サーンチーのストゥーパ [地図]
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立派な正面の塔門
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インド最古の仏教遺跡 サーンチー サーンチー(Sanchi)は、インドの中部にあるマディヤ・プラデーシュ州の丘陵の村である。最古の仏教遺跡があり、仏塔・寺院などが多く存在している。1989年に世界文化遺産に登録された。 |
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石組みの塔門は、二本の方柱に三本の横梁が渡されている。この塔門には仏伝図や本生図などが多数彫刻されており、工芸的に大変すぐれたものであるといわれる。日本の鳥居に似ているが、直接の関係は分かっていない。 |
日本の神社の鳥居のような塔門。 |
レリーフの内容は、仏陀の誕生から入滅までの「仏伝」(仏陀伝説か)の絵解きになっている。
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仏教は仏滅後100年、上座部と大衆部に分かれる。「部」というのはグループや宗派のようなものを指している。 |
仏陀=菩提樹を供養する人々とお猿さんたち。 |
サーンチーのストゥーパの時代にも釈迦亡き後の教団内の混乱があったと予想されるが、ひたすら釈迦の崇拝を第一義として思想的な立場を超えて建てられたのだろ。また、このストゥーパは、仏陀の像が形作られていない時代の崇拝の対象だったと考えられる。 |
表門は像たちが梁を支えていた。 塔門はどこから見ても青空に映えて美しい。薄暗い宮寂びた感じはない。明るく開放的だ。 |
ストゥーパが崇拝の対象だった時代には、まだ仏像は存在せず、菩提樹などが仏陀の象徴として見られていた。日本の鳥居に似た塔門は、しかし素晴らしい彫刻・レリーフが刻まれており、仏陀伝説が形になって伝搬していたことをうかがわせる。 左の写真は正面の塔門の裏側である。裏側も表面と同様に、しっかりと仏伝の物語が彫刻されている。 サーンチーのストゥーパは、仏教の衰退と共に破壊されて、消失してしまう運命にあった。ところが、サーンチーの遺跡は放棄された後、樹木でおおわれ
人々から忘れ去られたために破壊を免れるという幸運に恵まれた。 |
裏の門には腹の出たおっさんたちが梁を支えていた。 |
裏門にあたる塔門のレリーフ。横張を4人の腹の出たおっさんが支えている。 4頭の獅子像が支えている塔門もあった。 |
第一ストゥーパの後ろにある最古の仏教寺院といわれている建物の一部。装飾は少なく素朴な寺院遺跡。 |
サーンチーは、インドにおいて仏教が栄えていた ほとんどの時代を通じて、一大仏教センターとして機能していたようだ。辺りには、最古の仏教寺院や宿坊など多数の仏教遺跡がたくさんあった。ストゥーパは、上下が薄く中央が膨らんだ楯状の石ので組まれた柵に囲まれている。この柵は見たこともない異様なもので意匠の原始的な多様性が感じられて面白い。 |
寺院または宿坊の跡。 |
サーンチー仏教遺跡の入り口にある菩提樹。仏陀にちなんで植樹されたものだという。看板があり、いわれが説明されている。 |
アーリア人の末裔か。 |
人懐っこいインド人。食事に入ったレストランの入り口に門番の銅像が飾ってあった。面白いのでカメラを向けたら、それを見ていたインド人が割って入り、自分もいっしょに撮れという。うれしくなって撮った。お父さん、ありがとう。印刷して送ろうとしたのだが住所が不明。 |
はにかみ少女 バットを持ちボールを打っていた女の子。私が近づくと椅子の後ろに隠れてしまった。あまりに可愛くってカメラを向ける。地元のおじさんが声をかけると、やがて出てきて、写真に納まってくれた。こんなにかわいい女の子だった。 |
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ついついうれしくなってまた写真を撮ってしまった。インドの子供たちは人懐っこい。カメラを向けても喜んでとらしいくれる。基本的に、人に対する信頼があるのだと思う。こういう、他人でもちゃんと信頼関係を築ける社会はうらやましいと思う。かって、日本の田舎もそうだったのではないか。インドは確かにまだ貧しいかもしれないが、仏教を生んだ国だけあって、仏教国の日本人とうまくやっていけるような気がする。 |
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ビンベトカの岩絵へ向かう気持ちのよい小道。 |
ビンベトカの岩絵 ボパールからサーンチーに向かう途中、ビンベトカの岩絵に立ち寄る。平野のなかの小高い丘の上に浸食から取り残され、砦のような格好をした岩の集合体がある。バスで丘の上まで上り、バスを降りるとすぐ前に、岩絵へと続く小道があった。辺りの木々は葉を落としているが、さわやかな風が吹きわたり、大変気持ち良い。 |
岩と岩に挟まれてドームのようになった空間があった。生活の場であると同時に集会場などとしても使われていたようだ。このあたりから5000年前の人骨も出土している。 |
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よく見ると集団での虎狩りの様子が描かれている。 |
狩りか戦いか。 |
photo by miura 2013.3 |