ヨルダンの旅 Jordan |
|
|
ローマ都市 ジュラシュ
ヨルダンの歴史と文化は、いくつもの異文化が複雑に影響しあって融合しているという。アッシリア・エジプト・ローマ、ビザンチン、イスラムなどの列強の文化が、何世紀にもわたって交互にこの地域を支配した。 左の凱旋門は、ハドリアヌス帝の巡行を記念して建てられたもの。3つのアーチをもつ立派なもの。 |
メインストリートの左右の列柱。 |
ローマの街の中央を通る幹線道路。このメインストリートは約800mも続き、中央は敷石で舗装され、道の左右は巨大な列柱を備えたアーケードになっていた。現代でも、こんな立派な通りは見られないのに、どうして紀元1世紀頃に造ることができたのだろう。 ローマ遺跡には、菜の花と遊ぶ子供たちの姿がよく似合う。 |
ディオニソス神殿跡の大聖堂の柱。 |
家族だろうか、遺跡の石段に腰掛けて現代の街を眺めていた。街中にローマ遺跡が残る風景はいいものだ。 |
神殿の柱は、力を加えて力の波を合わせると揺れる。柱の台に出っ張りがあり石柱の下はにはくぼみがあり、揺れるような造りになっている。耐震構造だという。 |
遺跡の草は、ベトウィンの子供が羊やヤギたちを引き連れて草を食べさせていた。この牧歌的な雰囲気もローマ遺跡にふさわしい。 |
左の写真は、ローマ式円形広場。 上はメインストリートの列柱。 |
|
ローマ遺跡につきものの円形劇場。 |
劇場の中で、楽団がトルコ風?の音楽を鳴らしていた。この3人は人懐っこい顔と古風ないでたちで観光客に人気があった。 浄財箱にはお札がいっぱい詰まっていた。 |
|
死海 |
ホテルから死海の渚に出るところ。 気温は18度程度しかなかったが、ここまで来て泳いでみない手はないと、海に飛び込んだ。 |
死海の南部の海は北部と水路でつながっているが、やがて蒸発してなくなるだろうとのこと。上の写真の白いのは塩。ブルドーザーが塩をかたづけ水路を整備しているようだった。 |
ネボ山頂の改修中の教会 山頂からのカナンの地全景の眺め ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が訪れた時の記念碑 |
モーゼ終焉の地 ネボ山Memorial Church of MosesのMap
旧約聖書には、エジプトで苦しむイスラエルの民を救い出すためにモーゼが先導する「出エジプト記」がある。約束の地であるカナンの地(パレスチナ)を目指してシナイ半島の荒野をさまよい、現在のヨルダンを経由し、カナンの地に住む民族と抗争することになる。 教会があるたずだが、改修中でまったく見えない。資料館には旧約聖書の世界がわかっている人には興味深い展示品が多い。 風が強く寒い日だった。日本人観光客にはなじみが薄いが、キリストやユダヤ教の人々には、聖書の世界の物証のひとつなのだろう。世界からの観光客が多かった。 |
ギリシャ正教のジョージア教会 |
マドバの聖ジョージ教会 聖書にもメドバと記述されているほど古い町。 東ローマ帝国=ビザンチンの時代には繁栄し、モザイク職人の養成所があるほどモザイクが盛んな土地だったようだ。 残存する地図の断片には、エルサレム・ベツレヘム・エリコ・ガリラヤ湖・死海などが残っている。ギリシャ正教のジョージア教会はローマ時代に建てられたもので、その当時の聖地巡礼者たちが携行していた絵地図のようなものではないかと言われている。それが教会の床にモザイクされるのだから、当時の人もこの「パレスチナ地図」がよほど気にいっていたのだろう。 |
「パレスチナ地図」に描かれたエルサレムの街。 |
6世紀頃のエルサレム絵地図だといわれている。地図には、聖なる丘の神殿や左右のメインストリートなどが表示されていて、ゴルゴダの丘など当時のエルサレムを知る手かがりにもなっているという。下は、モザイク絵地図の残された全景。虫喰い状態が残念だが、1500年前の教会の床がこれだけ残っているのは奇跡のようなものか。現在は、教会の床は絨毯を敷いてそのまま普通に使い、一般公開するときは絨毯を丸めて床を見せていた。 |
ワディ・ラムへの入り口にある観光センターのような建物。 |
ワディ・ラム 地形的には、ペトラとそっくり。数千年以上の自然の風化作用によりできた風景。 |
この地方の移動は、ラクダか四輪駆動車。 アラビアのロレンスの気分に浸るには、かっこいい男の乗り物のようなラクダに限る。残念ながら、乗る機会がなかった。 |
|
ベトウィンのお店兼住居の黒いテント。 このあたりの地形は数千年の風と水の造詣であるのだろうが、先史時代から人が住みつき、岩に絵や文字を刻んでいる。 |
|
photo by miura 2012.3 |