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ペリト・モレノ氷河
フィッツ・ロイ
.トーレス・デル・パイネ
マゼラン海峡
ビーグル水道
世界の果て

世界の果てのパタゴニア



Google Mapよりパタゴニアの部分の地図

日本の地球の反対側(裏側)は

 Wikipediaに下のような対蹠地の地図があった。これでみると日本の対蹠地は、南米・アルゼンチンの大西洋沖合の海の中ということである。よく言われるようにブラジルではなく、アルゼンチンに近い大西洋の海の中だった。近い国をしいて言えばアルゼンチンということになる。この地は日本から見て地球上の最も遠い場所といことになる。


Antipodes LAEA inverted.png より


左の三角の頂はモレノ山。その右下にはモレノ氷河が広がる。

どこまでも直線的に続くルート40から見たフィッツ・ロイ。

南緯40度以上がパタゴニア

 日本の北緯で言えば、秋田・盛岡の上からサハリンの最北端までがアルゼンチンのパタゴニアということになる。パタゴニアの最南端の町ウシュアイアは南緯55度で、北緯55度はサハリンのちょうど真ん中あたりになる。
 パタゴニアは「風の大地」といわれる。太平洋からの偏西風がアンデス山脈にぶつかって雪を降らせ氷原を生んで氷河を流す。その風がアンデス山脈を越えると、パタゴニアの北西からの強い風をとなる。大西洋側の平原は乾燥し、ステップ気候の荒野となる。パタゴニアの気候はきびしく、2月真夏のはずのウシュアイアは10度にも満たない気温で、夜になって風が吹くと日本の東京の真冬と同じ0度近くになる。

 「風の大地」パタゴニア、いつかバイクで走りたいと思っていた。あるライダーの旅行記に触発されたからかもしれない。いつか彼の地で、風になって走ってみたいと夢想していた。
 今回もやはり、 「そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取る物手につかず」という感じで飛び出したかった。旅はそういう風に始まってほしいと思っている。荒涼とした風の大地パタゴニアは、世界の最果てまで走りたいというライダー達の見果てぬ夢のようなものかもしれない。
  ラ・レオナで休憩していた時、自転車旅行をしている日本の青年とすれ違った。アラスカから走り続けているのだという。もっと話したがったが、バスに乗ってしまった。こういう日本の青年もいるのだ。何か心浮き立つ希望のようなものを感じた。

 日本からみるとパタゴニアは地理的に遠いというだけだが、欧州や北米からみてパタゴニアとは何だったのか。


ビーグル海峡は風・波ともに静かだった。

パイネ・グランデを望む。


グレートジャニーの終点?

 関野吉晴さんは、グレートジャニーを自分の脚力と腕力のみで踏破した人である。20万年前にアフリカの大地溝帯に出現した新人(ホモ・サピエンス)は、アジア大陸に渡り、ペーリング海峡を越えてアメリカ大陸を縦断し、南米の最南端に到達した。関野さんは、その最南端の地点のナバリーノ島のプエルト・ウィリアムの村から、人類のグレートジャニーを逆に辿る旅を始めた。1993年12月のことである。
 ビーグル水道とマゼラン海峡をカヌーを漕いで渡り、アンデス山脈の南部氷床を歩いて縦断した。 その苦難の旅の様子は「嵐の大地パタゴニア」(関野吉晴著・小峰書店)に詳しい。その旅は印象的な写真とともに壮絶である。
  ナバリーノ島からフエゴ島の南端に渡り、山岳地帯を4日間かけて踏破してマゼラン海峡の最奥のさらに奥まったところにある湾に抜け、そこから再度カヌーでプンタ・アレーナスに向かう。厳しい向かい風と格闘し天候悪化のため中断・退避を繰り返し、ようやく目的地に到達した。また、南アンデス氷床縦断はソリとスキーを使ったが、食糧が尽きる寸前の41日間でかろうじて渡り終えた。

 彼の関心は人間とは何かである。人類はどこから来て、どこに行こうとしているのかを、人類が歩んできたルートを逆に辿ることで知ろうとしたのではないか。彼は特に、日本人の親戚筋にあたるモンゴロイドの生活の様子を、彼らと同じ住まいに住み、同じものを食べ、生活を共にしながら描写している。彼のモンゴロイド系先住民に向けるまなざしはあたたかい。


