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ブリュッセルのグラン・プラス(Belgium)



広場に面したブリュッセル市庁舎

広場はイベントが開かれるなど多目的に使われている。
馬車に似た電動馬車のような観光案内の乗り物が走っていて、辺りの観光案内をしている。見たこともない屋根の階段ファザードはとても印象的。

グラン・プラス Grand Place

グラン・プラスのMap

ブリュッセルの中心地にある大広場グラン・プラス。世界で最も美しい広場のひとつといわれ、1998年にユネスコの世界遺産に登録された。
1523年にプロテスタントの最初の殉教者たちがこの地で火刑に処された。

市庁舎はブリュッセルの世界遺産グラン・プラスのシンボル的な建物。96mの高さを誇る塔が目印で、その塔の頂上には竜を打ち倒すブリュッセルの守護天使ミシェル像が飾られている。

塔の頂上にはブリュッセルの守護天使ミシェル像が乗っている。


グランプラスの広場を囲むギルドハウス(同業者組合のこと、当時のブリュッセルで各組合の寄合所)
建物の壁に飾られた包丁や樽、手押し車などの紋章がそれぞれの職業をあらわしている。

グランプラスの広場の中央に立つと、日本ではまず経験できない何とも言えない興奮や感動のようなものが味わえる。伝統的な建築様式や装飾は、歴史の重みを感じさせる。

膨張政策をとるフランス王ルイ14世に対してアウクスブルク同盟に結集した欧州諸国が戦った戦争中、1695年、当時木造だった広場の家屋はフランス軍の砲撃によって大半が破壊された。市庁舎の塔は砲撃の的になったが、石でできた壁は砲撃による火災に耐えた。
広場を囲む家々は様々なギルドによって石造りで再建された。このため、市庁舎以外のほとんどの建物は、この時以降のもの。

ベルギーとオランダは、もともとはネーデルランドという一つの国だった。 1477年、ハプスブルグ家支配下に入る。ハプスブルグ家はスペイン王でもあったためだ。

ヨーロッパは宗教改革で大混乱の時代。ネーデルラントでもプロテスタントが勢いを増しはじめていた。スペイン国王フェリペ2世は、支配域をローマカトリックで統一しておきたいと思っていた。スペイン国王フェリペ2世はプロテスタントの弾圧にのりだし、異端審問所をもうけ、身分を問わず多くの貴族や民衆を処刑した。
1566年から1648年にかけて、ネーデルラント北部7州でユトレヒト同盟が結ばれ、スペインに対して反乱を起こした。八十年戦争(オランダ独立戦争)である。
結果として、ネーデルラント17州の北部7州はネーデルラント連邦共和国として独立。(1648年)
フランス(ブルボン王朝)や、フランスで革命に勝利したフランス革命軍が領土拡大を図ってオランダに侵攻しフランスの統治下にある時期もあった。


グランプラスの広場を囲むギルドハウス。1階はレストランなどの他、有名なベルギーチョコの名店が軒を並べている。

ベルギーは公用語が2つある。北部のフラマン語(「オランダ語の一方言」となっているがオランダ語とほとんど差がない。)、南部のフランス語圏、一部の地域ではドイツ語、ブリュッセル首都圏地域は公式にフランス語とフラマン語の二言語地域。英語はどこの地域でも普通に通じるようだ。

1839年、ベルギーの分離独立。
八十年戦争以来、ベルギーはカトリック教徒が多数を占める地域で、一部ではフランス語が話されてもいたため、ネーデルラントから独立してベルギー王国となり、オランダ王国と二つに分かれることになって、現代にいたっている。
一般に、オランダはプロテスタント、ベルギーはカトリックが多い、ということになっているが、最近の調査ではオランダの宗教比率は、キリスト教(カトリック18%、プロテスタント13%)、イスラム教(6%)、無宗教(57%)、その他(6%)(2022年、オランダ中央統計局)となっている。オランダは商業や産業などのビジネス活動が盛ん。自由なオープンスタンスで宗教にも人種にも寛容。それに対してベルギーはカトリックの重厚な教会や伝統・文化が多く残っている。
婚姻の際に姓が変わることはなく、夫婦別姓。同性婚も2003年より可能。


小便小僧の噴水。盗まれないように、立派な囲いがしてある。
小便小僧


小便少女?

