。この遺跡にはがっかり。緑が多い美しい町だという。

  その後、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の上に立たせて「神の子なら飛び降りてみろ」という。イエスは「あなたの神なる主を試みてはならない」と答えた。 
 さらに、悪魔はイエスに世界中の栄華をみせて、ひれ伏して私を拝むなら、それをすべてあげようと言う。イエスは言った、「引っ込んでろ、悪魔!神なる主を拝め、主のみに奉仕せよ。」
 イエスは悪魔の誘惑を払いのけ、天使たちに祝福されたという話。

 エリコは、B.C.8000年あたりから開かれた最後の都市だといわれるが、交易の拠点という他、農業や牧畜ではなく、やはり死海や近くから取れる塩の流通が、都市化の大きな理由だったのではないかといわれている。当時、死海の塩は食用になったのだろうか。


クムランの山。中腹の洞窟に人々は住み、集会所で宗教生活をしていたようだ。

死海写本が見つかったクムラン

 死海の北西、岸から1kmほど入った岩山に、クムラン人が住み始めたのは、B.C.8世紀頃だという。B.C.2世紀頃にクムラン教団と呼ばれるユダヤ教の一派が、集団で禁欲的な生活をしていたようだ。ユダヤ教の伝統や習慣を重んじ、自給自足、共有財産制のもとで生活をしていた。
  B.C.2世紀頃に数1,000人いたと思われる人々も、紀元70年頃のローマ軍とのユダヤ戦争で滅んでしまったようだ。マサダ要塞がローマ軍に包囲される頃に、写本の多くがここクムランに秘匿されたのではないかという。

 1948年、このあたりの洞窟で遊んでいたベドウィンの少年が、土器の壺に入った文書のようなものを見つけて届け出た。発見に驚いた当局は、その文書に高額の報酬を出した。そうしたら、近くに住むベドウィンの人だちが大挙して岩山を探し回り、次づきと文書をみつけ報酬を手にしたという。


正面の谷に面した洞窟から壺に入った死海写本が見つかった。
ローマ軍がエリコに入ったとき、 クムランの人々は、写本を壺に入れ洞窟などに隠し、この地をさっていったようだ。

 報酬に味をしめたベドウィンは、1枚の写本を2つにさらに4つに分けて当局に売り込んだ。当局は文書紙片1つにつきはらっていた報酬を、文書の面積により額を決めることにした。その結果、まとまった写本が続々と発見されるようになったのだという。
 写本は、B.C.2世紀頃の製作になるもので、羊皮紙やパピルス、陶器に書かれており、古ヘブライ語、ギリシヤ語などで記された、イザヤ書全巻を含む旧約聖書や創世記外典など、600巻を超える巻物だった。

 写本は、壺に入れられ2000年余りたって日の目を見ることになった。 写本は現在、イスラエル博物館の死海写本館に納められ、公開されている。


ロープウェイ乗り場からマサダを見る。 約400mの高さがある。

 

マサダ Massada


 紀元前40年にヘロデ王は、エルサレムから妻と家族を連れて逃げだした。マサダを避難場所として使っていたが、そこからエジプトに行き、さらにローマにたどり着いた。紀元前37年、ヘロデはローマからユダヤの王と認められ、ローマ軍二師団とともに、マサダに戻ってきた。


マサダから下のロープウェイ乗り場を見る。2つの塀で囲まれた場所があるが、ローマ軍の兵舎があった場所。

  ヘロデは、マサダに壮麗な大宮殿を築き、堅牢な要塞も建てた。豪華なモザイクの床や壁画の他、巨大な貯水槽やサウナ設備、食料庫を備えていた。だが、ヘロデの息子の代になるとマサダはローマの管轄下におかれた。
 マサダは紀元66年にユダヤの熱心党に占領されて以来、ユダヤ軍の拠点となった。70年にローマ軍によりエルサレムが陥落すると生き残った多くの人々がマサダに逃げてきて、この頂上にたてこもった。
 72年までローマ軍に抵抗していたが、73年ローマ第10軍団が最後の要塞を取り囲んだ。 967人の熱心党ユダヤ軍は、必至で要塞を守った。ローマ軍はマサダの要塞にとりつくために谷を埋め立てて坂道をつくり、要塞の壁を突き崩す、あるいはその上に侵入するための攻城兵器を要塞の側に建造した。明日は攻め落とされるというその日、敵に捕らえられるよりはと7人の女子供を除き全員が自殺して果てた。 ユダヤでは自殺は禁止されていたので、お互いを殺し合ったのだという。

 そのような言い伝えがあったが、そのとおりに砦の前の谷を埋め尽くした坂道が見つかった。それによりマサダ砦は2001年に世界文化遺産に認定された。


ローマ軍がマサダを攻略するために築いた坂道がそのまま残っている。

  ユダヤ教は自殺を禁じている。そのためお互いが殺し合い最後の人だけが自殺したのだという。

 その後、ローマ軍の要塞として使用されていたが、間もなく廃墟となった。5世紀にビザンチンの修道士たちが少数住みつくこともあったが、イスラエル国が誕生するまで静かな荒れ地となって放置されていた。

 現在、ここではイスラエル軍機甲部隊の選り抜きの兵士たちの厳粛な宣誓式が開かれている。その式典では、「マサダは2度とおちることはない」という言葉をもって熱心党の伝統を引き継いでいるという。


マサダ砦からローマ軍が築いた坂道を見た。左側に道が作られていて砦まで歩いて登れる。このローマ軍が築いた坂道が言い伝えの通りに残っていたため、世界文化遺産として登録がなったのだという。



 ローマ軍は上の絵ような攻城兵器を作り、坂の上に建てて兵士を城壁の上に送り込もうとしていたようだ。この手の攻城兵器の開発と製造は、建造物大好きのローマ軍にはお手の物。だが、木1本生えてないこの地で材木などをどうやって調達したのだろうか。

 坂道と攻城兵器の製造には、捕えられたユダヤ人たちが使われ、特に要塞からの攻撃にさらされる危険な仕事は彼らに命じられた。要塞の兵士は泣く泣く同胞に向けて岩を投げ落としたのだという。
 攻城兵器が完成した翌日、要塞突撃の日、ローマ軍は相当の犠牲を覚悟して突入したが、要塞からの抵抗はなくあたりには生きている人の姿はなかった。マサダの熱い風が静かに吹いているだけだったという。

   
photo by miura 2012.3
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