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イエローストーン(2)
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ヨセミテ

5.モニュメントバレー(Monument Valley)


モニュメントバレー(Monument Valley)のMap

モニュメント・バレー

 西南部のユタ州南部からアリゾナ州北部にかけて広がる地域一帯の名称。
 「コロラド高原の一部に属しているこの地域は、深い渓谷や山間台地が点在している。独特の地形は、2億7千万年位前の地層が現われたものが風化・浸食によって形成されたといわれている。現在でも風化が進んでいるため、岩山の形は変わる可能性がある。
 ロッキー山脈からの鉄分を大量に含んだ川の流れは、下流地域一帯に沈泥となって堆積し、当時の酸素濃度は現在よりも高かったため鉄分の酸化が急速に進み茶褐色の地表となった。 」(Wikipediaより)


ここがビューポイントと言われて撮った写真の一枚。

 モニュメント・バレーはアメリカの原風景ともいわれているのだが、この風景のどこがといった感じ。たしかに西部劇に出て来そうな風景ではあり、西部開拓史の象徴的なイメージなのかもしれない。この風景は多くの映画や写真におさまってきた。
 ここは国立公園ではない。ナバホ族居留地にあり、ナバホの人たちが管理運営するナバホの人々の公園である。Monument Valley Navajo Tribal Park という。


ビューポイントの岩の上でポーズをとる観光業者の人?

ウエスト・ミトン・ビュート West Mitten Butte のMap

 メサの休憩所の入口には、ジェロニモの写真や旗が貼られていた。ナバホ族末裔の人々にはジェロニモはやはり今でも英雄なのだろうか。先住民インディアン末裔の何か哀しく熱い思いのようなものが伝わってくる。ここで巻タバコ用のパイプを記念に買った。現役愛用している。

 メサといわれるテーブル形の台地や、さらに浸食が進んだ岩山ビュートが点在している。メサ (mesa) は、侵食によって形成されたテーブル状の台地のことで、「卓状台地」とも呼ばれる。さらに浸食が進み孤立丘となったものは「ビュート」 (butte) と呼ばれる。上位に硬い水平な地層が、下位に浸食されやすい柔らかい地層がそれぞれある場合、下の地層が浸食されて急崖を形成し、上部は浸食されないためにテーブル状の台地となる。 (Wikipediaより)

 


Goulding's logeよりの夕日
これぞアメリカの原風景か。

Goulding's loge & Museum


 公園から少しはなれたところにあるロッジと博物館。
 1923年、この地に魅せられた白人のGoulding夫妻がこの地を購入し小さなストアと宿屋を開いたのが始まり。誠実な人柄でナバホの人々にも徐々に受け入れられていった。

Goulding's loge & MuseumのMap


右手のたてものが博物館。前の庭からの眺めは最高だったが、6月の太陽は熱かった。藤棚の下のベンチで、この原始アメリカらしい風景に見ほれた。


カナダから来たという夫妻のBMW1200GS 。私も日本のGS Userと自己紹介。

 1938年、夫妻はハリウッドの映画会社が撮影場所を探しているという話を耳にした。なけなしの旅費でハリウッドに出かけ、何度も門前払いされながらもようやくジョン・フォード監督にモニュメントバレーの写真を見せて説得した。監督は写真を一目見て気に入り、その3日後には「駅馬車」のロケが開始された。Goulding夫妻のストアと宿屋は大いににぎわったという。当時、宿屋だった建物は現在、博物館として公開されている。


髪を結いあう女性


あかんぼうはかわいい。モンゴリアンの血がまじっているのかも。
当時の牧場
踊りの奉納か


あかんぼうのくるみ方が独特


 博物館の中は、この地で撮影された映画の懐かしいポスタが貼られていた。なぜか日本語のポスタもあった。先住民の道具類の展示や当時の生活の様子を写す興味深い写真も数多く展示されていた。写真がよくできていたので、ここでも何枚か使わせてもらった。

