マチュピチュ Machu Picchu [マチュピチュの地図] |
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秘境の観光地? |
列車でマチュピチュ村へ クスコからリャンタイタンボという村までバスで移動する。1時間30分。リャンタイタンボに宿泊し、翌朝、村の駅からペルー鉄道の列車に乗る。2時間で終点のマチュピチュ村に着く。 |
村の中心にある広場。左手の山の裏側にマチュピチュ遺跡がある。ウルバンバ渓谷沿いに歩いているだけでは、峠の向こうにインカの都市があるとはまったくわからない。現代は、バス道路が上まで通っているのでその様子は下からでもわかる。 |
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初日のマチュピチュは雨の中。観光が1日しかなく、それが雨だったら落胆はいかばかりか。 だが、雨のマチュピチュもいいものだ。 |
マチュピチュ遺跡へ 初日はあいにくの雨。こういうこともあるのだ。これが訪問1回だけツアーだったら、何のために地球の反対側まで来たのだろうと悲嘆に暮れたことだろう。南米の旅のクライマックスはなんといってもマチュピチュにつきる。2日目に期待することにする。 |
マチュピチュの拡大地図
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マチュピチュは、米エール大の学者ハイラム・ビンガム氏により1911年7月24日に発見された。今年2011年の7月には、発見100周年の記念行事がおこなわれる。ナショナル・ジオグラフィック誌
が1913年4月号のすべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。 |
マチャピチュの街に入るための門。 |
マチュピチュの都市への入り口。 |
「太陽の神殿」跡の丘。 |
雨雲の切れ目から「太陽の神殿」の丘が見えた。丘の頂上まで段々畑が続いている。雨の中、色とりどりのカッパを着た観光客が行きかっていた。すり鉢状の中央の広場に、リャマが自分の家の庭を散歩するように悠然と歩いていた。
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なぜこの地に都市が作られたのか。 左の写真は「太陽の神殿」といわれているところ。部屋の中に大おきな自然石がある。ここも堅牢な石積みの構造をもっている。だが、なぜ部屋の中に大きな石があるのか。宗教がらみだろうが、昔の人の心はわからない。 |
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左の写真は、牢獄だったのではといわれている岩穴。クスコで見たカーブをもった石組みと同じ。 |
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「太陽の神殿」の頂上にはインティワタナ「太陽をつなぎ止める石」が置かれていた。日時計の役目を果たしていたようで、石の角が東西南北をさしているらしい。
太陽を使った暦を観測していたという話もある。インカ人は、古代エジプト人と同様に太陽神をあがめていた。太陽神と巨石文化、通じるものがある。だが、古代エジプトはB.C.2000年以前、インカは15世紀、3500年の隔たりがある。 |
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夏至と冬至が正確に分かる3つの窓。「3つの窓の神殿」といわれている。3つの窓の両脇に閉じられた窓がある。何かいわくがありそうだが不明。この窓に差し込む太陽が「太陽の門」の間から出ると夏至ということになるらしい。 |
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きちっと詰まれた石垣で整備された段々畑。下から上まで40段の畑があるという。現在は、芝生が植えられてきれいに整備されている。水はけのため、石でできた小さな水路も見つかっている。 作物は200種類、儀式用が主だったとみられている。 |
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遺跡のあっちこっちに放し飼いのリャマたちがいた。なかなか風景に溶け込んでいい感じ。 |
石の住居から見た対面の山。雨上がりの雲がかかって高山の雰囲気たっぷり。 |
マチュピチュに向かうインカ道。 |
インカ道をたどって太陽の門へ 翌日もあまりよい天気ではないが、「太陽の門」に続くインカ道を歩いてみた。 |
インカ道の途中にある遺跡。 |
「番人小屋」の風景。雨上がりの雲に霞む山々と「番人小屋」のシルエットが美しかった。 「インカ道」の途中には、2箇所の遺跡があった。これは最初の遺跡。ここでも意味不明な巨石が横たわっていた。 |
インカ道の横にある大石。何か宗教的な意味があるようだ。 |
2つめの遺跡。正面の大きな岩を背にしている。岩の下にいる人たちは、パワースポットでなにやら儀式をしている様子。インカ人はやはり巨石が好きだった。だが、この巨石の文様はインカの涙を流しているように見えた。 500〜600万年前、人類はアフリカで発生し、200万年頃までにヨーロッパとアジアに広がった。わずか5万年ほど前にオーストラリアに広がり、15,000年ほど前にようやく人類はベーリンジアの露出を渡りアメリカ大陸に上陸、1000年でアメリカ大陸の南端にまで達したという。最後の氷河期の終わり近くまで、南北アメリカは無人の大陸であったのだ。 |
