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ザビエル城・パンプローナ
サンセバスチャン・ゲルニカ
アルタミラ・アルゴス
カストロヘリス村 サンチアゴデコンポステーラ

7.ハカ・ザビエル城・パンプローナ


ハカ大聖堂の入口

ハカの大聖堂

 ハカは、フランスとの国境に近く、ピレネー山脈の山あいにある町。サンチエゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路。
 ハカはフランスのポーとサラゴサからの中世からの主要街道の2本が交差する、アラゴン川の浅瀬にある。アラゴン王国が築いた城塞都市である。1097年まではアラゴン王国の首都であった。(Wikipediaより)

 大聖堂は11世紀頃のスペイン・ロマネスク様式の最も古いもののひとつ。


大聖堂のドームの内部


石柱の上の石の彫刻が動物有り変顔あり聖書の場面ありで面白い。

大聖堂のドーム。
ミサが行われていた。広く明るく、祭壇にはパイプオルガンと宗教画。


大聖堂の鐘楼
 

左は大聖堂の鐘楼。上は柱の宗教レリーフ。ロマネスク教会の屋根の下の支えや柱の上部には多くの場合、聖書の場面の石のレリーフがあり、一つとして同じものはなく、鑑賞に堪えるものが多い。スペイン・カトリックの歴史と文化は味わい深い。中部と南部・地中海寄りのイスラム風味とゴシック様式とよい対称をなしている。



 レストランの入口の上にあった紋章?草原の羊の上にお日様が微笑んでして面白い。


大聖堂出口?の喫茶店と、正面のディスプレイ。このロマネスク・イエスの自由感がたまらなくいい。
 



 大聖堂の出口の前にある喫茶店。喫茶店もいい感じだが、正面のビルの左側に大聖堂なのか博物館なのか催し物の大きな垂れ幕のようなディスプレイが掲げられていた。描かれている人物はイエス・キリスト。中世スペイン・カトリックはこんなにも寛容でおおらかであった。

 


上の写真の左上を拡大したもの。すばらしい、 これがロマネスクのイエス・キリストイメージ。
キリスト像の原初的なイメージはこんな顔をしていることが多いようだ。十字架の苦渋のキリストより親しみがある。マンガチックだがよく見ると味のあるよい顔をしている。中世の人々はどのような想いでこのキリスト像を見ていたのだろう。


五角星型のハカ城塞

ハカ城塞入口に向かう橋

 

 


ザビエル城全景。ザビエルはこの城で生まれた。
城というには小さい。城塞というべきか。10世紀頃に中央の塔が造られ、その後、拡張されていった。左の教会は20世紀に入って建てられた。

 

ザビエル城(ハビエル城)


 ザビエルは、スペインのナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人。
 ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年(天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えた。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。
 1506年頃4月7日、フランシスコ・ザビエルはナバラ王国のパンプローナに近いハビエル城で生まれ、地方貴族の家に育った。
 父はナバラ王フアン3世の信頼厚い家臣として宰相を務め、フランシスコが誕生した頃、すでに60歳を過ぎていた。ナバラ王国は小国ながらも独立を保ってきたが、フランスとスペイン(カスティーリャ=アラゴン)の紛争地になり、1515年についにスペインに併合される。父フアンはこの激動の中で世を去った。その後、ザビエルの一族はバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることになる。


ザビエル城の左にある教会。20世紀初頭に追加建築された。
1534年、ザビエルは、狂信的なカトリック信者ロヨラの強い影響を受けイエズス会を創立し、カトリックの布教活動に邁進する。

司馬遼太郎氏によれば、ヨーロッパの南蛮はポルトガル・スペイン地方でカトリックの熱心な地域。彼らは東アジアを植民地化する際、軍隊を送り込む際の地ならしとして宣教師を送り込んでいた。ザビエルの属していたイエズス会はカトリック布教の熱狂的な先兵だった。

 

 

1525年、19歳で名門パリ大学に留学。聖バルブ学院に入り、自由学芸を修め、哲学を学んでいるときにフランス出身の若きピエール・ファーヴルと同室になる。のちにザビエルと同様にバスクから来た37歳の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)も加わる。
 イニゴはパンプローナの戦いで片足の自由を失い傷痍軍人として故郷のロヨラ城で療養の後、スペインのアルカラ大学を経てパリ大学モンテーギュ学院で学んでいた。
 1529年、ザビエルの母が死亡。その4年後、ガンディアの女子修道院長だった姉も亡くなる。この時期ザビエルは哲学コースの最後の課程に入っていたが、ロヨラから強い影響を受け、聖職者を志すことになる。そしてロヨラの感化を受けた青年たちが集まり、1534年8月15日、ロヨラ、ザビエル、ファーブルとシモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの7人が、モンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるという誓いを立てた。これが「モンマルトルの誓い」であり、イエズス会の創立である。
 一同は1537年6月、ヴェネツィアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルもロヨラらとともに司祭に叙階された。 (以上、Wikipediaより)

