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モン・サン・ミッシェル、ジヴェルニー
ベルサイユ、パリ・ルーブル

モン・サン・ミッシェルン・サン・ミッシェル、ジヴェルニー



モン・サン・ミッシェルの入口の門

モン・サン・ミッシェルMont Saint-Michel (Map)

709年、司教の夢に大天使ミカエルがでて聖堂建設を命じたという伝説が創建の由来。要塞、巡礼地、監獄、そして信仰の地として、長い歴史の中で様々な役割を果たしてきた。サン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所として知られ、15m以上の差があるといわれる。潮の満ち引きが大きくイギリスとの100年戦争中も難攻不落の要塞として使われてきたが、フランス革命時には陥落した。
1979年にはユネスコの世界遺産に登録された。2006年8月5日現在、3人の修道士が在住し、9人の修道女が近隣の町から通って運営に当たっている。(Wikipediaより)


シャトルバスでモン・サン・ミッシェルの近くまで行くことができるが、ここから先は歩きになる。海の中の砂州なので風が強い。

観光客は楽しみながら モン・サン・ミッシェルまで歩いていく。この時のモン・サン・ミッシェルが最も迫力があり美しい。
海中なので風が強く寒い。防寒防風の対策は必須。

塩が満ちるとモン・サン・ミッシェルの周りは海となる。展望台には物見高い観光客でいっぱい。街中の修道院からの眺望といえば中世風の家並みが普通だが、辺り一面海という体験に誰もが驚く。
満潮と干潮の時間帯を調べておくと、より楽しめる。

中世風の街並みが続き、観光客がいっぱい行き来する。

潮が満ちてきた時のモン・サン・ミッシェルと陸地とバスの道路。


修道院下の狭い路地は店が立ち並び狭い通路は行き来する観光客で溢れている。

修道院の内部には、なぜか大きな月が浮かんでいる。


修道院内部の回廊。庭の中央に辺りを映す球体がある。

レストランで食べた卵料理。
卵白をしっかりと泡立てることで、口の中でとろけるような軽やかな食感が楽しめる。 昔、おなかをすかせた巡礼者のために、大きく膨らませて食べてもらっていたようだ。卵だけのシンプルの料理。
   

古い港を取り囲む建物群。この風景が古来画家たちを魅了したようだ。

レストランでの生ガキが最高においしかった。小さくさっぱりしていて、白ワインとの相性もよかった。
オンフルールHonfleur (Map)

ノルマンディー地方の港町。セーヌ川の河口に位置している。旧港の風景は印象派の絵画の題材ともなった。
古くからイギリスとの交易の重要な中継地点だった。100年戦争では、 フランス支配下時代、しばしば襲撃隊がイギリスの海岸より略奪を行うために港から出帆した。大航海時代には冒険家たちがこの港から出発した。


旧総督の館跡
セーヌ川と入り江の出入口にたつこの不思議な建物は異様な魅力を発散している。


サンカトリーヌ教会の鐘楼。教会の入口の対面にある。15世紀から16世紀にかけて造船職人により建造された。不思議な魅力がある。


サンカトリーヌ教会の裏からの外観

サンカトリーヌ教会の内部。
フランスで唯一の木造建築。地元の船大工たちが造ったため、天井は船底のような構造になっている。

   

ルーアン大聖堂Cathedrale Notre-Dame de Rouen (Map)

ルーアンのノートルダム大聖堂

クロード・モネは、1892年から1894年にかけて、夜明けや日没後など様々な時間帯に、様々な気象状況のもとで、大聖堂のファサードを描いており、その数は30点を超える。

第二次世界大戦中に爆撃に遭い、部分的に損傷を受けたが、1956年に修復工事が完了している。


モネの連作「ルーアン大聖堂」1892年
同じ対象物でも時間帯や季節や天候により変化する。モネはその光と色彩の変化を捉え表現しようとする。

モネはこの「ルーアン大聖堂」の何に引き付けられたのだろうか。睡蓮の池や積み藁の連作、草原に立つ女性のイメージなど、モネは絵画対象となるものへの異常な執着があるようだ。モネは、「毎日、まだ見ることができなかった何かを発見し、付け加えている。」といっている。

ルーアンのシンボル大時計
多くの観光客がこの時計台の周りに集まっていた。確かにこの時計台は優雅で美しい。


聖ジャンヌ・ダルク教会
ジャンヌ・ダルクが処刑されたルーアンのヴュー・マルシェ広場にある。

ジャンヌダルクが処刑されたとされる場所。聖ジャンヌ・ダルク教会のすぐ前にある。

 


フランス国家が各地に作った公立美術館のひとつで、1801年に開館。60の部屋に絵画、彫刻、デッサン、装飾美術品等多くの作品が展示されている。

ルーアン美術館Musee des Beaux-Arts de Rouen (Map)

(Musee des Beaux-Arts de Rouen)
フランス国内第2位の印象派コレクションを誇る。


美術館に向かう途中のビルの穴ぼこ。第二次世界大戦時の戦闘の跡が修復されずにそのまま記念として残されていた。


モネ「ルーアン大聖堂、アルバーヌの門と塔、曇天」 1893年
精巧なディテールとそびえ立つ存在感を持つ大聖堂のファサードは、落ち着いた青、灰色、紫のパレットで描かれ、光と影の移ろいゆく様を捉えている。