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煙る「太陽の門」。マチュピチュに通じる峠に立っている。マチュピチュから見ると、夏至の日にはこの門の間から太陽が昇るのだという。内部が部屋のように作られているので、昔は小屋のようなものがあったらしい。 なぜ、滅びる文明があり、栄える文明があるのか。南米の馬や鉄や車輪や文字をもたない文明は、4000年以上の歴史の蓄積を持つ西欧文化に、ほとんど触れたとたんに滅んでしまった。さらにヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘やはしかやチフスなどの伝染病によって、短期間のうちに人口の2/3から3/4が死んだという。 |
太陽の門の峠からみたマチュピチュ。 現在はほとんど自然に埋もれていてすぐにはそれとは分からない。クスコから来た王族たちは、この峠からマチュピチュをながめ何を思ったのだろうか。 |
太陽の門をちょっと下ったところから見たマチュピチュ。雲っているせいかよく見えない。遺跡が山の緑に溶け込んでいる。右手の山がワイナピチュで、太陽の門の峠は、ワイナピチュよりやや高い所にあるという。 1532年1月、スペイン・ピサロ率いる168人のスペイン兵士たちはインカ帝国の奥深くまで入り込んだ。インカ帝国は王位継承をめぐる内部抗争がようやく終わろうとしたいた。ピサロたちは、ペルー北部に位置するカハマルカの盆地で、4万人からなるインカ軍を打ち破り、7,000人ものインカ兵士を殺し、強大な帝国を率いてきた王アタワルパを捕虜とした。、大きな部屋いっぱいの、全国から集められた金銀財宝を身代金として奪いながら、王アタワルパ殺してしまった。首都クスコを占領し、破壊と略奪のかぎりをつくし、アンデスを植民地とした。 |
峠道から見下ろすと深い谷とマチュピチュ村のはずれの建物が見えた。 |
インカ道を下る途中、マチュピチュ村のはずれが見えた。バスで登ってきたつづら折の道もよく見えた。写真のウルバンバ川の上の谷間がマチュピチュ村。これで村とマチュピチュの位置関係が理解できた。 人間がつくった文明や文化は、いつか必ず滅んでしまうのだろうか。最強のヨーロッパ文化やアジアのはずれ極東の日本の文化も、いつか滅亡の日を迎えることがあるのだろうか。人類の歩んできた歴史は、どんなに永遠のように見えようとも、すべての文化・文明は必ず滅ぶものであることを明かしている。おごってはならない。マチュピチュはそう語っているのかもしれない。
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「番人小屋」から身たマチュピチュ。山と遺跡の美しさに何枚も写真をとってしまった。写真をクリックして拡大してお楽しみください。 2011年2月のマチュピチュの全景。期せずして、発見当初の写真と同じ場所から撮っていた。比べてみても当時と変わっているような変わっていないような。 |
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ナショナル・ジオグラフィック誌 が1913年4月号で掲載したマチュピチュ。 |
マチュピチュは、ナショナル・ジオグラフィック誌 が1913年4月号でマチュピチュ特集にしたことで、世界的に有名になったという。マチュピチュは、米エール大の学者ハイラム・ビンガム氏により1911年7月24日に発見された。その時に掲載されたマチュピチュの全景写真。モノクロでよくわからないが、発見当初の雰囲気が出ている。
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山々に囲まれたマチュピチュは、「空中都市」とも「宗教都市」とも「捨てられた都市」とも「幻の都市」とも言われている。 |
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グーグルマップより。マチュピチュ村からつづら折りの道を辿って遺跡に向かうルートと位置関係がよくわかる。 |
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宿の前のウルバンバ川。2010年にこの川が氾濫した。 |
2010年に氾濫し、道路が削り取られた場所。 |
村のレストランの前でアンデス音楽を演奏する若者たち。さすが観光の村だけあって、楽しめる。村の雰囲気と音楽がよくマッチしていて、とうとうアンデスの奥、マチュピチュまで来たのだという旅情にしたらせてくれてうれしい。 |
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駅と村を結ぶ橋のたもとのレストラン。 |
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広場に面した、リホーム中?のレストラン。 この変な建物がいい味を出していたのでついつい何枚も写真を撮ってしまった。 |
広場にはインカ王の像が立っていた。その前でポーズをとる男は筆者。見ていたら、他の旅行者もみんな変なポーズをとって写真撮影していた。 |
photo by miura 2011.3 |