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ベナレス=ワーラーナシー の沐浴 [地図]



日の出を待って沐浴しようとする人々でいっぱいのダシャーシュワメード・ガート。(クリックで拡大)

道端には、日の出を待つ沐浴者たちがうずくまっていた。

日の出を待つ間、男たちの怪しそうな車座。クスリをやっているのだそうだ。 インドでは酒やタバコをやらない代わりなのか、怪しそうな葉っぱが出回っているそうだ。
  ベナレス=ワーラーナシー の沐浴

 何の都合か、ムンバイのチャトラパティ・シヴァージー空港を発ってベナレスのラル・バハドール・シャストリ空港に着いた。
 ベナレスは、ワーラーナシー(Varanasi)というのが正しい名称だが、なぜか日本語ではベナレスと表記されている。かつては英領植民地時代に制定された英語表記のBenaresの誤読によるもののようだ。この読み方は現地語での別名「バナーラス」に由来するようだ。
 ガンジス川沿いに位置する都市で、この街の近くでヴァルナー川とアッスィー川がガンジス川に注ぐ。
 街の郊外には、釈迦:仏陀が初めて説法を行ったサールナート(鹿野苑)がある。
 紀元前5世紀ころから、地方王朝の首都として栄えてきた。この街や寺院は、支配者が代わるたびに破壊と再建を繰り返してきた。栄枯盛衰・諸行無常を体現しているような街ということになる。

 バスを降りてガートまで歩くことになった。暗闇の中で、「足元に気を付けてください。牛の糞が落ちています」「迷子になったら助けられません」と叫ぶガイドの声が聞こえる。進まない車、きわどく走るオートリクシャ、屋台と物売りと人々の喧噪。街中に散らばるゴミ、生ゴミとほこりの臭い。数千年の人々の営みがそのまま堆積したような、混沌と坩堝の街中を黙々と小走りに歩く。日本人観光客を見る地元の人の好奇の眼、ここぞとばかり言い寄ってくる物売り、手を差し出してねだる乞食、観光客はそれにじっと耐えて歩き続ける。ベナレスのガンジスの沐浴場への道は、期待した通りだった。ああこれがインドだ。このためにインド・ベナレスに来たのだ。

 ダシャーシュワメード・ガートは、オレンジ色の照明が辺りを照らし、日の出を待ち望む沐浴者と観光客ですでにごったがえしている。東の空がかすかに白けてきた。沐浴はヒンドゥー教の罪を流し功徳を増すと信じられている宗教行事である。整然と静かに行われるものと思っていたが、異様な喧噪のなかで、それは始まろうとしていた。だれもがそれが始まるのを待っていた。


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日の出とともに沐浴が始まった。

ガンジス川の日の出。朝もやの中をぼんやりとした朝日が顔を出した。ガンジスの風景は、紀元前から現在まで、変わっていないのではないか。


 ガンジスの沐浴は日の出とともに始まる。それを見ようと世界の国から観光客が集まってくる。観光客は皆船に乗り、沐浴風景を眺めて、盛んに写真やビデオを撮る。

 早朝5時半の真っ暗闇の中をバスで出発し、ダシャーシュワメード・ガートに向かう。
  ガートとは、インドの多くの地域にみられる川岸に設置された階段のこと。巡礼者の沐浴の場として用いられる他、洗濯場としても使われるようだ。巡礼者や地元の人々はこのガートで沐浴する。ガートは階段状に造られていて、ガンジス川の水位の変化に合わせて沐浴ができるようになっている。
 ガイドさんの話では、冬の乾季は水かさが少なく沐浴できるが、夏の雨季には水量が増え沐浴が禁止される、という。
 私は勝手に、インドへの観光客はガンジスで沐浴するものとばかり思っていた。ガイドさんの話では、とんでもないといった感じで、ガンジスの水は汚くて沐浴はとても奨められないとのこと。
 ということで、早朝、ガンジス川のガートといわれる沐浴場に集まるのは、全国から集まった巡礼・地元の沐浴者と、それを見る世界中からの観光客に分かれるようだ。

