メニューへ
エルサレム
ヴィアドロローサ
ベツレヘム
ガリラヤ
ヨルダン・ペトラ
ヨルダン

イエス生誕の地 ベツレヘム Bet Lekhen  [地図]



ベツレヘムの街中。小高い丘にある町。

 ベツレヘムはエルサレムから10Kmくらい離れたところに位置しているが1995年以降、パレスチナ自治区に属している。人口は約3万。年々減少しているとのこと。
 ベツレヘムに入るにはイスラエル側の検問を経なければならない。簡単な検問だったが、日本からの観光客ということでフリーだったのかも知れない。
 町はコンクリートの壁で覆われている。パレスチナ自治区の悲しい現実である。町は閑散としていて街中でも人が少なく、観光以外の産業がどうなっているのか心配になってしまう。

 旧約聖書の時代、ダビデの家族がここに住んでいたらしい。マリアとその夫ヨセフは、ガリラヤ地方ナザレの出身であるが、マリアはエルサレムの近くのここベツレヘムでイエスを生んだことになっている。        1099年、第1次十字軍によりベツレヘムは占領された。砦が築かれ、生誕教会の北側に新しい修道院が建設された。
 1187年、エジプトとシリアのスルタンであるサラディン率いるイスラム軍が、十字軍から街を奪還した。キリスト教徒は立ち退かざるをえず、逆に正教徒は帰還が許された。


ベツレヘムの中心にある広場。
 ベツレヘムの中心にある広場。
 広場の中心には高いミナレットを備えたきれいなモスクがある。この広場の対面に 「キリスト生誕教会」がある。
  「イエスはヘロデ大王の代にユダヤの町ベツレヘムでお生まれになった」(マタイ福音書)とある。イエス・キリスト生誕の地に建てられたといわれる「生誕教会」はローマ・カトリック教会、(東方)正教会、アルメニア使徒教会の共同管理下にある。

 「ルカ福音書」には、次のようにある。
「全ローマ帝国の人口調査の勅令が皇帝アウグストから出た。・・・ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上がった。彼はダビデの家の出、またその血統であったからである。すでに身重であった妻マリアと共に、登録を受けるためであった。するとそこにおる間に、マリアの月満ちて、初子を産み、産着にくるんで飼葉桶(かいばおけ)に寝かせた。宿屋には場所がなかったのである。」


「生誕教会」はローマ・カトリック教会、(東方)正教会、アルメニア使徒教会の共同管理下にある。城壁や砦のような歴史を感じさせる外観。
 『ルカ福音書』では、ベツレヘムの宿が混んでいたために泊まれず、イエスを飼い葉桶に寝かせたことになっている。人口調査のため混んでいて宿がなかったのか、宿には泊まったが産む場所や産まれたばかりの子を寝かせられるような場所がなかったのか。そのとき、天使が羊飼いに救い主の降誕を告げたため、彼らは幼子イエスを訪れ、祝福したとなっている。
  『マタイ福音書』では、東方の三博士が星に導かれてイエスを礼拝しに来る。東方の三博士は、救世主イエス・キリストの降誕を見て拝み、乳香、没薬、黄金を贈り物としてささげたとされる。ローマ支配下で親ローマ政策をとったユダヤのヘロデ大王は、新たなる王(救世主)の誕生を怖れ、生まれたばかりの幼子を見つけたら自分に知らせるようにと博士たちに頼むが、彼らは夢のお告げを聞いてのでヘロデ王のもとを避けて帰ったといわれている。
 ヘロデ王は、イエスがあらわれると自分の地位が危うくなることを恐れ、2歳以下の子供を全員殺させたという。