モネ『サン=ドニ街、1878年6月30日の祭日』1878年。油彩、キャンバス、76 × 52 cm。

アルフレッド・シスレー 「モレの教会(日光が当たる場所)」1893年 81×65cm


アルフレッド・シスレー 「 リノンダシオン ア ポール マルリー」1876年 60×80cm


カラヴァッジョ『柱につながれたキリスト』 (1606-1607年)
彼は明暗を強調した演劇的表現が得意だが、なんかワザとっぽい。

モネ「Snow at Sunset(夕焼けの雪)」1869年

 


「モネの家」

アトリエの様子。最初はアトリエだったが、後にサロンのようになった。壁にはびっしりと自分の作品や印象派の作品が掛けられていた。モネはアトリエだけでなく、印象派の画家の絵の部屋や浮世絵が多数飾ってある部屋などあり、それらの絵を見ながら自分の絵の発想の源にしていたようだ。
ジュベルニーの家には3つのアトリエが順に構えられた。上のアトリエは最初のアトリエ。

ジョベルニーの「モネの家」Maison et jardins de Claude Monet - Giverny (Map)

1966年、モネの妻カミューユとの子供ミシェル・モネはジュベルニーの家を芸術アカデミーに遺贈した。
1926年モネがなくなってから、家は魂を失ったような空き家になっていた。ジュベルニーへの関心が高まり、モネの家の修復作業も始まり、1980年にクロード・モネ財団が設立され、家と庭が一般公開されるようになった。

モネが造った小川の横の竹林。モネの日本の自然への愛がよくわかる。

モネはなかなか難しい性格の人物だったようだ。
モネは「もてなし術に長けたホストであり、またすばらしい客人だった。温かみに溢れ親しみやすい性格でありながら、時には悩みを抱えた人物だった。」
「モネは、家族が理想の暮らしをするための安息の地を作った単なる自然愛好家ではなく、長年にわたり芸術界からのけものにされ続け、後年になってはしめて評価を得ることができた苦悩の芸術家」であった。

モネの伝記を書いたマリアンヌ・アルファンは次のように記している。
モネは対照的な2つの顔をもっていた。ジヴェルニーの地に、温和な農夫としての平穏な生活の場をみつけていた60歳の男性の顔と、猜疑心や心の闇、怒りから何時までも逃れられず、苦悩を抱えた芸術家としての顔だった。
彼は実に、自らの世界の主人であり、自らが欲するものを揺るぎなく信じる強い信念をもった人物であった。
一方で、作品の前に立つと、迷いと疑いがモネを苦しめ、時には怒りのあまりカンバスをひっかいたり破いたりすねこともあった。こうした怒りとの爆発は、破壊と創造の両方の種となった。 (「ジヴェルニーのモネ」出版GOURCUFF GRADENIGOより)


モネの写真
晩年のモネは頑固そうな顔をしている。
モネは、パトロンだった人が破綻してから、その人の夫人と6人の子供たちを引き取り面倒を見ていた。最初頃はどん底の生活だったはずだが、モネはそういう義理堅さを持ち合わせていた。不思議な性格だったようだが、さすがアーチィスト。

フジの垂れる本橋。日本風の太鼓橋。人波が絶えることはない。

アトリエは、訪問者でいっぱい。順番に並んで移動しているので、ゆっくり見る余裕はない。

7月は睡蓮の時期を過ぎていたか、ひとつ残った睡蓮。
青空と雲、周りの草花と木々の変化、その中の睡蓮の花。

フジの垂れる本橋(太鼓橋)
四季の移ろい・天候の変化・時間帯・流れる雲、草花の開花、木々の様子、それらの変化の水面への反射、その光と色彩の変化が瞬間の小宇宙を創り、それがモネに創作へのインスピレーションを与える。

池と歩道橋。水面に映る空と雲、辺りの木々や草花、水面に浮かぶ睡蓮の葉と花。この幻想的な小宇宙がモネを魅了したようだ。

池に架かる橋は、藤のかかった橋と歩道橋の橋の2つがある。

モネは浮世絵を多数収集し、多くのインスピレーションを得ていたようだ。ゴッホをはじめ当時の印象派派の画家たちに、浮世絵は多くの着想を与えていた。


セザンヌ「曲がり角」1881年

セザンヌ「赤いベストを着た少年」1888年
セザンヌ「シャトーノワール」1904年
その他ルノアールなど印象派の絵が多数展示されていた。


モネが所有していた葛飾北斎の「五百らかん寺さざえ堂」とモネの「サン・タドレスのテラス」の類似はよく議論されてきた。(「ジヴェルニーのモネ」より)

安藤(歌川)広重、葛飾北斎、喜多川歌麿などの浮世絵も多数展示していた。
日本から来た客人は、日本の版画だらけなのを見て驚いていた。モネが「これはあなたにはたいした価値はないでしょう」といった」 といったら彼はこう答えた。「あなたがお考えよりも、ずっと価値があるものです。あなたの芸術は、日本の巨匠の作品から離れたものではないのです」。(「ジヴェルニーのモネ」より)
   
photo by miura 20125.07
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