 だが私にはわからない。この汚れた川で沐浴することの意味が。ガンジス川はヒンドゥー教の聖地である。信者は信仰によりこの川で沐浴するために遠くから巡礼してくる。信者は沐浴する。信仰とは何か。


沐浴の人もだいぶ増えてきた。

 観光客は、沐浴者ではない。沐浴風景を見るためにガンジス川にボートを浮かべる。 沐浴の人々はそんな観光客を余所に、思い思いに沐浴の準備と祈りを始める。


ダシャーシュワメード・ガートを囲むように、王侯貴族の別邸が立ち並ぶ。(クリックで拡大)

 ヒンズー教の教えに輪廻転生がある。人々は生まれ変わるたびに生に伴う苦しみに耐えねばならないとされる。しかし、ベナレス=ワーラーナシーのガンジス河近くで死んだ者は、輪廻から解脱できると考えられている。人々は解脱を願いガンジスに沐浴する。

  ダシャーシュワメード・ガートを囲むように、王侯貴族の別邸が立ち並ぶ。古来、死はカーストを越え、人間の避けられぬ宿命である。さすがの王侯も解脱を願ってガンジスに身をしたしたのだろうか。

 朝ぼらけ人焼くけぶりかガンジス川
 牛流れ煩悩凡夫の人流れ
 牛流れ人も流れるガンジス川
 インドにて無明我執の我を知れ
 インドにて無明執着の我句知れ


沐浴と祈りと。祈る人々の姿は神々しく美しい。

 解脱して断ち切れバラモンアーリアのくびき
 祈っても解脱は遠し2月の川
 わが夢は野を越え山越え天竺へ


 ガンジス川の水で歯を磨くおとうさん。ガンジス川は沐浴だけでなく、洗濯もすれば、遺体も流せば、トイレから炊事・飲料水まで、なんでもあり。ただ、ゴミが流れて、薄濁っているのは、聖なる河なのに残念。

人焼く煙が立ち込めるマニカルニカー・ガート (火葬場)。

マニカルニカー・ガート (火葬場)

 数千年の歴史を持つマニカルニカー(「宝石の耳飾り」の意)・ガートは、南北6キロでガンジスの岸辺のほぼ中央に位置し、火葬場としての役割を果たしている。

 ここは撮影禁止となっている。そのため遠くから望遠で撮った。火葬場には、木材が山と積まれている。右下で火葬の煙が立ち上っている。人一人焼くのに5〜6時間ほどかかるという。火葬には木材を買う費用が必要となる。その費用がない人は物乞いをする。
  死者はここで白衣に包まれてガンジス川に浸され、その後ガートで荼毘に付され、遺灰はそのままガンジス川へ流される。輪廻からの解脱は、この方法による火葬とその灰をガンジスに流すのが最高と信じられている。お金が無い人、赤ん坊、妊婦、蛇に噛まれて死んだ人はそのまま流される、という。


火葬場に併設されている障害者用養老施設か。

  火葬場が運営しているという宿舎のような建物。老人ホームのようなものかも知れない。年老いた肢体不自由者や病人が最後の日々をここで過ごすのだという。死ねばすぐ側の火葬場で荼毘にふされ、ガンジスに流してもらえる。そうすれば輪廻から解脱して永遠のやすらぎを得ることができる。

 白い異様な人々には目もくれず、沐浴し、祈りをささげる夫婦がいた。


心やさしき異様な白い人々も祈りの時間だった。 灰を体に塗っているようだ。彼らはここで寝泊まりし、修行しているようだが、食事はやはりお布施によるのだろうか。

 左の写真の白い人々は、一切の生き物の殺生を禁じるヒンドゥー教のある宗派の人だそうだ。体に一糸まとわず、白い灰を体に塗り、ガンジスの朝日に向かって座禅を組み、瞑想し、朝日を身動きせずににらみつけ、タバコのようなものを吸い、仲間内でダベリ、フルチン姿のまま立って祈りをささげ、食べ物のお布施に応え、果物のようなものを手で食べ、その異様な心優しさでたたずみ、そんな一団がガートの一角に陣取っていた。
 まず、お目にかかれない情景なので見ていたかったが、ガイドさんはそんなことを許す訳もなく、通り過ぎて来てしまった。あれは一体何だったのだろうか。あの異様な雰囲気は何なのか。
 インドはなんでもありの国なのだ。人間は生まれながらに自由なのだ。目に見えぬカースト的社会の中で、これは自由といっていいことなのだろうか。インドは不思議な国である。