「LA REONA」ホテルという休憩所。荒野の一軒家である。カラファテから国道40号線でエル・チャルテンに向かう途中、ビエドマ湖が近づいてくるあたりの荒野に突然出現する。ラ・レオナ川沿いにあり、もともとは羊を運搬するイカダ舟の発着場の側にあり、移住者向け宿泊施設だったらしい。
ガイドさんが、ここがあの「明日に向かって撃て」の実話の舞台で3人組の言い伝えの残る場所という説明があった。ここがその舞台であったか。心の震えがわかった。


パタゴニアと 「明日に向かって撃て」

 「パタゴニア」を書いたブルース・チャトウィンは、パタゴニアは「旧大陸のカルマを背負った漂泊者たち」が吹き寄せられた「流れ者の行き着く岬」だという。 「旧大陸のカルマを背負った漂泊者たち」とは何か。
 権力妄想者・逃亡者・亡命者・ならず者・無法者・アナキストなどの漂泊者たち。彼らはこの世の果て、パタゴニアに何を求めたのか。そしてそこで見たものは何だったのか。

 ブルース・チャトウィンの 「パタゴニア」から「明日に向かって撃て」の主人公たちの話しを抽出してみた。
 国道40号線のピウドマ湖の近くの「ラ・レオナ」という休憩所兼ホテルがある。1905年、ここに女性一人を含む3人組が1か月ほど滞在したのち旅立った。サザン・サンタクルスの銀行を襲撃したのち、こんなパタゴニアの荒野まで逃げてきていたようだ。その数日後、警官団が銀行強盗の凶悪犯3人組の顔写真付きの手配書をもってやってきた。


銀行強盗の凶悪犯3人組。 左から・サンダンス・キッド、エッタ・プレース、ブッチ・キャシディ。映画では、“ブッチ・キャシディ”ことロバート・ルロイ・パーカーをポール・ニューマンが、 “サンダンス・キッド”ことハリー・ロングボーをロバート・レッドフォードが演じ、 「美人教師」エタ・プレイスをキャサリン・ロスが演じた。
私の青春の映画である。なぜかわからないが、当時の青年たちは、こんなならず者映画にあこがれのようなものを感じていた。

 「パタゴニア」(ブルース・チャトウィン著 河出書房新社 世界文学全集U-08 より)では、次のように書かれている。
 ロバート・ルロイ・パーカーは人なつっこい顔をした活発な少年だった。そしてモルモン教徒の家族と綿の木に囲まれた小屋を愛していた。彼の両親は子供の時分にイングランドから渡ってきた。彼はフェアプレイの精神を持った、几帳面で義理堅い性格の少年だった。彼はカウボーイを夢見、三文小説、特に続き物のジェシー・ジェイムズ物語を愛読していた。
 18歳で、彼は自分の生来の敵が畜産会社や鉄道会社や銀行であることを悟り、正義の法の裏側にあることを確信した。彼は他の若い無法者と一緒になって牛を盗んだ。警察が二人のあとを追っていた。
  1886年から87年にかけての冬の豪雪で家畜の4分の3が死んだ。大災害は強欲と結びついて、無法者のカウボーイという新種を生み出した。失業してブラックリストに載った男たちは犯罪へ、牛泥棒へと追いやられていった。


「LA REONA」の位置(右下)を示す案内版。

銀行強盗団ワイルド・パンチ。
ブッチ・キャシディの手配書 。映画ではポール・ニューマンが演じた。
現実はともかくとして、映画の中のポールニューマンとロバート・レッドフォードは、かっこよかった。
銀行や列車強盗のような諸行が長く続くわけがない。甘美の生活の後の悲しい末路、ならず者たちの宿命である。

