メニューへ
ムンバイ
エローラ
アジャンタ
ベナレス
カジュラホ
サーンチー
アグラ
ジャイプル

アグラのタージ・マハールとお城 [地図]



正面から見たタージ・マハール。イスラム建築らしく東西南北どちらから見ても同じデザインのシンメトリーになっている。 クリックで拡大。
タージ・マハール Taj Mahal

 デリーからバスで5時間走って、200Km離れたアグラについた。アグラは1565年〜ムガル朝第3代皇帝アクバルにより築かれ、以降ムガル朝の首都となっていた。

 タージ・マハールは、インド北部のアグラにある。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが1629年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのため建設した総大理石の霊廟である。1632年着工、1653年に完成した。インド=イスラーム文化の代表的建築で、1983年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

 シャー・ジャハーンはタージマハルが竣工してまもなく、ヤムナ川の対岸に対となる自分自身の黒大理石の廟の建設に着手した。建設計画では川をはさんで同形の白と黒の廟が向かい合い、大理石の橋で結ばれる予定だった。しかし工事のための重税や動員された民衆の不満が高まり、ついに反乱が起きる惧れさえ出てきた。そのため、シャー・ジャハーンは息子のアウラングゼーブ帝によってアグラ城に幽閉されてしまったのだという。


タージ・マハルの左手にあるモスク。

 晩年の彼はタージ・マハルを眺めては涙を流して毎日を過ごしたと伝えられている。対岸には現在も整地された基底部が残っており、タージ・マハルの裏から渡船で行く事ができるという。
  愛妃ムムターズ・マハルとのあいだに17年間で14人の子供をもうけた。皇帝シャー・ジャハーンは王妃を愛し、その死を悼んで白大理石のタージ・マハールを造り、さらにヤムナ河を挟んだ対岸に黒代理石の自分の墓をたてようとしていた。タージ・マハールの中には、王妃ムムターズ・マハルの石棺と並んでシャー・ジャハーンのものもある。当然、レプリカではあるが。

  タージ・マハルの左手にあるモスク。タージ・マハル建設に携わるムスリム(イスラム教徒)のため、お祈りがしやすいように、そして建設工事が順調に進むようにと建てられたという。

 白い大理石に、草花のシンメトリーな幾何学模様で装飾された玄関。インド土着の臭いはなく、イスラム的洗練さがうかがわれる。外枠にはコーランの教えが刻まれている。

 シャー・ジャハーンは、世界で最も素晴らしい王妃の墓を建てるために、世界の建築デザインを取り寄せ、多くの案の中からトルコの建築家のデザインが採用されたという。
 建材はインド中から1,000頭以上もの象で運ばれてきたといわれ、大理石はラージャスターン地方産という。その他、碧玉はパンジャーブ地方から、翡翠は遠く中国から、トルコ石はチベットから、ラピスラズリはアフガニスタンから、サファイアはスリランカから、カーネリアン(紅玉髄)はアラビアから取り寄せられたものだという。全体で28種類もの宝石・宝玉が嵌め込まれていた。ペルシャやアラブ、果てはヨーロッパから2万人もの職人を集め、22年の歳月をかけて建造されたという豪華このう上ないお墓である。
 完成のあかつきには、そのお祝いとして貧困者や女性に大盤振る舞いしたそうだ。


 インドのイスラム建築は、インド風味が加味されることが多いが、このタージマハルは純粋イスラム建築で、イスラム建築の粋といえるものかも知れない。草花のレリーフがシンプルで上品で美しい。

右の角から見たタージマハル。対称形の造形が美しい。

 正面から見て右手から見たタージマハル。どちらが正面かわからない。 4つのミナレットも美しい。ミナレットの上に乗っている建築は、インドの伝統的な建築の影響を受けているという。

怪しいインド人お勧めのカメラスポット。

 上は、裏側、 ヤムナ川側からみたもの。別の角度から見たタージマハルも素晴らしい。裏を歩いていたら、一人のインド人が手招きする。美しく撮れるカメラスポットはこちらだという。左の写真は、そのインド人が指示した場所から撮ったタージマハル。なるほどいいアングルだ。さらに先にもいい場所があるという。なるほど確かに、彼が発見したタージマハルはよかった。さらにもっといい場所があるというのだが、100ルピーを渡して早々に逃げた。