ベナレスの街中。こんな混雑・喧噪の中を観光バスはつき進む。

オートリクシャ

 インドでは、オートリクシャと呼ばれる三輪車が人々の足になっている。スピードは出ないが小回り効く。「リクシャ」は「ジンリキシャ」=人力車の「人」が「オート」になったものだという。日本の人力車が東南アジアに持ち込まれ、それが定着して今日に至っている。移動距離が分かるメーターがついていて運賃の交渉もできるらしい。ヒンディー語ができないと無理か。
 この他にも、都市部にはリッパなタクシーがあることはいうまでもない。


人のように街中を歩く牛たち。インドではブタは見えない。ブタはインドでは食べられるはずだがイスラム教の影響か、ほとんど食べられていないようだ。代わりにラム肉が出る。鶏肉は好んで食べられている。

街中の動物たちとゴミ

 ベナレスの街中には牛が多い。どこにでも牛が、あたかも自分が人とでも思っているかのように、無表情に歩いている。牛はインドでは完全に市民権を得て、人と同じような顔をして歩いている。牛は日本ではこんな表情をしていただろうか。さすが、牛を神に近いものとして神聖視するヒンドゥー教の国である。牛は、シヴァ神の乗り物でもある。自然のなかで働いている牛をみるのはいいが、街中をさまよっている牛たちは、幸せなのだろうか。



人はゴミを街中に捨て、牛が食べる。紙はヤギが食べる。食べ残ったビニールやプラスチックが風に舞う。

 インドの街中に住んでいる動物たちは、牛をはじめ水牛、馬、ラクダ、ヤギ、ヒツジ、イノブタ?、犬、リスなどがいる。牛はヒンドゥー教の教えで食べない。だが、牛乳やヨーグルト、チーズなどは好んで飲まれ食べられている。ネコは見ない。いないわけではないが、ネコは家の中や裏庭でひっそりと生活しているようだ。ホテルの庭でネコを見た。声をかけたが、素知らぬふりをして行ってしまった。 ネコはインドの風土では住みにくいようだ。


 どうして街中にゴミが落ちているのだろう。日本から見ると奇異な感じがする。インド人は街中に平気でゴミを捨てるようだ。それを牛や羊やヤギや犬が、食べられるものは何でも食べる。するとビニールやプラスチックのゴミだけが残る。残ったゴミを回収・焼却でもすればよいのだが、役所も個人もその気はあまりないようだ。自然のリサイクルに委ねているようだが限度がある。ベナレスの街でゴミ回収車を1台だけ見た。


人のような顔をして牛の家族が静かに歩く。飼い主がいて、朝の散歩なのだろうか。 動物たちは一般に幸せそうな顔をしている。だが、人の顔はやや暗く険しい。

  牛の糞はあっちこっちに落ちているが、人糞はどうなのだろう。畑があれば野菜たちのためにそこでするのだそうだが、畑がない場合はどうなのだろう。

 街中を人のような顔をして歩く牛の親子がいた。
 牛の中には、人に飼われている牛と「のら牛」とがいるという。 のら牛が自然のリサイクルの大きな役目を果たしている。街の人たちもそのリサイクルを意識して、ゴミを出しているのだろうか。数千年続いたであろう自然と動物と人間のリサイクルの関係は、すでに破綻しており、人為的なコントロールが必要なのだと思うのだが。
 
 悲しさは草食う牛とゴミ食う牛
 悲しさはゴミあさる子らとゴミ食う牛
 やさしさの万物に及ぶかインドの民
 ベナレスのさあ牛は人か人が牛か


ムールガンダ・クティー寺院 の正面。仏塔をイメージした寺院のようだが、仏教とどうも結びつかないユニークな寺院。仏伝をもとに、釈迦の生涯の絵による解説という仕立てになっている。