 


ウエスト・ミトン・ビュート。これから灼熱の砂漠の中を一周する。細かな砂の道は歩きにくい。硬い土の道は快適で楽しい。

ウエスト・ミトン・ビュートWest Mitten Butte

 直訳すると「西の手のひら」丘、といったところか。左手を開いているように見える。このビュートを2時間かけて一周した。いざ出発。


後ろ側から見たウエスト・ミトン・ビュート。指が5本分かれている?ように見える。


 横から見たウエスト・ミトン・ビュート。素晴らしい。
 西部劇で灼熱の砂漠に迷い込んだ旅人のように気分。安全が保障されているツアーでよかった。

ウエスト・ミトン・ビュート West Mitten ButteのMap


まともな木も生えていないのにこんな工作物が。何かと思ったら編み物のデモンストレーション用に使われているものだという。

 博物館にこんな写真があった。 織物を織る先住民の末裔と観光客。左の写真にある木組みがつかわれたのかしら。ドレスを着た白人女性との取り合わせが、なにかいやな感じ。


ビジターセンターから見たモニュメントバレー。クリックで拡大。
ビジターセンターは、大きなテーブル状台地メサの麓に隠れるようにたたずんでいる。ここからの景観が最高。映画「駅馬車」では、下に見える道が撮影場所になったという。


先住民の住居の観光用モデル。土のお椀を伏せたよう。

ビジターセンターの前の駐車場。やはりハーレーが多い。


 この椅子に座るとパッピーになれると書いてあった。座ってみた。そこから見た風景を心に留めておこうと思った。マンハッタンと西部劇の風景、やはりアメリカは多様だ。多様性こそアメリカのパワーの源泉だと思った。

ジェロニモ(Geronimo)
1829年6月16日 - 1909年2月17日
アメリカインディアン、アパッチ族のシャーマン、対白人抵抗戦である「アパッチ戦争」に身を投じた戦士。なお、部族の酋長と誤解されている例も多いが、実は酋長ではなく部族の「指導者」でもない。メキシコ軍に家族が虐殺されたのを機に、アパッチ族の戦士たちとともに対白人のゲリラ戦に従事した。
ちなみに戦士集団だったアパッチ族には「酋長に戦士が服従する」という義務も風習もない。戦士は結束はしてもすべて個人行動で動くものであって、戦士たちはジェロニモ個人を慕って抵抗戦をともにしたのである。ジェロニモが軍事的な指導をしたこともない。
1886年の降伏後の記念撮影。身長は約1m70cm程の中背、身体に8か所の戦傷を持ち、この傷のせいで後年は口の右側がたるみ、常に冷笑しているような表情となった。

マンガス・コロラダス酋長の属する「ミンブレス・アパッチ族」で、ジェロニモは山岳戦士としての訓練を積んだ。不眠に耐える訓練、水を口に含んだまま、これを一度も吐き出さずに往復6キロを超える山岳地帯を走る訓練、弓矢や投石機の扱いの習得などを経て、メキシコに遠征しては部族の生業である略奪に励んだ。アパッチ族にとって、策略は勇気に勝るとされ、夜陰に乗じて牧場から牛や馬を攫うという手法は部族の美徳とされていた。

1848年、17歳でジェロニモはアロペと結婚する。のちに彼女との間に3人(4人ともされる)の子供を授かる。
1858年、チワワ州が略奪部族ミンブレス・アパッチ族に対して「和平協定」を申し出た。その内容は「年4回、軍駐屯地において、毛布、布地、トウモロコシの粉、メスカル(アパッチ族の大好物である)を支給する」というものであった。
これに先駆けてメキシコは1837年から、アパッチ族の頭の皮一枚に対し、男で100ペソ、女なら50ペソ、子供なら25ペソの賞金を懸けていた。このため、アパッチ族はこの申し出を疑ったが、マンガス・コロラダスたちは合議の結果、一隊の派遣を決め、運搬手伝いに女子供も同行することとなった。ジェロニモは妻のアロペ、老母、幼い子供たちの家族総出でこれに加わった。しかしメキシコ側では、軍政長官ホセ・マリア・カラスコ将軍がこれを好機とアパッチの皆殺しを図っていた。
メキシコ北部のヤーノス村に到着したジェロニモらは、用心深く郊外に野営し、町へ向かったが、そこで大歓待を受けた。すっかり油断した彼らを、カラスコの軍が襲ったのは三日後だった。カラスコは野営を完全包囲した後、これを皆殺しにした。チワワ州のメディナ大佐はこれに怒って政府に告訴したが、しばらく待たされた後、この軍事行動は是認された」と語っている。

