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プロバンス、アルル
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プロバンス、アルル



サン・ソヴール寺院Paroisse Cathedrale Saint Sauveur Aix-en-Provence
12世紀に建立。ロマネスク彫刻の傑作といわれる正面のファザード。中に入ってみたが特に記憶に残ることはなかった。

エクス・アン・プロヴァンス

Aix-en-Provence (Map)

エクス・アン・プロヴァンスは、プロヴァンス伯爵領の首都として古くから繁栄し、現在は学術・芸術都市としてプロヴァンス地方の観光の拠点となっている。
印象派のセザンヌが暮らした街として有名。


こんな中世的な雰囲気の塔も残っている。


ちょっとした広場にはレストランやカフェのテラス席が。

老人の趣味は何処の国でも似たようなもの。左の爺さんが旧車のバイクを磨いていた。私が戻ってきたら爺さんがさっそうとバイクにまたがって去っていった。

セザンヌのアトリエがあったビル。特に公開されてはいないようだ。

セザンヌのアトリエの表示。きわめて質素で好もしい。
エクス・アン・プロヴァンスはセザンヌの生地。彼の生家を起点としてルート上の市内の歩道に点在しているセザンヌ(Cezanne)のCの文字が施されたブロンズ製のタイルを順に追うことによって、15ヶ所のセザンヌゆかりの地を巡ることが出来る。


街のあっちこっちにセザンヌの案内がある。

ラテン語のアクア(水)から転訛したエクスの名が示すとおり、街中の至る所に大小の噴水が湧き出している。

ミラボー通りCr Mirabeau (Map)
大通りの左右にプラタナスの並木が続く美くしい通り。

ロトンド広場の噴水、噴水の中央には3美神が。

こんな苔でできた噴水もある。


セザンヌの像

セザンヌの絵がついた回転木馬。プロヴァンスはとにかくセザンヌ愛が強いようだ。

 


セザンヌのアトリエ 受付の建物
Webサイトや電話での予約が必要。  

セザンヌのアトリエCezanne's studio (Map)


セザンヌは、絵がうまいといわれる画家ではないが、ポスト印象派の先鞭をつけた人として評価が高い。


アトリエへのアプローチ、鳥かご?ディスプレイ?

アトリエの概観。1・2階吹き抜けガラス張りのアトリエ。

アトリエへの入口
セザンヌが生涯描き続けた、エクスの東約20kmに位置する標高1011mのサント=ヴィクトワール山は、このアトリエからは見えない。セザンヌはここから15分程度歩いたところにある小高い丘の上からサント=ヴィクトワール山を描いていたようだ。


木漏れ日のアトリエ

アトリエの入口
訪問客が多い場合は、順番待ちになる。入場に30分は待った。

セザンヌが仕事をしていたアトリエ

セザンフのアトリエでの写真。背景に書きかけの絵「大水浴図」がある。
セザンヌは印象派の画家として名高いが、彼の絵の鑑賞は微妙。うまいといった画家ではないが新しい絵画表現を求めてキュビズム的な表現や多面的な観点からの表現など、いろいろ実験的な表現を試みている。

描きかけの「大水浴図」1905年、セザンヌの絵画のなかで最大の大きさといわれる。油彩、キャンバス、208x249cm。

完成した 「大水浴図」、傾斜した木による三角形、人体配置のリズム。この絵がなぜ有名なのか?


サント=ヴィクトワール山は石灰岩質の山肌の為、日中は白く輝き、夕刻には紅に染まる。


「サント=ヴィクトワール山」1887年頃
セザンヌはサント=ヴィクトワール山を何枚描いたのだろうか。 44点の油画と43点の水彩画が描かれたといわれている。


アトリエ内でのガイドさんのレクチャーの様子
部屋の右手に上下に広がった出入口がある。大きなキャンパスはここから出し入れする。

セザンヌが描いた静物の実物?が多数展示されていた。

フィンセント・ファン・ゴッホのアルル地方


別の場所に再現され、「ファン・ゴッホ橋」1888年
ファン・ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備を始めていた。『ひまわり』を4作続けて制作し、カフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた『夜のカフェ』を3晩の徹夜で制作し、『黄色い家』を描き、『夜のカフェテラス』を描き上げた。
1888年10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった。 『赤い葡萄畑』『アルルの女』『種まく人』などを描いた。
2人の関係は緊張するようになり、1888年12月23日、ファン・ゴッホが自らの左耳を切り落とす事件が発生した。

 

ゴッホの「はね橋」Pont Van Gogh (Map)

ゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている。
1888年にフィンセント・ファン・ゴッホによって描かれた油彩画、オランダ本国や海外では「(アルルの)ラングロワ橋」と呼ばれる。