ムールガンダ・クティー寺院

 1931年にスリランカに本部があるマハーボテディ会によって建てられた比較的新しい仏教寺院。寺院の中には金色の釈迦御本尊と、日本人画家、野生司香雪(のうすこうせつ)氏の手による仏陀の生涯を描いたフレスコの壁画がある。5年の歳月をかけたという。「大菩提協會ヨリ日本政府ヲ通ジテ依嘱セラレ」たもの。また、寺院の入り口には、1932年に日本から贈られた梵鐘がある。


仏陀し生まれるとずぐに「天上天下唯我独尊」といったという。

 仏陀はサンスクリット語で「目覚めた人」や「悟りを開いた人」一般をさすことばだが、釈迦一人を仏陀という場合が多い。仏陀は紀元前5世紀頃、アショーカ族王・スッドーダナの男子として現在のネパールのルンビニで誕生した。カピラヴァストゥという国の王子であった。本名「ゴータマ・シッダッタ」。
 「釈迦」は「釈迦牟尼」(しゃかむに)の略で、釈迦は彼の部族名もしくは国名で、牟尼は聖者・修行者の意味。つまり釈迦牟尼は、「釈迦族の聖者」という意味の尊称である。(Wikipediaより)
誕生
 伝説では「釈迦は、産まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話した」と伝えられている。釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、クシャトリヤの教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラ をもうけた。なお妃の名前は、他にマノーダラー(摩奴陀羅)、ゴーピカー(喬比迦)、ムリガジャー(密里我惹)なども見受けられ、それらの妃との間にスナカッタやウパヴァーナを生んだという説もある。


村娘スジャータの乳粥(牛乳で作ったかゆ)の布施の図 。村娘スジャータはコーヒーフレッシュ「スジャータ」の由来。

出家
 仏陀は王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。
 出家の動機を説明する伝説として四門出遊の故事がある。ある時、釈迦仏陀がカピラヴァストゥの東門から出た時老人に会い、南門より出た時病人に会い、西門を出た時死者に会い、この身には老も病も死もある(老病死)と生の苦しみを感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった、という。
 ウルヴェーラの林へ入ると、父・シュッドーダナは釈迦の警護も兼ねて五比丘(ごびく)といわれる5人の沙門を同行させた。そして出家して6年の間、苦行を積んだ。減食、絶食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。その際、この五比丘たちは釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、釈迦をおいてムリガダーヴァ(鹿野苑、ろくやおん)へ去ったという。


釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。

悟り
 35歳で正覚(覚り)を開き、仏陀(覚者)となった。
 そこで釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。ナイランジャナーで沐浴し、村娘スジャータの乳粥(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラの樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。
 すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。
 ガヤー村は、仏陀の悟った場所という意味の、ブッダガヤと呼ばれるようになった。
 釈迦は、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかを考えた。その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。


釈迦の涅槃図

  ところが梵天(ブラフマー)が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は自らの覚りを人々に説いて伝道して廻った。それから45年間に及ぶ仏陀の説教の旅が始まる。
入滅
 仏陀は80歳で入滅したと言われている。 仏陀は死に瀕するような大病にかかった。鍛冶工チュンダの出したキノコ料理にあたったからといわれている。いったんは持ち直したが、やがて入滅の地クシナガラ(クシナーラー)に向かった。仏陀は二本の沙羅の木が並んだ間に、頭を北に向け、右脇を下につけ、右足に左足を重ねて伏した。
 その時、沙羅双樹が時ならず花を咲かせ、満開となり、修行完成者仏陀を供養するために、体に降りかかり、散り注いだ。
 仏陀の感動的な最期のことばは、「さあ、修行者たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく、修行を完成なさい』」だったという 。

