メニューへ
オビドス
コインブラ
ギマランイス
コビリャン
リスボン  

オビドスObidos 「ポルトガル王妃」の村



門の城壁から見たオビドスの村の全景
赤茶色の屋根と白い壁の家は、日本人には珍しいが、ポルトガルでは伝統的な家屋の造りのようだ。

2024年4月、Y社のツァーに参加した。
オビドスはリスボンから北へ90kmのところにある。
ポルトガル・オビドスのMap
オビドスは人口800人程度の小さな村だが、古代ローマが支配していたころから城塞都市として栄えていた。「谷間の真珠」といわれるが、丘の上の城壁に囲まれた小さな村である。オビドスはラテン語で「要塞」を意味している。
「谷間の真珠」というから渓谷にたたずむ城塞のイメージだったのだが、全く異なった。谷間ではなく丘の上のこじんまりとした、中世の街並みが残された村だった。
村はローマ時代に築かれた高い城壁に囲まれている。

 


城内の庭から見た城の中心部分。レコンキスタを終えてから何度が改修された。


ポルトガル独立時にイスラム教徒に占領されていたオビドスを1148年に奪還した。1282年に6代目のポルトガル国王・ディニス1世が新婚旅行でオビドスを訪れた際、妻である王妃イザベラがオビドスの街の美しさを気に入ったたため、王はこの地を王妃にプレゼントした、とのこと。

 


東側の川の辺りからみたオビドスの城壁。周りは完全に田園地帯。整備されていない荒れ地も多い。


城内になぜか王妃イザベラの像の半身が置かれている。
1834年まで代々ポルトガル王妃の直轄地になり、552年もの間、オビドスは「ポルトガル王妃」の村となった。

 


城壁を半周した。壁は薄く内側の通路の幅は1mもない。この城壁の通路を半周したが、手すりもないので老人には怖い。若く元気のいい兵士なら走り回れたのかもしれない。

4つある城門のひとつ。美しい。観光客はの門から入る。

サンタ・マリア教会とその前の広場。中世の雰囲気でいい感じ。

オビドスの村に通じる水道橋。小さな村に水を供給するためだけのために、こんな立派な水道橋を造るとは。
オビドス駅

朝、宿泊ホテルから歩いて、オビドスの城塞の近くまで散歩した。城壁の直ぐ下にオビドス駅があった。全くの田舎の駅といったたたずまい。この駅で降りてオビドスを観光する人もいるようだが、電車が来ない時間帯では人っ子一人いない。近くで採れた農産物の積み出し駅というのが主要な目的のようだ。辺りはのどかなブドウ畑とオリーブ畑と空き地。ポルトガルのさらに田舎といった感じ。

 

   

アルコバサ修道院Alcobaca 初代国王が建設



オビドスから北へ20Kmほどのところにあるアルコバサ。
ポルトガル・アルコバサのMap

ポルトガル初代国王アフォンソ1世の所願により、1178年に建築が始められた。ポルトガル最古のゴシック様式をもつ教会をはじめ中世の建築群がそのまま残り、1989年、ユネスコの世界遺産に登録された。

回廊と教会

ポルトガル王アフォンソ4世(在位1325年 - 1357年)は1334年、王太子ドン・ペドロをカスティーリャ王族コンスタンサ・マヌエルと結婚させた。ところが、カスティーリャ王国から嫁いできたコンスタンサの女官のなかにイネス・デ・カストロという香しい美女がおり、ペドロはイネスの方に夢中となった。王位の後継者が正妻を省みず、不倫の愛に溺れるのを見かねたアフォンソ王は何度もペドロにイネスとの関係を絶つように迫るが、ペドロは聞き入れようとはしなかった。王女コンスタンサは王子フェルナンド(のちのフェルナンド1世)を出産したが早世した。やがて歳月が流れ、ペドロとイネスとの間に子も生まれた。


ペドロ1世(奥)と愛妾イネスの墓(手前)
ペドロ王は父王とは和解しても、実際にイネスを手にかけた3人の刺客は許せなかった。カスティーリャに逃れた2人はポルトガルに引き渡され、ペドロ王の目の前で処刑された。アラゴン王国に亡命した者は自殺に追い込まれた。イネスを亡くしたペドロ1世はその後、二度と結婚せず独身を通している。(Wikipediaより)

 

公務をないがしろにしてコインブラで愛の生活を送るペドロに絶望したアフォンソ王は、ついにイネスを亡き者にするよう3人の家臣に命じた。1355年1月7日、王子ペドロの不在の間に3人の刺客はイネスを暗殺した。このことを知ったペドロは怒り狂い、ポルトガル北部で反乱を起こすが、母后ベアトリスのとりなしで、翌1356年8月に父と子は和解した。その5ヶ月後、アフォンソ王が死去し、ペドロはポルトガル王位に即位した。(Wikipediaより)