跳ね橋のかかる運河の雰囲気。当時とは川も場所も異なる。


「(アルルの)ラングロワ橋」(アルルの跳ね橋)1888年

この橋を題材にして、他にも5枚の絵を書いている他、数枚の素描を残している。

モデルとなったラングロワ橋は、実際にはアルルの中心部から南西約3キロほどの運河に実際に架かっていたものだが、1930年にコンクリート橋にかけ替えられたため現存しない。跳ね橋は別の場所に再現され、「ファン・ゴッホ橋」と名付けられたが、運河の堤などの風景が異なるために、作品の雰囲気が再現されているわけではない。(Wikipediaより)

この橋の後、「黄色い家」に行くのかと思ったら、駅の反対側になり、行っても特には何もないということで、行かなかった。ちょっと悲しい。
「黄色い家」は第二次世界大戦中の空襲により破壊され、現存していない。現在、その場所は建物のない土地となり、木が植えられ、黄色い家のあった場所を示すプラカードが立てられているのみ、ということだ。

 





エスパス・バン・ゴッホL'espace Van Gogh (Map)

「アルルの病院の庭」1889年が描かれた。耳切事件のすぐ後、ゴッホはこのアルル市立病院に入院した。
2月17日に仮退院したが、2月25日、住民30名から市長に、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める請願書が提出された。

1889年5月8日、ファン・ゴッホは、サル牧師に伴われ、アルルから20 km余り北東にあるサン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール修道院療養所に入所した。(Wikipediaより)
このアルル市立病院は、現在は図書館やお土産屋さんの入っている総合文化センターとなっているようだ。
この中庭は、当時の様子が再現され、「アルルの病院の庭」の絵の案内板やゴッホにちなんだお土産屋さんが店を開いている。


「カフェ・ヴァン・ゴッホ」は、手前の青い入口の家ではなく、その先の黄色い壁のお店なのだが。

黄色い壁の「カフェ・ヴァン・ゴッホ」、2025年7月現在、休業中。

カフェ・ヴァン・ゴッホLe Cafe Van Gogh (Map)


「夜のカフェテラス」1888年9月
ゴッホにしてはめずらしく普通の洗練された絵。星空の表現がゴッホらしい。

このカフェでお茶をする予定だったが、残念ながら休業中。なんでもカフェのオーナーが脱税容疑で逮捕されたのだとか。
「カフェ・ヴァン・ゴッホ」の前の広場にはカフェレストランのテラス席がびっしり並んでいて、人々はワインやお茶を楽しんでいた。ゴッホの絵画世界にしたりながら、「カフェ・ヴァン・ゴッホ」の経営者の噂話を楽しんでいたのではないか。

 


ゴッホの絵に出てきそうなオリーブの木が並んでいる。

サン・ポール・ド・モーゾール修道院病院へのアプローチで 


修道院病院に続く道の両脇にだいぶ年期のはいったオリーブ林が広がっている。かってのオリーブの木のイメージを維持しているのだろう。


大人から子供まで屋外での絵画を楽しんでいる。

「黄色い空と太陽のあるオリーブの林」1889年
ゴッホの描くオリーブの木は精神の反映かどうしても歪んでしまう。 この絵は太陽の光を受け、明るい黄色が基調。


オリーブ林のあっちこっちで、ゴッホに習ってか絵を描いている人たちがいた。

「アルピーユ山脈が見えるオリーブの林」1889年
歪んでいるのはオリーブの木だけではない。

 


修道院病院の入口

修道院病院 の中庭。病院も当時の雰囲気を残しているらしく、中庭の荒れ具合とよくマッチしている。

サン・ポール・ド・モーゾール修道院病院Centre culturel Saint-Paul de Mausole (Map)

フィンセント・ファン・ゴッホVincent van Goghは、1889年5月から1890年5月までプロヴァンスにあるサン・ポール・ド・モーゾ‐修道院病院で精神科治療を受けた。

病院の入口の大きな松の木の横にたたずむゴッホ。 病院の入口はゴッホが入院していた当時の雰囲気をよく残している。


修道院病院 の中庭



ファン・ゴッホは、『アイリス』、『刈り入れする人のいる麦畑』、『星降る夜』、『オリーブの林』、『ひまわり』、『黄色い家』、『アルルの寝室』などの数々の絵画など、施設内や周辺で約100点の絵画と150点の描画を制作した。
ゴッホの絵は、病院の内外で展示されている。当然レプリカ。

 


ゴッホの部屋がどれかよくわからない。ゴッホが描いた病室の様子の絵が飾ってあった。。


ゴッホが描いた病室。絵のベットは木製だが、ゴッホの病室として再現された部屋には鉄製のベットが置かれていた。部屋全体も殺風景だった。みう少し再現してくれるとありがたいのだが。


『星降る夜』もここで制作された。教会のような建物はこの地にはなく、ゴッホの故郷によるものらしい。この作品はゴッホの最優良作品のひとつ。

裏庭にあるラベンダ畑

病室からの眺め。

ゴッホの悲しさが伝わってくるような作品。

弟テオに子供が出来た。そのお祝いにゴッホが描いた「花咲くアーモンドの木の枝」 1890年


病院の入口の前にたたずむゴッホの銅像。ゴッホの寂れた表現がすごいが、確かにゴッホはこんな感じで歩いていたのだろう。

 