 本堂の本尊の釈迦像。金色に輝く釈迦像は、神々しく美しいが、顔つきがいまひとつ私のイメージには合わなかった。宗教であるから、私の趣味は問題ではないだろう。

 日本は仏教国なのか。私は仏教徒なのか。仏陀の教えは尊いものだと思うが、信仰とかいうものとは違うと思う。だが、あなたの宗教はと問われれば、「ブッディスト」と答えたい。「ブッディスト」であることに誇りを持ちたいと思う。

 日本の大乗仏教はどの程度、釈迦=仏陀の教えであり仏教なのか。私は、日本の仏教には抵抗があるが、釈迦=仏陀の教えは真摯に聞いてみたいと思う。


 現在はインド政府によって整理され遺跡公園になっている。 異様な格好のストゥーパ、日本では仏塔や仏舎利塔ということになる。原始仏教の信仰対象であったストゥーパは、その原始性を保持したまま現代によみがえっていた。
サーンチーのストゥーパは、釈迦の土盛りのようなお墓のイメージそのままだが、サールナートのストゥーパは、土盛りが上に伸びて塔のようになった感じがする。土盛りと仏塔との中間に位置するのだろうか。

サールナートのダメク・ストゥーパ

 仏陀は35歳にしてブッダガヤの地で悟りをひらいた。その後、サールナートで初めて伝道布教を行ったという。仏陀が初めて説法を行った地の近くに左のストゥーパ(仏舎利・仏塔)がある。仏教全盛時代の遺跡で、 ストゥーパの近くには多くの仏教寺院の遺跡があった。
 またこの周辺からは「サールナート仏」と呼ばれる仏像が多数出土し、最高傑作とも評される「初転法輪像」がサールナート考古博物館に収蔵されている。 この仏像は素晴らしいものだが、残念ながら撮影禁止。


ストゥーパの側で。積み上げられた石には文様があった。

  高さ33m。6世紀に建てられたストゥーパ=仏塔で、13世紀以降半分以上が地中に埋まっていた。そのため、イスラムからの破壊をまぬがれたのだという。
  ストゥーパに近寄ってみると、積み上げられた石の面に細かなデザインやレリーフの加工がほどこされているのがわかる。蔓の意匠が多いようだ。

 仏陀入滅後、火葬されて埋葬されが、ストゥーパは仏陀の土盛りの墓のイメージである。
 入滅後400年間、釈迦の像は存在しなかった。彫像のみならず絵画においても釈迦の姿をあえて描かず、「法輪」や「菩提樹」のような象徴的事物に置き換えられた。 崇拝の対象は専ら「仏舎利」または「仏塔」であった。
 ストゥーパは仏陀の象徴ということだが、この形はどうも好きになれない。あまりの素朴さ・原始性。ストレートに人間の原初的なものが表出されていて、無意味な生命細胞に戻ってしまうような怖さがある。ストゥーパは、仏陀が、仏教が、インドの地に生まれ、辿ってきた暗くて悲しい歴史の闇を見つめてきたのだろうか。


木の幹にペンキが塗られている。人や車の衝突防止のためだそうだ。何か悲しいものが。 そんな木の下で瞑想する人がいた。

 インドの寺院や遺跡や路地裏で、このような僧侶とおぼしき人たちの座禅や瞑想の姿をみることができる。
  外界を閉じ、自分の心の中に深く沈潜し、静かに心に語りかける。心を無にして外界をすべて受け入れ、己の在りどころを探ろうというのか。瞑想は深い。悟りの心は、諸行無常であり、諸法無我である。インド人にはなぜか、こういう精神性をもつ人が多いようだ。


ガンジスの川面に向かい物思いにふける老人。インドの動物たちも人間の瞑想の見てか、静かにじっとたたずんでいた。

 人々は思い思いに座禅し瞑想する。どうやらインド人はこのような瞑想が好きなようだ。さすが仏教発祥の国。だが、ヨガのような格好をしている人は見かけなかった。日本では、座禅は禅宗のものでヨガはヨガ教室のものか。
 ヨガは難行苦行のようなものか、健康法の一種か。仏陀は修行としての無意味な苦行を否定している。、


