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マチュピチュ Machu Picchu [地図]



秘境の観光地?

列車でマチュピチュ村へ

 クスコからリャンタイタンボという村までバスで移動する。1時間30分。リャンタイタンボに宿泊し、翌朝、村の駅からペルー鉄道の列車に乗る。2時間で終点のマチュピチュ村に着く。
 この村の先はアマゾンのジュングルに続く熱帯地帯だが、標高2000mにあるマチュピチュ村は真夏2月の雨期ということだが、暑くはない。
 マチュピチュ村は観光業で成り立っている小さな村で、モダンな建物が並んでいるわけではないが、たたずまいがすばらしい。駅前のお土産屋さんもいいが、村にでるともっといい。マチュピチュ遺跡へのアプローチとしてこの上ない雰囲気をもっている。
 左の写真は、列車のホームのようだが、レストランが軒を並べている。 この通りは線路が道路となっている。

 村の中心にある広場。左手の山の裏側にマチュピチュ遺跡がある。ウルバンバ渓谷沿いに歩いているだけでは、峠の向こうにインカの都市があるとはまったくわからない。現代は、バス道路が上まで通っているのでその様子は下からでもわかる。
 村からマチュピチュまで徒歩で、登りで3時間、下りで2時間くらいかかるそうだ。世界の若者たちがマチュピチュから徒歩で下りていた。これから徒歩で降りるという元気な日本の青年たちに出会えたのがうれしい。
 広場には世界中からの旅行者や地元の人々が憩いでいた。観光地なのに素朴で懐かしいような感じのする村に、自然となじんでいる感じ。


初日のマチュピチュは雨の中。観光が1日しかなく、それが雨だったら落胆はいかばかりか。 だが、雨のマチュピチュもいいものだ。

マチュピチュ遺跡へ

 初日はあいにくの雨。こういうこともあるのだ。これが訪問1回だけツアーだったら、何のために地球の反対側まで来たのだろうと悲嘆に暮れたことだろう。南米の旅のクライマックスはなんといってもマチュピチュにつきる。2日目に期待することにする。


りあえず初日は、雨の中歩いた。「番人小屋」で雨が切れるを待つ。多国籍の人々が、こんなことになってしょうがないなあ、といった顔をして雨宿り。インカ人になった気分でじっと待つ。 30分くらいで奇跡的に雨が小降りになった。遺跡が大分見えてきた。ここまで来て、雨くらいでひるんでなるものかと、遺跡探検?に小屋を出る。

 マチュピチュは、米エール大の学者ハイラム・ビンガム氏により1911年7月24日に発見された。今年2011年の7月には、発見100周年の記念行事がおこなわれる。ナショナル・ジオグラフィック誌 が1913年4月号のすべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。
 ただし、最近になり、マチュ・ピチュはすでにペルー人が発見していたという説が浮上した。それによると、クスコの農場主アグスティン・リサラガが、ビンガムより9年早い1902年7月14日にマチュピチュを発見したという。
 マチュピチュとは「老いた山や峰」という意味でビンガムが地元の人に聞いてつけたものという。ちなみに正面の高い山はワイナピチュで「若い山や峰」という意味だという。ワイナピチュにも登ってみたかったが、今回は断念。

 マチュピチュは、1440年頃、当時のインカ帝国の皇帝パチャクティによって建造されたという。古い建造物は、インカ以前の紀元前まで遡るという説もあるようだ。パチャクティ皇帝を含む王族や貴族のための離宮だったという説が有力だが、多分に宗教的配慮をもって造られた都市のようだ。


マチャピチュの街に入るための門。

 マチュピチュの都市への入り口。
 マチュピチュは標高2400mのところにあり、前後は山に囲まれ、左右は切り立った崖になっている。都市に入るためには、小さな城壁のような門をくぐらなければならず、夜には門は閉じられ鍵をかけられた。

 マチュピチュはスペイン人によって追い詰められた最後の抵抗の砦ビルカバンバではないかといわれていたが、近年の研究では否定されている。マチュピチュが都市として利用されたのは80年程度の年月ではないかといわれている。
 建物の総数は約200戸、生活できた人数は500人足らずで、段々畑では食用というよりは儀式用の作物を中心につくれていたようだ。1年中ここで生活していた人は50人程度だったのではないかといわれている。


「太陽の神殿」跡の丘。

 雨雲の切れ目から「太陽の神殿」の丘が見えた。丘の頂上まで段々畑が続いている。雨の中、色とりどりのカッパを着た観光客が行きかっていた。すり鉢状の中央の広場に、リャマが自分の家の庭を散歩するように悠然と歩いていた。

 なぜこの地に都市が作られたのか。
 マチュピチュは高地にあり、かつ両側が切り立った崖上になっているため、太陽観測に最も適し、かつ宗教的理念として、太陽に近いところである、という点が場所選定の理由として挙げられている。

 左の写真は「太陽の神殿」といわれているところ。部屋の中に大おきな自然石がある。ここも堅牢な石積みの構造をもっている。だが、なぜ部屋の中に大きな石があるのか。宗教がらみだろうが、昔の人の心はわからない。


