メニューへ
南米の都市
イグアスの滝
クスコ・ウルバンバ
マチュピチュ
ナスカ

クスコとウルバンバ Cusuco & Urubamba [地図]



サクサイワマン遺跡から撮ったクスコの市街地全景。

リマにあるレ・インカ時代のピラミッド跡。

ペルーの首都リマ


 西暦200年頃から500年頃のプレ・インカ時代のピラミッド跡。天日干しのレンガでつくら650年頃まで儀式を行う神殿として使われていた。 リマ市内に大小複数の遺跡がある。上の写真の穴から子供のミイラが発見された。

 殖民地のペルーで、首都が高山のクスコから太平洋沿岸のリマに移された。首都リマは海岸に面しているが、写真のような台地の上にある都市。海からの風が心地よい。
 「恋人岬」と呼ばれるデートスポットより。海にはサーファー達が浮かんでいた。
 ペルーの大統領府。前には広場があり、市民や観光客らがう憩んでいた。これらの写真は広場から撮ったもの。
 黄色の市庁舎に、とってつけたような出窓が不似合でグロテスク。コロニア(植民地)風の建物というのだとか。  ペルーの首都リマは、1542年にペルー副王領の首都となった。高山のクスコから太平洋沿岸のリマに移され、金銀などの鉱物の搾取・運送が宗主国スペインによって行われた。

 街の中央にあるカテドラルとアルマス広場。市民と観光客が半々か。インカ人の多くの血が流されたこの広場で、心穏やかでいられるインカの末裔は少ないという。カテドラルもおどろおどろしく、どんな宗教の名のもとに虐殺が行われたのか考えてしまう。

インカ帝国の首都クスコ

 1200年代から1532年までの間、クスコはインカ帝国の首都であった。インカ時代の面影は、建物の基礎として使われた石組みのみ。
 市の中心の広場に面したカテドラル。この広場でかって多数のインカ人の血が流された。そのためこの場所を忌み嫌う住民もいるという。


サント・ドミンゴ教会の前の広場。 全体的になんとなくちぐはぐで異様な感じがする。

 サント・ドミンゴ教会。コリカンチャ(インカ時代の太陽の神殿)の基礎の上に、スペインの征服者たちが建てた教会。 地震で崩れて再建されているが、インカ時代の石組みだけは崩れなかったとか。

 3400mの高地にあるで慣れない身には、ちょっと身体を動かしたり、坂道を歩いたりしただけで息が切れる。


サント・ドミンゴ教会を裏から見たもの。
「イエス・キリストの教えと聖なる福音の伝道が世界のすべての地域に広がり、われわれの聖なる信仰が称揚されんがため」に建てられた。「キリスト教徒の熱意を示して、隣人に対するように人々を扱った」。「これらの人々が、エスパニャ人たちからひどい害を被ったのは、神が許し給うたことと思わざるを得ない。」(「インカ帝国地誌」より)

「スペイン人の対異教徒行動の様式はレコンキスタ(国土回復戦争)の中で形成されたものである。711年にジブラルタル海峡を渡って進入してきたイスラーム教徒はイベリア半島の大半を支配下におさめ、キリスト教徒は半島北辺の山地に追い上げられた。
だが、11世紀に、聖地エルサレムへの十字軍と前後して、イベリア半島でもキリスト教徒側の巻き返しが始まり、13世紀にはついにアンダルシア主要部がキリスト教徒の手に落ちた。」(「世界の歴史18」中公文庫) 
南米でもスペイン人たちは、「奪還(レコンキスタ)」の延長をやっていたのであり、征服殖民の考え方だったようだ。

 上の建物はスペイン植民地時代の教会。下の灰色の石組みはインカ時代のものがそのまま使われている。何かアンパランスで異様である。緑の芝生の上にこのような構造物は不自然な感じ。

 スペインの征服者ピサロとインカの戦いの歴史は悲しい。 なぜ、西欧・北米に豊かな国が多く、アフリカ・南米・アジアに貧しい国が多いのか。 貧しい国の多くは、ほとんど西欧の旧植民地である。植民地化された国は独立した後でも、どうしてうまくやっていけないのか。経済成長の恩恵を受けている国と、いまだ低開発にあえいでいる国がある。

 インカ時代の末期、王位継承などの問題をめぐってキト派のアタワルパと、クスコ派のワスカルの間で激しい内戦が繰り広げられた。内戦はアタワルパの勝利に終わったが、内戦の疲弊の隙にパナマからコスタ(海岸地帯)北部に上陸したフランシスコ・ピサロ率いるスペインの征服者達がインカ帝国を侵略することになった。
 征服者達は手早くクスコを征服すると、1533年に第13代皇帝アタワルパを絞首刑にしてしまった。アンデスを支配していたインカ帝国はここに崩壊した。
 ピサロは1534年にリマ市を建設すると、以降このコスタの都市が、それまで繁栄していたクスコに代わってペルーの中心となる。


サント・ドミンゴ教会の中庭。完全にスペイン風建物。

 インカ時代の石組み。角丸の石積みの見事さを説明するガイドさん。鉄や車輪や歯車を持たない文化が、どうやってこの石組みを構成したのか。
 左の写真はカテドラルの中庭。完全にスペイン風。


インカ時代に儀式が行なわれていた部屋といわれる。

 教会の中のインカ時代の石積みが残る部屋。インカ文化は、14世紀に栄えたが紀元前の古代文明と中世的文化の両方の匂いをもっている。
 これらの石の加工は、青銅器や硬い石などを使って、組み合わせる石同士で研磨したのではないかといわれている。それにしても、立派で精巧な石積みだけが印象に残る文化だったように思う。残っているものが石積みしかないせいもあるが。