サールナートの菩提樹の下で5人の比丘(びく)と集まった鹿に初めて説法をした。 写真は説法を聴く5人の比丘の人形。


初転法輪(しょてんぼうりん)の地サールナート

 サールナートは、釈迦が悟りをひらいた後,初めて説法(初転法輪)を行った場所といわれる。サンスクリットのムリガダーバ。現在のサールナート(「鹿の王」)にあたる。転法輪とは、釈迦の教えを車輪を回転させるように広めていくイメージ。
 釈迦は、35歳で正覚(覚り)を開き、仏陀(覚者)となった。釈迦はさらに、悟りの楽しみを味わい、縁起・十二因縁を悟り、解脱の楽しみを味わった。
 釈迦は、 悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。諸行無常の生を生きる苦しさからの「自己救済」が、もともとの釈迦の出発点だった。


サールナートの菩提樹の周りは巡礼路になっている。

 ところが天からブラフマー(梵天)が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。「あなたがお悟りになったその道は、世の中の苦しんでいる多くの人を救うことになります。是非、その道を皆に教えてください」と。 釈迦はいいます。「私が悟ったのはあくまでも自分自身の苦しみを除くための道であり、それで他人様を皆救えるわけではありません。」すると梵天はいう。「確かにあなたの言うとおりでしょう。しかし、少なくともあなたの教えに共鳴する人には役に立ちます。」(「ゴータマは、いかにしてブッダとなったか」佐々木閑著 NHK出版新書より)
 釈迦と梵天が本当にそんなことをいったかどうかはわからないが、それに近い葛藤が釈迦の心の内にあっただろうことは推察できる。ここに「自己救済」と「他の人の救済と慈悲」の仏教の2つの顔が出てくる。




ここは世界の仏教徒の仏蹟巡礼者が多い。

 梵天の3度の勧請の末、釈迦は自らの悟りを人々に語る決心をする。そして、かってともに苦行をしていた5人の仲間=比丘(びく)に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー=ベナレスのサールナートまで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。
 釈迦は鹿野苑へ向かい、初めて5人の比丘(びく)にその方法論、四諦八正道を実践的に説いた。これを初転法輪(しょてんぽうりん)と呼ぶ。この5人の比丘(びく)は、当初は釈迦は苦行を止めたとして蔑んでいたが、説法を聞くうちコンダンニャがすぐに悟りを得、釈迦はそれを喜んだ。 5人の比丘は、釈迦の初めての弟子となった。

  釈迦は、ガンジス川の流域を中心に、自らの覚りを人々に説いて伝道して廻った。 このとき説かれた教えは、「苦集滅道の四諦(したい)」、その実践法たる「八正道」であったといわれている。
 釈迦は、自分自身の苦しみから逃れるために修行し悟りを開いたが、もともと「自己救済」=「自利」の契機があった。「自利」により自己を確立することが、まわりまわって他人の為になる「利他」と組み合わされている。

 「四諦(したい)」とは、
 苦諦(くたい)----この世は一切皆苦である
 集諦(じったい)--苦の原因は煩悩である
 滅諦(めったい)--煩悩を消滅させれば苦も消える
 道諦(どうたい)--煩悩消滅のための8つの道

 「諦」とは、「真理」というほどの意味。
 この世は一切皆苦であるがその原因は「煩悩」にある。「煩悩」を取り除けば苦も消える。煩悩消滅のためには8つの修行の道がある。諸行無常であり、諸法無我であることを悟れば、涅槃寂静の境地に入ることができる。


仏陀の言葉?を記した碑。

 「正八道」とは、
(涅槃に至る修行の基本)
 正見----正しいものの見方
 正思惟--正しい考え方をもつ
 正語----正しい言葉を語る
 正業----正しい行いをする
 正命----正しい生活を送る
 正精進--正しい努力をする
 正念----正しい自覚をもつ
 正定----正しい瞑想をする
 仏陀は、この8つの基本のもとに修行を積んで、修行を完成させなさい、というのだ。 
 お釈迦さんの教えは、このように至極まっとうであった。

 釈迦は、 以降45年間、80歳で入滅するまで、悩み苦しむ人々に教えを説き続けた。

   
photo by miura 2013.3
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