カストロヘリス村 | サンチアゴデコンポステーラ |
7.ハカ・ザビエル城・パンプローナ |
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ハカ大聖堂の入口 ハカの大聖堂 Catedral de San PedroのMap |
ハカの大聖堂 ハカは、フランスとの国境に近く、ピレネー山脈の山あいにある町。サンチエゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路。 大聖堂は11世紀頃のスペイン・ロマネスク様式の最も古いもののひとつ。 |
ハカ大聖堂のドームの内部 |
大聖堂のドーム。 |
ハカ大聖堂の鐘楼 |
左は大聖堂の鐘楼。上は柱の宗教レリーフ。ロマネスク教会の屋根の下の支えや柱の上部には多くの場合、聖書の場面の石のレリーフがあり、一つとして同じものはなく、鑑賞に堪えるものが多い。スペイン・カトリックの歴史と文化は味わい深い。中部と南部・地中海寄りのイスラム風味とゴシック様式とよい対称をなしている。こういう多様な文化が共存しているのがスペインの面白さなのだろう。
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ハカ大聖堂出口?の喫茶店と、正面のディスプレイ。このロマネスク・イエスの自由感がたまらなくいい。 |
大聖堂の出口の前にある喫茶店。喫茶店もいい感じだが、正面のビルの左側に大聖堂なのか博物館なのか催し物の大きな垂れ幕のようなディスプレイが掲げられていた。描かれている人物はイエス・キリスト。中世スペイン・カトリックはこんなにも寛容でおおらかであった。
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五角星型のハカ城塞 |
ハカ城塞入口に向かう橋 |
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ザビエル城(ハビエル城)ザビエル城(ハビエル城) Castillo
de JavierのMap |
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1525年、19歳で名門パリ大学に留学。聖バルブ学院に入り、自由学芸を修め、哲学を学んでいるときにフランス出身の若きピエール・ファーヴルと同室になる。のちにザビエルと同様にバスクから来た37歳の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)も加わる。
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ザビエル城の初期の頃か。要塞のようなものから時代を経て城の体裁を整えていったようだ。 |
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ザビエルは、19歳で名門パリ大学に留学し、哲学コースで学んでいたが、ロヨラから強い影響を受け、聖職者を志すことになった。 |
ザビエルは、パリ大学で神学よりも哲学に関心を持っていた。アリストテレスに傾倒し、それを専門とする助教にまでなった。この当時は、僧侶になるつもりは全くなかった。ザビエルは、貴族の子らしい気品をもち、スポーツ好きの明るさと、社交的な性格を持っていた。学院の人々に好かれ、助教としての講義も評判がよかった。 |
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マルティン・ルターはローマ法王に対する激しい非難を開始していた。法王以下高級僧侶たちは、「考えられる限りの淫乱、食道楽、詐欺、権勢欲、神への冒涜を重ねている」とし、ルターの支持者はドイツにおいて圧倒的に増えつつあった。
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ザビエル肖像 神戸市立博物館 日本での布教活動の様子。武士や農民、商人などいろいろな身分の人々が説教を聴いている。 |
ザビエルは、薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年(天文18年)8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。 ザビエルは日本での2年間の活動を経て、さらに中国に布教の場を広げようとする途上、1552年に中国・広東省の上川島で病を発症し46歳で亡くなった。 |
ザビエル像か。城の前の広場に掲げられている。 |
城へのアプローチは整備された公園のような林が続いている。 |
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パンプローナパンプローナ PamplonaのMap スペイン・ナバーラ州のムニシピオ(基礎自治体)。ナバーラ州の州都。毎年7月6日から14日にはサン・フェルミン祭(牛追い祭り)が開催される。アーネスト・ヘミングウェイの長編小説『日はまた昇る』の主な舞台。 紀元前75年から74年にかけての冬、共和政ローマの将軍ポンペイウスがこの地を駐屯地としたのが始まり。パンプローナの名前はポンペイウスに由来する。 写真の右の建物は自治体庁舎。この庁舎前の広場を横切って牛追い祭りの牛たちが走り抜ける。 |
自治体庁舎の前の牛が走る通路の柵。なぜかここだけ柵が立てられていた。どうも観光客へのサービスのようだ。 |
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街は牛追い祭りのイメージにあふれている。 |
みんな牛追い祭りが好きなんだなあ。 |
ヘミングウェイの碑 1954年、『老人と海』が大きく評価され、ノーベル文学賞を受賞。 |
ヘミングウェイの碑。闘牛場の横に設置されている。 |
パンプローナの中心にあるカスティーリョ広場 |
左の写真は、パンプローナの中心にあるカスティーリョ広場。 パンプローナ大聖堂 |
photo by miura 2017.5 |