 世界から観光客を集めるインド観光の目玉だけあって、警備や管理は厳重。排気ガスや酸性雨が大理石を溶解させる恐れがあるということで、道路から入り口までは電気自動車のバスや三輪車が往復している。

 ヤムナ川の対岸から見たタージ・マハル。
 対岸からの白いタージマハルも、シィルエットがきれいで、なかなかいいものだ。
  一匹の犬が川べりに座って、じっとタージマハルを見ていた。その正しい姿勢に心打たれた。

赤いアグラ城

 1565年〜ムガル朝第3代皇帝アクバルによりアグラ城が築かれた。その後、ムガルの皇帝たちにより増改築が繰り返された。 赤砂岩で築かれた城壁の色から「赤い城」(ラール・キラー)の名がある。
 デリーからアグラへの遷都に伴い、皇帝アクバルによって1565年に着工され1573年に完成した。その後ジャハーンギール、シャー・ジャハーンまで3代の居城となった。
 アウラングゼーブが兄弟間の後継者争いに勝つと、父であるシャー・ジャハーンをタージ・マハルの見える城塞内の「囚われの塔」(ムサンマン・ブルジュ)に幽閉してデリーに移った。
 外側から見ると赤砂岩主体の「赤い城」であるが、城内の宮殿には白大理石も多用されている。ムサンマン・ブルジュの内壁や床は幾何学的な装飾が施された白大理石で出来ている。
 1983年にユネスコの世界遺産に登録された。

 同じアグラにありながら、優雅で白いタージマハルと無骨な赤いアグラ城との対比が際立つ。アグラ城の外見の無骨さは、内部はイスラムとインド建築の融合でそれなりに洗練され、見たこともないエキゾチックないかにも異文化といった雰囲気をかもし出している。

  ムガル朝は、現在のウズベキスタンのサマルカンドあたりからインドに侵入したトルコ系イスラムの王朝であるといわれている。皇帝アクバルは、イスラムではあるが他の宗教にも寛容な開明皇帝だったようだ。そのため、城のつくりにもインド伝統建築やヒンドゥー教やジャイナ教の様式も取り入れており、アクバル様式ともいわれている。
 インドは熱い。夏には50度近くに気温が上がる。普通の建築ではもたない。壁をもたない柱だけの造りや、窓は少なくして熱さを防ぎながら、風を通す工夫など、土地の風土にあった現実的な造りになっているようだ。

 二重の堀が城の周りを囲んでいたが、現在は外堀が埋められ内堀だけになっている。敵の侵入を防ぐため、堀には水が張られ、ワニや毒蛇がうじゃうじゃ飼われていたという。
 他にも敵の侵入を防ぐためのいろいろな工夫がされ、ムガル帝国が顕在なうちは、この城が敵の手に落ちることはなかった。


 宮殿内部の、ヤムナ川に面した風通しのよい明るい部屋。白い大理石の薄い部分から外の光が入り込むといった趣向。 造りはシンプルだが、細部までイスラム風のレリーフで覆われ、高級感がある。


シャー・ジャハーンの幽閉部屋から望むタージマハル。

 タージマハルを建てたシャー・ジャハーンは、息子のアウラングゼーブ帝によってアグラ城に幽閉されてしまった。その部屋は、明るく開放的な見晴らしのよい部屋だった。部屋からは、タージマハルを遠望することができ、シャー・ジャハーンはいつでも愛妃の眠るタージマハルを見ることができた。

 宮殿内の優れた建築物。王妃のために建てられたもので、ヒンドゥー様式にのっとって贅の限りをつくして建てられた。緑の芝生と赤い建物のコントラストが美しい。
 

 中庭の全景。
ファテープル・シクリ

 ファテープル・シクリは、アグリから40Kmあまり離れた場所にある皇帝アクバルの別邸。

 共有の公的な部屋はほとんど壁のない開放的な造りになっている。部屋も廊下も柱だけ。


 建物の上には、帽子のような恰好の屋根をもつ建築が多い。日陰で風通しのよい場所の確保のためのようだ。
 上の写真のように意味不明の柱や梁をもつ建物がある。梁の支えの造りが無駄に力が入っている。


 上の写真は、王が戦勝記念に建てた門。なんともユニークなインド的な門。

  庭に面したあづまや風の建物。インドの少女たちがポーズをとってくれた。
   
photo by miura 2013.3
メニューへ  ページトップへ