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プロバンス、アルル |
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エクス・アン・プロヴァンスAix-en-Provence (Map)エクス・アン・プロヴァンスは、プロヴァンス伯爵領の首都として古くから繁栄し、現在は学術・芸術都市としてプロヴァンス地方の観光の拠点となっている。
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![]() ちょっとした広場にはレストランやカフェのテラス席が。 |
![]() 老人の趣味は何処の国でも似たようなもの。左の爺さんが旧車のバイクを磨いていた。私が戻ってきたら爺さんがさっそうとバイクにまたがって去っていった。 |
![]() セザンヌのアトリエがあったビル。特に公開されてはいないようだ。 |
![]() セザンヌのアトリエの表示。きわめて質素で好もしい。 エクス・アン・プロヴァンスはセザンヌの生地。彼の生家を起点としてルート上の市内の歩道に点在しているセザンヌ(Cezanne)のCの文字が施されたブロンズ製のタイルを順に追うことによって、15ヶ所のセザンヌゆかりの地を巡ることが出来る。 ![]() |
![]() 街のあっちこっちにセザンヌの案内がある。 |
![]() ラテン語のアクア(水)から転訛したエクスの名が示すとおり、街中の至る所に大小の噴水が湧き出している。 |
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![]() セザンヌのアトリエ 受付の建物 Webサイトや電話での予約が必要。 |
セザンヌのアトリエCezanne's studio (Map)
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![]() アトリエへのアプローチ、鳥かご?ディスプレイ? ![]() アトリエの概観。1・2階吹き抜けガラス張りのアトリエ。 |
![]() アトリエへの入口 セザンヌが生涯描き続けた、エクスの東約20kmに位置する標高1011mのサント=ヴィクトワール山は、このアトリエからは見えない。セザンヌはここから15分程度歩いたところにある小高い丘の上からサント=ヴィクトワール山を描いていたようだ。 |
![]() 木漏れ日のアトリエ |
![]() アトリエの入口 訪問客が多い場合は、順番待ちになる。入場に30分は待った。 |
![]() セザンヌが仕事をしていたアトリエ |
![]() セザンフのアトリエでの写真。背景に書きかけの絵「大水浴図」がある。 セザンヌは印象派の画家として名高いが、彼の絵の鑑賞は微妙。うまいといった画家ではないが新しい絵画表現を求めてキュビズム的な表現や多面的な観点からの表現など、いろいろ実験的な表現を試みている。 |
![]() 描きかけの「大水浴図」1905年、セザンヌの絵画のなかで最大の大きさといわれる。油彩、キャンバス、208x249cm。 ![]() 完成した 「大水浴図」、傾斜した木による三角形、人体配置のリズム。この絵がなぜ有名なのか? |
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![]() アトリエ内でのガイドさんのレクチャーの様子 部屋の右手に上下に広がった出入口がある。大きなキャンパスはここから出し入れする。 |
![]() セザンヌが描いた静物の実物?が多数展示されていた。 |
フィンセント・ファン・ゴッホのアルル地方 |
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ゴッホの「はね橋」Pont Van Gogh (Map)ゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている。 |
この橋を題材にして、他にも5枚の絵を書いている他、数枚の素描を残している。 |
モデルとなったラングロワ橋は、実際にはアルルの中心部から南西約3キロほどの運河に実際に架かっていたものだが、1930年にコンクリート橋にかけ替えられたため現存しない。跳ね橋は別の場所に再現され、「ファン・ゴッホ橋」と名付けられたが、運河の堤などの風景が異なるために、作品の雰囲気が再現されているわけではない。(Wikipediaより) この橋の後、「黄色い家」に行くのかと思ったら、駅の反対側になり、行っても特には何もないということで、行かなかった。ちょっと悲しい。
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エスパス・バン・ゴッホL'espace Van Gogh (Map) 「アルルの病院の庭」1889年が描かれた。耳切事件のすぐ後、ゴッホはこのアルル市立病院に入院した。 1889年5月8日、ファン・ゴッホは、サル牧師に伴われ、アルルから20 km余り北東にあるサン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール修道院療養所に入所した。(Wikipediaより)
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![]() 「カフェ・ヴァン・ゴッホ」は、手前の青い入口の家ではなく、その先の黄色い壁のお店なのだが。 ![]() 黄色い壁の「カフェ・ヴァン・ゴッホ」、2025年7月現在、休業中。 |
カフェ・ヴァン・ゴッホLe Cafe Van Gogh (Map)