崖の上の中世風の美しい村

レ・ボー・ド・プロヴァンス
Les Baux-de-Provence (Map)

「ボー」はプロヴァンス語の baou (岩だらけの尾根、の意)に由来している。ボーの城はプロテスタントの牙城として利用されたため、1632年にはリシュリューによって破壊された。

中世風の造りの間の坂道を登っていくと、上には城塞跡とラベンダーの畑がある。
   


「法王庁宮殿」 アヴィニョン教皇宮殿


1906年以降、国立博物館として管理修復され続けている。1995年、アヴィニョン歴史地区としてユネスコ世界遺産に登録された。(Wikipediaより)

アヴィニョン歴史地区:教皇宮殿


「法王庁宮殿」 アヴィニョン教皇宮殿
(アヴィニョン歴史地区:教皇宮殿、大司教座の建造物群およびアヴィニョン橋)
教皇宮殿は、アヴィニョン捕囚(1309年〜1377年)の際に教皇が住んだ宮殿として有名。

当時フランスとローマ教皇庁は対立しており、フランス王フィリップ4世は教皇クレメンス5世に教皇庁の移転を要請、クレメンス5世はアヴィニョンを座所とした。イタリアは神聖ローマ皇帝によって侵略されており、ローマに帰ることもできなかった。

教皇宮殿は1335年から1364年にかけて建築された。捕囚とはいっても、行政や司法、財政の機関が整備され、南仏の商業と共に繁栄した。また、芸術が保護され、文化の中心地にもなった。一方、教皇庁の腐敗が批判されることもあった。

1377年になると教皇庁はローマへ戻るが、その後の教会大分裂期には、対立教皇のクレメンス7世とベネディクト13世が1408年までこの宮殿を座所とした。

1433年、宮殿はローマ教皇庁の管理下にあったが、1516年に修復されるも荒廃した。

フランス革命が1789年に勃発した際には荒廃した状態で、革命勢力によって強奪・破壊された。1791年に反革命派の虐殺現場となり、遺体は旧宮殿に投げ込まれた。
ナポレオン政権下では、兵舎や刑務所として使用された。フランス第三共和政などの軍事占拠で馬小屋等として利用された際には、フレスコ画など多くが破壊された。

 

   


途中で途切れているアヴィニョン橋

世界中に知られた「アヴィニョンの橋の上で」という歌があるが、歩行者と騎馬通行者のために作られたものなので、橋の幅が非常に狭く、また前述のように老朽化も著しいので、歌にあるように橋の上でみんなで輪になって踊るのは不可能である。実際に歌ったり踊ったりしていた場所は橋の下の島であった。

サン・ベネゼ橋Pont Saint-Benezet: アヴィニョン橋(Le Pont d'Avignon (Map)

アヴィニョン橋はサン・ベネゼ橋ともいう。1177年から1185年にかけて建設された石造アーチ橋で、ローヌ川対岸のヴィルヌーヴ=レ=サヴィニョンまで架かっており、長さ920m、幅4mの大きなものだった。当時は22のアーチがあったが、現在は4つのアー
チのみ残っている。
そんなアヴィニョン橋だが、1226年のルイ8世によるアルビジョア十字軍の攻撃により、4分の3が破壊されてしまった。人々は再建を試みたが、1603年のローヌ川の洪水でアーチが1つ崩壊し、続けて3つが壊れると、ペストの流行も追い打ちをかけ、橋の維持や修理が難しくなり、再建は放棄されることになった。

   


ガルドン川はたびたび洪水をおこし、橋はそれに耐えた。

ローマ時代の巨大な水道橋「ポン・デュ・ガール」Pont du Gard (Map)

ガール橋はフランス南部・ガール県のガルドン川に架かる水道橋。古代ローマ時代、西暦50年ごろ建設され、ローマ帝国の植民地であったユゼスからネマウス(現在のニーム)へ水を運ぶための水路の途中にある。古代ローマ時代の水道橋の中で最も高く、最も保存状態の良い橋のひとつ。その類まれな保存状態、歴史的重要性、建築上の独創性から、1985年にユネスコの世界遺産に登録された。

ポン・デュ・ガールは、全長52km(52,702m)を超える水道橋の記念碑的建造物であり、ユゼスの麓にあるフォンテーヌ・デュールから、当時最盛期を迎えていたローマ帝国の都市ネマウス(現在のニーム)へと水を運んでいた。この橋は紀元1世紀に建設されたものと推測され、ローマの天才的な科学力を象徴していた。
西ゴート族がニーム地方を支配し続けた2世紀の初めに、この水道は機能しなくなったと推定されている。 (Wikipediaより)



橋げたには洪水に耐えられるような加工がされている。
   
photo by miura 20125.07
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