教会の入り口は、白黒の男女の先にある。
 イエスの生誕がベツレヘムでも、実家がナザレにあって、幼少期から大人になるまでナザレの実家で暮らしたので、イエスは一般には、ナザレ出身者としてみなされている。
 旧約聖書の古代イスラエルのダビデの時代から、ベツレヘムでは争いが繰り返されてきた。ペルシャ軍の侵入、十字軍による解放、サラディン率いるイスラム軍の支配など、イスラム教徒とキリスト教との軋轢の歴史、その中を生誕教会は生き抜いてきたという現実を、ベツレヘムにいると実感できる。
 2002年にも、この生誕教会でパレスチナ人とイスラエル軍の間で銃撃戦があったようだ。
 教会への入り口は、人が屈まないと入れないほど小さい。これも教会の防衛的な要塞化の歴史を物語っているようだ。入り口の上にはもっと大きなアーチ状の石組があり、かっての入り口だったことがわかる。イスラムの軍が馬に乗って侵入するのを防ぐという目的があったようだ。

小さな入り口を入るとすぐ生誕教会の内部になる床の一部がガラス張りになっていて、そこからコンスタンチヌス帝が建てた教会のモザイクの床が見える。祭壇の後ろから地下洞窟に入る。

地下洞窟の銀の星。イエスが生まれたとされる飼葉桶の場所だともいわれている。

フランシスコ派修道院聖カテリーナ教会。
  聖誕教会の地下にイエス聖誕の洞窟が保存されている。イエスは、日本では通説で馬小屋で生まれたということになっているが、ルカ福音書では「飼葉桶」となっているだけ。東方から占星術の学者を導いた星を記念して、聖誕のこの場所に銀製の星がはめ込まれている。これにはラテン語で『ここにてイエス・キリストは生まれたまえり』と記されている。

 東ローマ帝国(ビザンチン帝国ともいう)コンスタンチヌス帝の母ヘレナは385年に飼葉桶のあった跡に教会を建てた。その後もコンスタンチヌス帝は教会の改修を続けたが、この時建てた教会は今でも教会の一部として残っているという。

 左の写真は、フランシスコ派修道院聖カテリーナ教会の礼拝堂。生誕教会の一部だが、その北側にあるきれいな教会。12月24日のクリスマスイブのミサは世界にテレビ中継されるという。12月25日がイエスの誕生日ということになっているが、教会によっては他の日としているところもあるようだ。実際、イエスの誕生日がなぜ12月25日なのかは不明なようだ。

  祭壇の後ろのステンドクラス。
  イエス生誕の様子だが、東の国の博士が3人立ち会っている。マタイ福音書では「黄金と乳香と没薬」をマリアに贈り物として捧げている。

 この教会内の地下には、聖ヒエロニムスが聖書翻訳のために籠っていた洞窟がある。ギリシャ語新約聖書を底本とし、ヘブライ語聖書も参考にしながら、ラテン語訳聖書の決定版を生み出すべく、全聖書の翻訳事業にとりかかったという。この聖書が中世から20世紀にいたるまでカトリックのスタンダードになったという。
  ヒエロニムスはローマの婦人パウラの協力で翻訳を成し遂げたということだが、夫人がが死ぬとその骨を傍に置いて作業を続けたという。


フランシスコ派修道院聖カテリーナ教会にはうつくしい中庭。

  フランシスコ派修道院聖カテリーナ教会にはうつくしい中庭があり、そこに聖ヒエロニムスの像がたっている。彼はすごい形相をして聖書の翻訳に取り組んでいるのだが、かれの足元にはひとつの髑髏がころがっている。この骸骨がローマの婦人パウラなのだという。この奇妙な像の前で、観光客はたたずんでしまう。


パレスチナ自治区を囲む塀。

 ベツレヘムはパレスチナ自治区にある。イスラエルの中にこのような塀に囲まれている。パレスチナは地中海東岸、現代の国家でおおよそイスラエルとパレスチナ自治区、ヨルダンのうち東部の砂漠地域以外、レバノンとシリアの一部を指すようだ。要な住民はアラビア語を日常語とするムスリム(イスラム教徒)、キリスト教徒、ユダヤ教徒(ミズラヒム)である。パレスチナの歴史と現実は複雑で、イスラエルとパレスチナ自治区はなんとか平和共存の道をさぐろうとしているが、現実はなかなか容易ではないようだ。

   
photo by miura 2012.3
メニューへ  ページトップへ