  ロバート・ルロイ・パーカーは家畜商人や馬の世話係を経て一匹狼になり、臨時雇いで銀行強盗をやり、やがてならず者一味の頭となって、その仕事ゆえに、保安官たちから最も恐れられる人物となっていた。
 1896年から1901年にかけて、ワイルド・バンチとしてその名をはせた列車強盗団が、続けざまに強奪をやらかし、警察やピンカートン探偵事務所や鉄道会社をいら立たせた。
 ときには貧乏な未亡人の代わりに、家主からから盗んだ金で家賃を支払った。農場の人々は彼を愛した。彼らはロバート・ルロイ・パーカーに食物を、隠れ家やアリバイを提供した。現在ならば、彼は革命家になったかもしれない。
 ロバート・ルロイ・パーカー=プッチ・キャシディは決して人を殺さなかった。だが、彼の仲間は手慣れた殺し屋だった。
 強奪の成否は逃げ足の速さにかかっている。プッチ・キャシディの強奪は大金で購入した優れたサラブレットのおかげだった。だが、保安官たちも血統のよい足の速い馬を買い込み、街の犯罪者を駆逐し、市民による警護団が隠れ家から犯人を追い出し、ピンカートン探偵事務所は騎馬レンジャー部隊を貨車に乗り込ませた。
 プッチ・キャシディの選択の道は、死か厳しい刑罰か、さもなくばアルゼンチンしかなかった。ガウチョの国=アルゼンチンには、1870年代のワイオミングと同じ無法地帯の自由がある、そんな噂がカウボーイたちのあいだに広まっていた。
 1901年の秋、プッチ・キャシディはニューヨーク゛でサンダンス・キッドとその情婦エタ・プレイスに出会う。エタ・プレイスは若く、美しく、賢く、ビンカートン探偵事務所にあるエタ・プレイスのファイルによると、彼女はデンヴァーで教師をしていたという。
この「三人家族」はオペラや芝居見物に出歩き、エタのためにティファニーで金時計を買い、蒸気船でブエノスアイレスへと船出した。
 上陸すると三人はホテル・ヨーロッパに宿をとり、チュブトに12,000エーカーの荒れた放牧地を手に入れた。「三人家族」は5年間チョリラを本拠地に、「まっとうな北米人」として暮らした。
だが、「三人家族」はかなしいかな強盗中毒に陥っていた。1905年、ワイルド・バンチは再びのろしをあげ、サザン・サンタクルスの銀行に押し入り、1907年にはナショナル銀行を襲った。彼らは大急ぎで土地を売り払い、山地へと散っていった。それ以降、隣人の誰一人として彼らの噂を耳にしたものはいなかった。
 1908年、二人のならずものはボリビアにいて、コンコルディア錫鉱山で働いていたが、鉱山労働者の給与をそっくり盗んだのち、ボリビアの兵士に囲まれて撃ち合いになり、殺害される。これがが彼らの死に関する定説である。
 この銃撃戦については、チェ・ゲバラを殺害したボリビアの大統領のレネ・バリエントスによって調査が行われた。村人に尋問し、共同墓地で死体を掘り返し、軍と警察の書類を調べ、そしてすべてがでっちあげだという結論を下した。
  だが、ビンカートン探偵事務所はこれを信ぜず、1911年にウルグアイの警察との撃ちあいで死んだという独自の説を打ち出した。
 その後、南米や北米やアラスカで、彼らの姿を見たという噂が広がり続けていた。


パタゴニアで目を引く赤い祠

 

ガウチート・ヒル 伝説

 アルゼンチンの国道沿いに赤い祠のようなものがあいのが気になった。注意してみているとあっちこっちにあることがわかった。ガイドさんに聞いてみると、ガウチート・ヒルが祭ってあるとのこと。
 アントニオ・ヒル(本名はアントニオ・マメルト・ヒル・ヌニェスとされる)、アルゼンチン北東部コリエンテス州パイウブレ地方に生まれ,19 世紀後半に活動したと伝えられるガウチョ(カウボーイ)である。
 彼ははじめある農園で働いていたが,パラグアイとの戦争(1865―70 年)にさいして強制徴兵された。その後,軍隊を脱走して匪賊生活に入り,盗品(主に牛)を貧者たちに配分した。聖バルタサールの祝日(1 月8 日)に捕らえられ,裁判もなしにただちに殺害された。
 農園主の娘との悲恋物語も残されている。ヒルはその娘に恋をしていたが徴兵される。戦争から戻ってみると娘は保安官とも死刑執行人ともいわれる男と結婚していた。その保安官か死刑執行人はヒルを捕まえると、ただちに刑を執行した。ヒルは死ぬ直前に、私が死ぬとあなたの息子が病気になるだろう。息子を助けたければ、私に許しを請えばよいだろう、といった。
死刑執行の後、自宅に戻ると、はたして息子は病気に臥せっていた。刑執行人はヒルの名において祈ると、息子は患っていた病気から奇跡的に回復する。
 そこから、ヒルに頼れば祈り願がかなうという噂が広まることになる。1878年からアルゼンチンの民衆信仰になり、崇拝は全国化する。