ペドロ1世の石棺向かい合わせに 愛妾イネスの石棺が置かれている。生まれ変わったらすぐに出会って結ばれるようにという願いからだという。
ポルトガル版のロミジュリのような話だが、こうゆう話はポルトガルのみならず世界でウケるようだ。

 

ナザレの海岸 



ポルトガル・ナザレのMap

アルコバサの海岸寄りの位置にナザレの街がある。リスボンから北に130kmほど離れた大西洋沿岸の街。
ナザレは、大西洋からの大うねりが発生するスポットとして有名で、26mの世界記録の波乗りに成功したことで世界に知られるようになった。

私たちは、波乗りに来たわけではなく、高台のレストランで鰯のランチを楽しんだ、それだけだった。日本では鰯の塩焼きはあまり食べる機会がないが、悪くない味だった。

 


高台より見たナザレの街と海岸線

ボルトガルはイワシでも有名で、写真のように炭火塩焼きがよく食されている。ポルトガル人のソウルフードとまで言われている。

バターリャ修道院 Batalha 「勝利の聖母マリア修道院」



修道院は、2世紀にかけて建設された。建設が開始されたのは、1386年であり、1517年にある程度の完成を見せるが、その間に、ポルトガルの国王は、7人が在位したことになる。

ポルトガル・バターリャのMap
バターリャは中心市街地には7,500人ほど、そのほかの行政区を含めて15,000人が居住している小規模の町。こんな町に立派なバターリャ修道院は荷が重いようだ。

ポルトガルにおける後期ゴシック建築の傑作であり、マヌエル様式も用いられている。バターリャ修道院は、ポルトガルの独立を象徴する建築物であり、1983年、ユネスコの世界遺産に登録された。「勝利の聖母マリア修道院」とも称えられる。

バターリャ修道院は、1385年8月14日、バターリャ近郊で行われたアルジュバロータの戦い(ポルトガル軍5,000人がスペイングン30,000人を打ち破った)で、カスティーリャ王国軍(スペイン)をジョアン1世(ポルトガル)が打ち破ったことを聖母マリアに感謝するために建設が開始された。アルジュバロータの戦いは、1383年からカスティーリャ王国とポルトガルとの間で展開された戦争において、ポルトガルの勝利を決定付けた戦いとして知られ、バターリャとはポルトガル語で「戦闘」を意味する。(Wikipediaより)


バターリャ修道院の建設を通して、膨大な人的、物的資源が投入されると同時に、ポルトガルは国内では未知であった建築技術、芸術様式が導入され、独自の発展を遂げた。

立派なファサード
ドアの隣には、両側に6体ずつ、イエスの12人の弟子の彫刻がある。さらにその上にはアーチを描くように、殉教者、教皇、司教、天使などの宗教的人物の小さな彫刻がずらりと連なる。

ナポレオン支配に対して起きたスペイン独立戦争がイベリア半島で展開された1810年から1811年にかけて、バターリャ修道院は多くの被害を受けた。また、1834年には、ドミニコ修道会がバターリャ修道院の建築物群から追放されると、修道院は放置され、廃墟と化した。

1840年、フェルナンド2世がゴシック建築の傑作であるバターリャ修道院の修復を宣言し、その作業は、20世紀の初めまで続いた。1980年には、修道院は博物館へと転換された。(Wikipediaより)

 


大航海時代に香料などの貿易で莫大な資産を得たが、豪華で立派な教会や城塞などの軍事施設につぎ込んでしまったようだ。それでは後の産業が育たない。

王の回廊に残されている彫刻は、マヌエル様式とゴシック様式を上手に融合させている。
維持に費用がかかるバターリャ修道院は、リスボンのジェロニモス修道院の建設に全力を注ぐジョアン3世の決定によって、建設が中止されるにいたっている。 大航海時代が過ぎポルトカ゜ルは衰退に向かう。


マヌエル様式とは、15世紀後半から16世紀のポルトガルで流行した建築様式。後期ゴシック建築、ルネサンス建築、イスラム建築の要素と大航海時代の自然観を備えている点にマヌエル様式の特徴がある、とされる。建物には船や海に関する装飾が施され、地球儀、鎖、ロープの結び目、舷窓の蓋、波、サンゴ、海草、インドや南アメリカの植物、人間、宗教などがモチーフとされている。

 


未完の状態で今に残る礼拝堂
未完の状態にしては建築物が立派。悲しいことなのかもしれないが、面白いこともあるものだ。


未完だが立派な礼拝堂
創設者の礼拝堂の後ろに未完の状態で今に残る礼拝堂。建築の設計そのものに欠陥があったとも、途中で予算が尽きたとも、リスボンのジェロニモス修道院の建設に人と資源が回されたためともいわれる。

 


宿泊したホテルの前の由緒ありげな古ぼけた建物。
こういう建物をポサードにすると面白いのだが。

コインブリガ ド パソホテルに宿泊
やや味気ない外観。
photo by miura 2024.04
メニューへ  ページトップへ
左の