左の写真は、牢獄だったのではといわれている岩穴。クスコで見たカーブをもった石組みと同じ。

 「太陽の神殿」の頂上にはインティワタナ「太陽をつなぎ止める石」が置かれていた。日時計の役目を果たしていたようで、石の角が東西南北をさしているらしい。 太陽を使った暦を観測していたという話もある。インカ人は、古代エジプト人と同様に太陽神をあがめていた。太陽神と巨石文化、通じるものがある。だが、古代エジプトはB.C.2000年以前、インカは15世紀、3500年の隔たりがある。

 このあたり一帯はパワースポットになっていて、それを信じる人たちが世界中から集まっている。あっちこっちの石の上で座禅を組んでいた。これらの諸行は凡人にはよくわからない。
 ガイドさんの話では、 パワースポットの証拠に石が熱をもっているから触ってみろという。確かに、しばらく触っていたら、熱くなってきたように感じた。石は他から運び上げたものではなく、自然石をたくみに加工したものだといわれている。


 夏至と冬至が正確に分かる3つの窓。「3つの窓の神殿」といわれている。3つの窓の両脇に閉じられた窓がある。何かいわくがありそうだが不明。この窓に差し込む太陽が「太陽の門」の間から出ると夏至ということになるらしい。


 きちっと詰まれた石垣で整備された段々畑。下から上まで40段の畑があるという。現在は、芝生が植えられてきれいに整備されている。水はけのため、石でできた小さな水路も見つかっている。 作物は200種類、儀式用が主だったとみられている。


遺跡のあっちこっちに放し飼いのリャマたちがいた。なかなか風景に溶け込んでいい感じ。

石の住居から見た対面の山。雨上がりの雲がかかって高山の雰囲気たっぷり。

マチュピチュに向かうインカ道。

 

インカ道をたどって太陽の門へ

 翌日もあまりよい天気ではないが、「太陽の門」に続くインカ道を歩いてみた。
 登りにゆっくりと1時間30分。左の写真は観光客のために整備された「インカ道」。ほぼこんな石畳の道が「太陽の門」まで続いている。インカ人もクスコから高山のインカ道を辿ってマチュピチュまでやってきたのだろうか。
 インカ道は、クスコを中心に四方八方に伸びていて、総延長は40,000km、地球1週分に相当するという。古代ローマのローマ街道のようなものか。 20kmごとに宿場が設けられ、リレー式の伝令は1日280kmを走るという。インカ道は低地ではなく山の中腹や峠道を辿っており、きつい道が多いという。


インカ道の途中にある遺跡。

 「番人小屋」の風景。雨上がりの雲に霞む山々と「番人小屋」のシルエットが美しかった。 「インカ道」の途中には、2箇所の遺跡があった。これは最初の遺跡。ここでも意味不明な巨石が横たわっていた。


インカ道の横にある大石。何か宗教的な意味があるようだ。

 2つめの遺跡。正面の大きな岩を背にしている。岩の下にいる人たちは、パワースポットでなにやら儀式をしている様子。インカ人はやはり巨石が好きだった。だが、この巨石の文様はインカの涙を流しているように見えた。

 500〜600万年前、人類はアフリカで発生し、200万年頃までにヨーロッパとアジアに広がった。わずか5万年ほど前にオーストラリアに広がり、15,000年ほど前にようやく人類はベーリンジアの露出を渡りアメリカ大陸に上陸、1000年でアメリカ大陸の南端にまで達したという。最後の氷河期の終わり近くまで、南北アメリカは無人の大陸であったのだ。
 紀元前1200年頃にオルメカ文化、BC.650年アステカ帝国が栄え、1521年にスペインの征服者コルテスによってアステカ文化が滅亡し、1533年にはピサロによってインカ帝国が滅んだ。


「太陽の門」といわれる場所。ちょうど峠にあたる。 滅び去ってしまった文化は、石組にわずかの記憶をとどめるのみ。

 煙る「太陽の門」。マチュピチュに通じる峠に立っている。マチュピチュから見ると、夏至の日にはこの門の間から太陽が昇るのだという。内部が部屋のように作られているので、昔は小屋のようなものがあったらしい。
 インカ人はインカ道を通ってマチュピチュにやってきたのだろう。その時の、関所のような場所だったのかもしれない。

 なぜ、滅びる文明があり、栄える文明があるのか。南米の馬や鉄や車輪や文字をもたない文明は、4000年以上の歴史の蓄積を持つ西欧文化に、ほとんど触れたとたんに滅んでしまった。さらにヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘やはしかやチフスなどの伝染病によって、短期間のうちに人口の2/3から3/4が死んだという。
 14世紀、ヨーロッパを襲ったペストにより、ヨーロッパ人の1/4が死んだといわれるが、アンデスの悲劇はそれを大きく上回っている。


太陽の門の峠からみたマチュピチュ。 現在はほとんど自然に埋もれていてすぐにはそれとは分からない。クスコから来た王族たちは、この峠からマチュピチュをながめ何を思ったのだろうか。