 


ザビエル城の初期の頃か。


 城塞は、防御的戦闘のためのもので、城の周りは深い堀が張り巡らされていた。

 


城内の博物館にあったイエスを左に抱いたマリア像。後世の作らしくマリアの顔が異常に美しい。

 ザビエルは、19歳で名門パリ大学に留学し、哲学コースで学んでいたが、ロヨラから強い影響を受け、聖職者を志すことになった。
彼は「高雅な人柄と英知」をもち、神に対する絶対的な服従と規律、敬虔さを備えていた。それが文化や宗教の違いを超え、日本人にも受け入れられたようだ。

 

ザビエルは、パリ大学で神学よりも哲学に関心を持っていた。アリストテレスに傾倒し、それを専門とする助教にまでなった。この当時は、僧侶になるつもりは全くなかった。ザビエルは、貴族の子らしい気品をもち、スポーツ好きの明るさと、社交的な性格を持っていた。学院の人々に好かれ、助教としての講義も評判がよかった。
 その彼の前に、ロヨラという妖しいばかりに偏執的な情熱をもった中年の学生が現れる。
 ロヨラは、死神のような信念をもって同室のザビエルを説き続けた。ロヨラはカルヴィンと同じモンテーギュ学院で学び、カルヴィンはロヨラの入学の1年前に卒業していた。それによって彼は聖職者という、彼自身考えてもいなかった進むことになる。
 司馬遼太郎は、ロヨラを狂信的カトリック信者にして偏った美意識の騎士道かぶれとみている。ザビエルは悪いやつにつかまってしまったようだ。

 


日本風掛け軸

 

マルティン・ルターはローマ法王に対する激しい非難を開始していた。法王以下高級僧侶たちは、「考えられる限りの淫乱、食道楽、詐欺、権勢欲、神への冒涜を重ねている」とし、ルターの支持者はドイツにおいて圧倒的に増えつつあった。
 ロヨラは、イエズスの代理人が法王である以上、法王への攻撃を座視できない。王のために騎士が命をすてるように、法王のために剣をとって戦い、屍を戦場にさらす聖職者をよしとした。はるか異教徒の地に身を挺して布教に行くという行為を含んでいた。

 ロヨラの人柄は、装飾、金具など下品で華美。右翼狂信主義者のような風貌から、愛嬌のようなものが感じられる。ロヨラが、妖気をもってザビエルにせまることがなかったら、イエズス会も存在しないし、ザビエルは日本にくることもなかった。
(司馬遼太郎「南蛮のみちT」より、以下も同様)

 


日本での布教活動の様子
 

ザビエルは、薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年(天文18年)8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。
 1550年(天文19年)8月、ザビエル一行は肥前国平戸に入り、宣教活動を行った。山口周防、岩国を経て京に上る。ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。

ザビエルは日本での2年間の活動を経て、さらに中国に布教の場を広げようとする途上、1552年に中国・広東省の上川島で病を発症し46歳で亡くなった。


ザビエル像か。城の前の広場に掲げられている。
 
城へのアプローチは整備された公園のような林が続いている。

 

 


右手の建物が自治体庁舎。

 

パンプローナ


  

スペイン・ナバーラ州のムニシピオ(基礎自治体)。ナバーラ州の州都。毎年7月6日から14日にはサン・フェルミン祭(牛追い祭り)が開催される。アーネスト・ヘミングウェイの長編小説『日はまた昇る』の主な舞台。

 紀元前75年から74年にかけての冬、共和政ローマの将軍ポンペイウスがこの地を駐屯地としたのが始まり。パンプローナの名前はポンペイウスに由来する。 

写真の右の建物は自治体庁舎。この庁舎前の広場を横切って牛追い祭りの牛たちが走り抜ける。

 
自治体庁舎の前の牛が走る通路の柵。なぜかここだけ柵が立てられていた。
 


牛追い祭りの立派な銅像。

 庁舎前の牛が走り抜ける通路を作るための柵。通路はこの柵でできる。広場や道路には柵建ての穴が穿かれている。


街は牛追い祭りのイメージにあふれている。

みんな牛追い祭りが好きなんだなあ。

1954年、『老人と海』が大きく評価され、ノーベル文学賞を受賞。

 ヘミングウェイの碑。闘牛場の横に設置されている。
 彼は牛追い祭りと中世の雰囲気を残したパンプローナが気にいり、よくこの街に通ったという。ヘミングウェイの長編小説『日はまた昇る』の舞台がここパンプローナ。行動派の作家で、1930年代には人民戦線政府側としてスペイン内戦にも積極的に関わった。


パンプローナの中心にあるカスティーリョ広場

左の写真は、パンプローナの中心にあるカスティーリョ広場。

パンプローナ大聖堂

   
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