このカフェでお茶をする予定だったが、残念ながら休業中。なんでもカフェのオーナーが脱税容疑で逮捕されたのだとか。
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![]() ゴッホの絵に出てきそうなオリーブの木が並んでいる。 |
サン・ポール・ド・モーゾール修道院病院へのアプローチで
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![]() 大人から子供まで屋外での絵画を楽しんでいる。 ![]() 「黄色い空と太陽のあるオリーブの林」1889年 ゴッホの描くオリーブの木は精神の反映かどうしても歪んでしまう。 この絵は太陽の光を受け、明るい黄色が基調。 |
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![]() 修道院病院の入口 ![]() 修道院病院 の中庭。病院も当時の雰囲気を残しているらしく、中庭の荒れ具合とよくマッチしている。 |
サン・ポール・ド・モーゾール修道院病院Centre culturel Saint-Paul de Mausole (Map)フィンセント・ファン・ゴッホVincent van Goghは、1889年5月から1890年5月までプロヴァンスにあるサン・ポール・ド・モーゾ‐修道院病院で精神科治療を受けた。 |
![]() 修道院病院 の中庭 |
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![]() ゴッホの部屋がどれかよくわからない。ゴッホが描いた病室の様子の絵が飾ってあった。。 |
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![]() 『星降る夜』もここで制作された。教会のような建物はこの地にはなく、ゴッホの故郷によるものらしい。この作品はゴッホの最優良作品のひとつ。 |
![]() 裏庭にあるラベンダ畑 ![]() 病室からの眺め。 |
![]() ゴッホの悲しさが伝わってくるような作品。 ![]() 弟テオに子供が出来た。そのお祝いにゴッホが描いた「花咲くアーモンドの木の枝」 1890年 |
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![]() 崖の上の中世風の美しい村 |
レ・ボー・ド・プロヴァンス
「ボー」はプロヴァンス語の baou (岩だらけの尾根、の意)に由来している。ボーの城はプロテスタントの牙城として利用されたため、1632年にはリシュリューによって破壊された。 |
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![]() 中世風の造りの間の坂道を登っていくと、上には城塞跡とラベンダーの畑がある。 |
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アヴィニョン歴史地区:教皇宮殿「法王庁宮殿」 アヴィニョン教皇宮殿 当時フランスとローマ教皇庁は対立しており、フランス王フィリップ4世は教皇クレメンス5世に教皇庁の移転を要請、クレメンス5世はアヴィニョンを座所とした。イタリアは神聖ローマ皇帝によって侵略されており、ローマに帰ることもできなかった。 教皇宮殿は1335年から1364年にかけて建築された。捕囚とはいっても、行政や司法、財政の機関が整備され、南仏の商業と共に繁栄した。また、芸術が保護され、文化の中心地にもなった。一方、教皇庁の腐敗が批判されることもあった。 1377年になると教皇庁はローマへ戻るが、その後の教会大分裂期には、対立教皇のクレメンス7世とベネディクト13世が1408年までこの宮殿を座所とした。 1433年、宮殿はローマ教皇庁の管理下にあったが、1516年に修復されるも荒廃した。
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世界中に知られた「アヴィニョンの橋の上で」という歌があるが、歩行者と騎馬通行者のために作られたものなので、橋の幅が非常に狭く、また前述のように老朽化も著しいので、歌にあるように橋の上でみんなで輪になって踊るのは不可能である。実際に歌ったり踊ったりしていた場所は橋の下の島であった。 |
サン・ベネゼ橋Pont Saint-Benezet: アヴィニョン橋(Le Pont d'Avignon (Map)アヴィニョン橋はサン・ベネゼ橋ともいう。1177年から1185年にかけて建設された石造アーチ橋で、ローヌ川対岸のヴィルヌーヴ=レ=サヴィニョンまで架かっており、長さ920m、幅4mの大きなものだった。当時は22のアーチがあったが、現在は4つのアー |
![]() ![]() ガルドン川はたびたび洪水をおこし、橋はそれに耐えた。 |
ローマ時代の巨大な水道橋「ポン・デュ・ガール」Pont du Gard (Map)ガール橋はフランス南部・ガール県のガルドン川に架かる水道橋。古代ローマ時代、西暦50年ごろ建設され、ローマ帝国の植民地であったユゼスからネマウス(現在のニーム)へ水を運ぶための水路の途中にある。古代ローマ時代の水道橋の中で最も高く、最も保存状態の良い橋のひとつ。その類まれな保存状態、歴史的重要性、建築上の独創性から、1985年にユネスコの世界遺産に登録された。 |
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![]() 橋げたには洪水に耐えられるような加工がされている。 |
photo by miura 20125.07 |