反政府軍がブリュッセルを爆破しようとしかけた爆弾の導火線に小便をかけて消し、町を救った少年がいたという武勇伝説によるらしい。この少年の名はジュリアンというが、小便小僧が愛称。面白い言い伝えがあるものだ。

女の子がしゃがんでおしっこをしている像も、やや離れた場所にある。

 

ゲント(ヘント)にある聖バーフ大聖堂の祭壇画



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フーベルト・ファン・エイク、ヤン・ファン・エイクの作
製作年 1432年、種類 板に油彩、所蔵 シント・バーフ大聖堂

オリジナルのフレームは極めて華美なものだったが、宗教改革のさなかに失われてしまった。このフレームには翼を畳んだり、楽器を奏でることができるぜんまい仕掛けの機能があった。
内装上段にはイエス・キリスト(異説あり)を中心として聖母マリアと洗礼者ヨハネが描かれている。マリアの左隣のパネルには歌う天使たちがリアルに描かれ、さらにその左隣のパネルにはアダムが描かれている。洗礼者ヨハネの右隣のパネルには楽器を奏でる天使たちが、さらにその右隣のパネルにはイヴが描かれている。内装下段の中央部分に描かれているのは神の子羊で、その周囲には神の子羊を崇拝するために集った天使、聖人、預言者、聖職者や、聖霊の化身であるハトなどが描かれている。

扉の外装
『ヘントの祭壇画』の外装に描かれている絵画は三段に分かれている。外装中段に描かれているのは聖母マリアの受胎告知。外装下段は縦四つに仕切られており、内側部分には単色のグリザイユで表現された彫像のような洗礼者ヨハネと福音記者ヨハネが、外側部分には『ヘントの祭壇画』の制作依頼主であるヨドクス・フィエトと妻エリザベト・ボルルートの肖像が描かれている。( Wikipediaより)


子羊の祭壇を拡大したもの。「神の子羊」は、洗礼者ヨハネとイエス・キリストの伝統的象徴であるらしい。

フーベルト・ファン・エイクに、祭壇を飾る絵(『ヘントの祭壇画』)を注文し、これが後に有名な『神秘の子羊』となった。フーベルト・ファン・エイクは、1426年に死去し、弟のヤン・ファン・エイクが後を継いで1432年に完成させた。
『ヘントの祭壇画』の制作依頼主で、この祭壇画を教会に寄進したのは、商人、投資家、そして政治家でもあったヨドクス・フィエトといわれている。

ゲントの聖バーフ大聖堂

ゲントの聖バーフ大聖堂のMap

ファン・エイク兄弟のどちらが主体で作成したのかについて、現在の主流となっているのは、全体のデザインとパネルの構成がフーベルト、絵画作品としての完成に多大な貢献をしたのがヤンだという説が有力。
ヤン・ファン・エイクは、北方ルネサンス期の超絶技巧細密画(『アルノルフィーニ夫妻像』1434年)での巨匠。油絵具を発明し油彩技法を完成させた。自然をより忠実に正確にリアルに、写実的に再現する。初期ルネサンスのギリシア・ローマ時代の理想化の再現ではない。

『ヘントの祭壇画』はその制作以来、北方ヨーロッパ絵画の最高傑作のひとつであり、人類の至宝と見なされてきた。宗教改革時に巻き起こった聖像破壊運動では、『ヘントの祭壇画』も破壊されかけたことがある。さらにパネルが裁断されて、売払われたり略奪されたこともあった。第一次世界大戦の終結後に、散逸していた『ヘントの祭壇画』のパネルが元通りシント・バーフ大聖堂に戻された。しかしながら、1934年に左下部の「正しき裁き人」のパネルが盗難に遭い、2013年現在も行方不明のままとなっている。第二次世界大戦ではナチス・ドイツが『ヘントの祭壇画』を略奪し、他の略奪絵画とともにオーストリアの岩塩坑に隠匿していた。終戦後の1945年になってベルギーに返還された。( Wikipediaより)

ヤン・ファン・エイクは、北方ルネサンス美術の画家だが、その異常な超絶細密技巧は人間技とは思えない。写真のなかった時代、実物以上に実物らしくリアルに描かれた絵画に人々は驚愕したことだろう。好きな人はこの『ヘントの祭壇画』を双眼鏡で見続けているという。
日本の私には縁の遠い宗教的テーマが盛りだくさんではあるが、この絵が波乱の歴史をかいくぐり今日このように観賞できることに感動のようなものを覚えざるをえない。


ゲントの旧郵便局は現在、ショッピングセンターのポストプラザとなっている。この建物の裏にレイエ川がある。

ゲント市内のトラム(路面電車)。ベルギーではどこの都市でもトラムが市民の足になっている。

ベルギーの伝統的な屋根のファザード。

レイエ川沿いの散歩道。川沿いの伝統建築群を見ながら散歩を楽しむ。


レイエ川にかかる聖ミカエル橋


聖ニコラス教会
後期コシック様式の豪華な内装の教会。
   
   
photo by miura 20124.10
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