 これでは何のことかわからないが、金持ちから盗み貧乏人に分け与えたガウチョ、復活への祈りといった意味があるようだ。
 赤い祠には、特に何かが祭られていというわけではないが、タバコや食料品が供えられている。幹線道路沿いにあるのは、交通の安全祈願という意味があるという。


祠の横にはこんな旗が掲げられている。カウチート・ヒルだという。

カウチート・ヒルが好んだというタバコが供えられていた。

先住民の写真(ウシュアイア刑務所博物館より)

「パタゴニア」ブルース・チャトウィン著 河出書房新社 世界文学全集U-08 より
「56
 1890年代、かつてパタゴニアで芽吹いたダーウィニズムが、残酷な形でパタゴニアに戻り、それがインティオ狩りに拍車をかけることになったようだ。「適者生存」のスローガンはウィンチェスター銃や弾薬帯とあいまって、はるかに適者であるはずの原住民よりもヨーロッパ人の方がすぐれているという幻想をもたらした。」

「主人に支配人にいつもイギリス人。インディオは羊を殺す。イギリス人はインディオを殺す。」


先住民の写真。モンゴロイドというより、アメリカ・インディアンといった感じ。

パタゴニア王国の夢

 アラウカニア・パタゴニア王国という。以下、Wikipediaより。
 1860年にフランス人の弁護士で冒険家のオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンが南アメリカ大陸の南部に建国した国家。
 19世紀半ばに南アメリカ大陸の南部においては、原住民族のマプチェ族(Mapuche)がアルゼンチンとチリの進出に武装抵抗を行っていた。1860年にこの地を訪れたオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンは、マプチェ族に共感し、1860年11月17日にアラウカニアの独立宣言を行い、12月20日にはパタゴニアもその領域に含めた。彼は、その宣言の写しをチリの新聞に送付している。チリとアルゼンチンの国境線もはっきりせず、パタゴニア地方がまだどの国のものともはっきりしていない時代のことである。パタゴニアの先住民の戦いに共感し、彼らの信任をとりつけて国王になったようだ。
 マプチェ族はオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンの行動を理解し、彼を王に推挙した。その後、国旗として青・白・緑の三色旗が制定され、硬貨の鋳造も行われた。
 彼は、「アラウカニアの王」と称してマプチェ族の土地を中心に独立国家アラウカニア・パタゴニア王国建国を宣言した。だが、他国からの承認を得られるはずもなく、かえってチリ側に非合法国家の打倒という口実を与え、マプチェ族などを一括制圧する原因をつくってしまった。チリ政府はマプチェ族の土地を圧迫し、1880年代半ばから後半にかけてこれを占拠した。
 オルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンは、1862年にチリ政府に拘束され、フランスに追放される。1863年に回想録を出版した後、1869年にアラウカニアを再訪し1871年まで滞在している。その後、フランスに帰国し1878年に死亡した。
 マプチェ族の領域は、チリ・アルゼンチン両政府の交渉と武力制圧により、1880年代頃に両政府の領土となった。

 彼はマプチェ族に共感して彼らとともに新しい共同体国家をつくろうとしたのか、単に「国王」になりたかっただけなのか。フランスの植民地獲得の陰謀への加担者だったのではという説もあるが、実際はどうだったのだろうか。


パタコニアの平原からフィッツ・ロイを望む。

パイネに向かう途中の休憩所より。
   
photo by miura 2014.2
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