こうして家族すべてをメキシコ人に殺されたジェロニモは、遺品をすべて野辺送りにして焼いた。温厚だった彼の性格は暗く怒りっぽく変わり、メキシコ人への終生の復讐を誓う獰猛な戦士と変貌した。マンガス・コロラダスたちが復讐戦を決定すると、ジェロニモはアパッチの各支族から戦士を募る役目を引き受け、彼はチリカワ・アパッチ族のコチーズ酋長の元を訪ねた。このとき、チリカワ族に対して以下のように演説を行ったと、のちにジェロニモは述べている。

「同胞諸君、メキシコ人の不当な行為に関しては既にお聞き及びのことと思う。我々もメキシコ人も同じ人間のはずだ。だから今度は、彼らがしたことを我々がやり返してもいいはずだ。さあ行こう、奴らの住処を襲うのだ。来てもらえるだろうか? よろしい、さあ、どうかみんな参加してもらいたい」
こうしてのちのち長きに亘るアパッチとメキシコの戦争が、このとき始まった。ジェロニモは銃弾の雨の中をものともせずにナイフを片手に戦場で暴れ狂い、その様を見て畏敬に駆られた一人のメキシコ人が、守護聖人の「ジェロニモ!」の名を叫んだ。これに呼応して、人々が口々に「ジェロニモ!」と叫んだ。こうして、この日このときを境に、彼の名は「ジェロニモ」となった。

メキシコとアメリカ双方は、アパッチの略奪に頭を悩ませ、何度も遠征をおこない掃討戦を試みた。しかし山岳ゲリラとも言うべき彼らの戦いは変幻自在で西部大平原のスー族と並んで、アパッチ族は最後までアメリカ合衆国に抵抗したインディアン民族となった。数々の戦いの中に、ジェロニモの姿があった。彼は雄弁に白人への抵抗を呼びかけ、白人と戦い続けた。

1886年に投降して以後、ジェロニモは生涯米軍の虜囚として扱われた。生まれ故郷のメキシコ国境へ帰りたいというジェロニモの願いは叶えられず、オクラホマのシル砦でその一生を閉じた。ジェロニモの墓はシル砦にある。(Wikipediaより)

マヌエリートManuelito
彼は1818年頃、ユタ州南東部で生まれる。
ナバホ族の主要な戦闘指導者の一人だった。アメリカ軍の弾圧に対してナバホ族の人々をまとめて抵抗した。
彼は1864年にロングウォークを経てニューメキシコ州ボスケ・レドンドにナバホ族の人々を強制的に撤去しようとする連邦政府に抵抗した。
1893年、米国政府の収容キャンプにて病死した。


アメリカ・インディアンは、遺伝子から有史以前のある時期にヨーロッパから移住した可能性が指摘されているが、マヌエリートには東アジア・モンゴリアンの面影がある。(Wikipediaより)

 Goulding Museum(コールディング博物館)の受付に、プロマンドのように写真を販売していた。ジェロニモはすぐに分かった。マヌエリートはだれだか分らなかったが、何か昔の武士の面影があって親しみを感じた。写真を買い求めた。モニュメントバレーの記念にこのサイトでも掲載させてもらった。

 

photo by miura 2018.6
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