 太陽の門をちょっと下ったところから見たマチュピチュ。雲っているせいかよく見えない。遺跡が山の緑に溶け込んでいる。右手の山がワイナピチュで、太陽の門の峠は、ワイナピチュよりやや高い所にあるという。
ちなみに左手の山がマチュピチュ山。

 1532年1月、スペイン・ピサロ率いる168人のスペイン兵士たちはインカ帝国の奥深くまで入り込んだ。インカ帝国は王位継承をめぐる内部抗争がようやく終わろうとしたいた。ピサロたちは、ペルー北部に位置するカハマルカの盆地で、4万人からなるインカ軍を打ち破り、7,000人ものインカ兵士を殺し、強大な帝国を率いてきた王アタワルパを捕虜とした。、大きな部屋いっぱいの、全国から集められた金銀財宝を身代金として奪いながら、王アタワルパ殺してしまった。首都クスコを占領し、破壊と略奪のかぎりをつくし、アンデスを植民地とした。
 アタワルパ王を頂点とするピラミッド型のインカ支配構造は、王が捕らわれたり、王の命令があると以下の組織はそれに従うしかく、組織的な脆弱性を露呈していた。


峠道から見下ろすと深い谷とマチュピチュ村のはずれの建物が見えた。

 インカ道を下る途中、マチュピチュ村のはずれが見えた。バスで登ってきたつづら折の道もよく見えた。写真のウルバンバ川の上の谷間がマチュピチュ村。これで村とマチュピチュの位置関係が理解できた。

 人間がつくった文明や文化は、いつか必ず滅んでしまうのだろうか。最強のヨーロッパ文化やアジアのはずれ極東の日本の文化も、いつか滅亡の日を迎えることがあるのだろうか。人類の歩んできた歴史は、どんなに永遠のように見えようとも、すべての文化・文明は必ず滅ぶものであることを明かしている。おごってはならない。マチュピチュはそう語っているのかもしれない。

 「番人小屋」から身たマチュピチュ。山と遺跡の美しさに何枚も写真をとってしまった。写真をクリックして拡大してお楽しみください。

 2011年2月のマチュピチュの全景。期せずして、発見当初の写真と同じ場所から撮っていた。比べてみても当時と変わっているような変わっていないような。


ナショナル・ジオグラフィック誌 が1913年4月号で掲載したマチュピチュ。

 マチュピチュは、ナショナル・ジオグラフィック誌 が1913年4月号でマチュピチュ特集にしたことで、世界的に有名になったという。マチュピチュは、米エール大の学者ハイラム・ビンガム氏により1911年7月24日に発見された。その時に掲載されたマチュピチュの全景写真。モノクロでよくわからないが、発見当初の雰囲気が出ている。
 発見当時のマチュピチュは石組の段々畑が続いているのがわかる程度で外見からは、それが都市遺跡だとはすぐには分からなかったという。遺跡を探検していて、クスコの太陽神殿と同じような素晴らしい石積みの技術を見出し、それがインカ遺跡であることを確信した。
 エール大はマチュピチュからの発掘物を大量に保管しているらしい。ペルー政府の返却要望もあり、近く却ってくるらしい。

 山々に囲まれたマチュピチュは、「空中都市」とも「宗教都市」とも「捨てられた都市」とも「幻の都市」とも言われている。
 インカ人はスペイン人の侵略を恐れてアマゾンの奥地に逃げてしまい、このマチュピチュは「捨てられた都市」だという。マチュピチュにも金銀の宝飾品があったはずだが、そのようなものはここからほとんど発見されていない。インカ人が逃げ出す時に持ち出してしまったのだとか、どこかに埋蔵されているのだろうとかいわれている。


グーグルマップより。マチュピチュ村からつづら折りの道を辿って遺跡に向かうルートと位置関係がよくわかる。

宿の前のウルバンバ川。2010年にこの川が氾濫した。

2010年に氾濫し、道路が削り取られた場所。

 村のレストランの前でアンデス音楽を演奏する若者たち。さすが観光の村だけあって、楽しめる。村の雰囲気と音楽がよくマッチしていて、とうとうアンデスの奥、マチュピチュまで来たのだという旅情にしたらせてくれてうれしい。

 駅と村を結ぶ橋のたもとのレストラン。
 こんな感じのレストランが村のあっちこっちにある。コーヒーを飲みたかったが、時間がない。ペルー鉄道の列車に乗って帰らなければ。
 思えば、タイムスリップしたような不思議な2日間だった。さようなら、アンデスがたどった悲しい歴史を明かすマチュピチュよ。静かに歴史の中で眠ってくれ。


広場に面した、リホーム中?のレストラン。 この変な建物がいい味を出していたのでついつい何枚も写真を撮ってしまった。

 広場にはインカ王の像が立っていた。その前でポーズをとる男は筆者。見ていたら、他の旅行者もみんな変なポーズをとって写真撮影していた。

photo by miura 2011.3 mail:お問い合わせ
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