街のお土産屋さんの建物にもインカ時代の巧みな石積みが使われている。見事な石組みが観光資源になっているようだが、石組みが精巧であればあるほど、何か哀しいものを感じてしまう。

 クスコの中心街にあるインカ時代の石組み。
一般の街や庶民の家の石組みはもっと粗いものだが、どうもインカ王関連の施設や大切な公共的施設には、このような気合の入った石組みを作っていたようだ。
 この石組みの几帳面さや潔癖さはどこからくるのだろうか。鉄を持たない文化がこれだけの石組みをつくるのにどれだけの労役が必要だったのだろうか。石組みをみても立派とは思うが、ほとんど狂気に近いようなものを感じて戦慄を覚える。インカ為政者の石に対する暗い情念を感じざるを得ない。

 スペイン人植民者は数多くのインカ帝国の建造物、寺院、宮殿を破壊した。彼らは破壊で残った壁を、都市建設の土台として使用した。インカ人がキルケの土台の上に建造物を建てたように、スペイン人たちもインカの石の基礎の上に自分たちの街を造った。王の居住地には支配者の住居を、インカの宗教施設の上には教会が建てられた。

教会からの眺め。
12の角をもつ石。現代人は決してこんな作りはしない。

サクサイワマンの石組みは、ノコギリの歯のようなギザギサの形をしている。 防衛上なのか宗教上なのか意味は不明。最近の年代測定で、インカ以前の1100年頃のキルケ文化による要塞跡もあることが判明した。

サクサイワマン

 クスコ市の北に立地し、インカ時代の砦跡だといわれている。年代測定では、インカ以前の時代からの構造物も含まれているらしい。巨石を惜しみなく用いたインカ文明特有の堅固な石組みが階段状に3段ずつ、幅数100mの台地に南北に築かれている。かつては東西に並ぶ3つの巨大な塔が建っていたがスペイン人によってことごとく破壊され、現在はその基礎のみが残っている。

アルパカが数ひき遊んでいた。

 サクサイワマンの台地は、スペイン人による征服で首都が陥落した後の1536年に行なわれたクスコ奪還戦では、マンコ・インカ・ユパンキ率いるインカ軍の拠点となった。

 サクサイワマンの草原でアルパカが数ひき遊んでいた。近くの村の人が飼っているようだ。アルパカは荷を運んだりといった仕事はしないが、その毛織物はすばらしい肌触り。お土産に何枚か買った。リャマに比べてアルバカは小ぶりで、顔つきがかわいらしい。 日本の動物園に連れていけばきっと人気者になるだろう。


峠から見たウルバンバ渓谷。

ウルバンバ 聖なる谷

 インカ時代は、「聖なる谷」として王家が直轄していた。クスコからマチュピチュ村まで鉄道が走っているが、雨のため不通だった。そのためクスコから鉄道が開通している村までバスで移動することになった。 写真はウルバンバ渓谷をクスコからの峠で撮影したもの。3000mの高原にあるため山には草と低木程度しかはえていない。
 ここから 2000mのマチュピチュ村までくだっていくことになるが、マチュピチュはアマゾン方面への出入り口となるため、熱帯ジャングといった木々が生い茂っている。

 ウルバンバ渓谷沿いにもピサックやとオリャンタイタンボといったインカ時代の遺跡が点在し、山の上まで段々畑のような耕作地が見られる。あの山の裏のほうにも遺跡がある、といった話になる。ピサックやとオリャンタイタンボ遺跡もマチュピチュと同じような作りと雰囲気をもっているという。

 クスコからマチュピチュへ続くインカ道が山の中腹を走っている。8日間程度のトレッキングツアーで走破できるとのこと。


富士山とほぼ同じ標高3750mの位置のあるのに、高さを感じさせない牧歌的な風景。雨がよく降り土壌も豊かでいろいろな作物がつくられている。

 上の写真は、バス休憩した村。ここにもインカ時代から続く穀物倉庫が山の中腹にある。右下の小さな三輪車はこの地でのタクシー。
 左の写真は、クスコとウルバンバ渓谷を結ぶ峠。3,750mの標高があるが、村々と畑の緑は豊かで、クスコの穀倉地帯だったという。

 3,750mの高地にあるジャガイモ畑。ジュガイモはペルーが原産で、スペイン人がヨーロッパに持ち込んで世界に広がった。
 ジャガイモも高い標高につよく4000m以上の高原にある畑でも水さえあればよく育つという。

 南米原産の作物はたくさんある。トウモロコシ・ジャガイモ・カボチャ・インゲンマメ・キャッサバなど。動物ではリャマ・アルパカ。
 ちなみにユーラシア大陸では、小麦・大麦・米・ヤムイモ・タロイモ・バナナ・サトウキビ・大豆・アワ・コーリャンなど。動物は牛・豚・馬・トナカイ・ヒツジ・ヤギ・ラクダ・ヤク。
 南米に、 牛・豚・馬などの働く有用な動物がいなかったことが農耕の遅れにもなったという。豚は働かないか。


ウルバンバ渓谷の川向こうの山にも段々畑の遺跡が見える。

 ウルバンバ渓谷を縫うように走る列車。渓谷の両脇に4000m級の山々が続き上は雲に見え隠れしている。列車からの眺めはあきない。
 列車はペルー鉄道が運営しているが、写真のように立派なもの。マチュピチュ観光にいかに力を入れているかがわかる。


オリャンタイタンボ村から列車に乗り、2時間ほどでマチュピチュ村に着く。

 豪華な車内。乗り心地もいうことなし。帰りには列車従業員によるアトラクション的販売があった。アルパカのセーターを80$で買う。
   
photo by miura 2011.3 mail:お問い合わせ
メニューへ  ページトップへ