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ニースからマルセイユへ



ニースの海岸(フレンチ・リヴィエラ)

ニースNiceへ  (Map)

羽田からパリ・シュルルドゴール空港まで約14時間30分。長い、疲れた。パリ・シュルルドゴールからコートダジュールへ、4時間のトランジェットを経て約1時間30分。ようやくコートダジュールの空港に到着し、ニースの海岸に立つことができた。
海岸に沿って気持ち良い椰子の並木のプロムド・デ・ザングレが続いている。
多くの画家がこの地中海に面し気候の良いコートダジュールの海岸沿いに移って多くの絵を残した。冬のパリから温暖な地中海沿岸へ、その気持ちはわかる。


サレヤ広場の朝市。この通りのスグ左手に海岸がある。
ここの朝市で、スイカとメロンのカップ入りを食べた。スイカは甘みが少ないがメロンはおいしかった。


絵も売っていたがアートではなく観光客用。観光用だから当然か。

マチスのアトリエのあったビル



サレヤ広場のはずれに、アンリ・マチィスがアトリエとして使っていたビルがある。アトリエの部屋が見られるのかと思ったら外観のみで素通り。

マチスの1917年から30年ごろは「ニース時代」といわれる。「トルコ椅子にもたれるオダリスク」は「ニース時代」を代表する作品の一つ。ニースの温暖で明るい気候は、マチスの心を開放的にしていった。高揚して大胆になっていくマチスの心が見えるようだ。
マチス「トルコ椅子にもたれるオダリスク」1921年


マチス「ニースのアトリエ」1929年
一県、何ということもないアトリエ風景だが、やはりマチスの構成力と色使いはだだ者ではない。

アンリ・マチス(1869年12月31日 - 1954年11月3日)。彼は「色彩の魔術師」といわれる。フォーヴィスム(野獣派)の主導者といわれるが、彼の絵は大胆な筆遣いではあるが、あまりフォーヴィスムっぽくない。
マチィスは、パリのアトリエの他、ニースにもいくつかのアトリエがあったようだ。マティスはこの地で1954年に亡くなった。ニースにはマチィス美術館があるが、残念ながら今回の行程には入っていなかった。

「ニース湾」1918年
2024年8月、東京国立近代美術館でモダンアート・コレクションがあった。マチス「トルコ椅子にもたれるオダリスク」、モジリアーニ「髪をほどいた横たわる裸婦」1917年(大阪中之島美術館蔵)がよかった。

 


シャガール美術館の入口の看板

シャガール美術館Musee National Marc Chagall (Map)


チケット売り場を通って、国立マルク・シャガール美術館への道へ。オリープの並木が美しい。シャガールの86歳の誕生日1973年7月に開館した。
シャガール(1887 - 1985年)ロシア(ベラルーシ) 、ユダヤ人。 主にフランスで活躍した。


作品の前に立つシャガール

1941年、第二次世界大戦の勃発を受け、ナチスの迫害を避けてアメリカへ亡命した。なお、同郷人で最初の妻ベラ・ローゼンフェルトは1944年にアメリカで病死した。

1947年にパリへ戻ったシャガールは、1950年から南フランスに永住することを決意し、フランス国籍を取得している。1952年、当時60歳代のシャガールはユダヤ人女性ヴァランティーヌ・ブロツキーと再婚した。

シャガールは1911年にパリに移り、画家モディリアニ、キスリングらと交流を深めた。最初の妻ベラへの愛や結婚をテーマとした作品を多く製作していることから別名「愛の画家」と呼ばれ、また華麗な色づかいから「色彩の魔術師」とも呼ばれる。

人生の後半を南仏で過ごした。夢のような農村風景を都会的なキュビスムのセンスの絵が多いが、 この美術館ではフランス国家に寄贈された17点の連作『聖書のメッセージ』を中心に展示している。(Wikipediaより)

(部分)
どれも結構厚塗りで、重ねた色使いもすばらしい。


『聖書のメッセージ』の一枚の絵

シャガールらしい構成とタッチで楽しめたが、聖書のエピソードがテーマであり、正直ややがっかり。私はロシアの素朴だが洗練された農村風景と最初の奥さんベラへの愛の絵が好きなのだが。


(部分)

 

崖の上の町エズEze Village (Map)

エズは、ニースとモナコの間にある小さな村。フランス地中海の標高427mに位置する高い崖を見下ろす場所にあり、鷲巣村といわれる。観光客が多い。コートダジュールの海岸には同じような場所がいくつかあるという。


王宮広場から見たモナコの全景

モナコMonaco (Map)

地中海に面した小さな国家。面積は皇居の2倍でバチカン市国に続いて2番目の小ささ。カジノやF1の世界選手権モナコグランプリで有名。

モナコ公国の王宮だが、外見はいたってシンプルで質素。


グラン・カジノ
モンテカルロ地区にある。中に入ったがカジノの雰囲気は引きになれない。
VWのワゴン車が入ろうとして、管理の人から場違いということで退去させられていた。この場所にふさわしくないということか。

カジノの前の広場。ランボルギーニやポルシェなどに乗った金持ちがカジノに遊びにきているのだという。
   

サン・ポール村の全景
ニースとアンチーブの間、ニースから20kmアンチーブから17 kmに位置し、村からは海と山が見える。
駐車場のバスを降りて坂道を歩いていると、古典的なスポーツカーを空ぶかしして、走り回っている馬鹿な若者がのかと思いきや、サングラスの馬鹿な老人であった。時々こういう人っているんだよな。救いようなし。

鷲の巣村サン・ポールSaint-Paul (Map)

古代ローマ時代からの防衛施設として築かれた。村全体が城壁で囲まれている。

中世風の街並み、レストランのディスプレイだろうか、裸の寝転んだ女性像がロープに絡んでいる。どうしてこういうアートを構想できるのだろうか。多くの芸術家たちがここを訪れていた名残だろうか。


街の中の水場、なんとなく面白いので。


シャガールの墓。シャガールはユダヤ人だったので、お墓の上にはお花ではなく小さな石が供えられてるということ。二番目の奥さんのヴァランティーヌ・ブロツキーも一緒に眠っている。
マチスやピカソたちもこの村を訪れていたようだ。

 


ルノワールの家の入り口

ルノワールの家(ルノワール美術館)Musee Renoir (Map)

ニースの隣町、カーニュ・シュル・メールにある。ルノワールは1907年、66歳の時にこの地に居を構えた。オリーブの並木がアプローチ。ルノワールはリューマチ性疾患に悩まされ、温暖な気候を求めてコートダジュールのこのカーニュに移住してきた。
ルノワールはここで息を引き取るまで妻アリーヌと3人の息子といっしょに住んでいた。アリーヌは賢明な女性だったようで、車椅子のルノアールの絵画制作を親身になって助けたという。


ルノアールの家 庭から見たもの。女性のブロンズ像が目に付く。

ルノアールの家と庭園。庭園の中になぜか女性の像が立っている。ルノアールのお手伝いさんをしていた夫人のブロンズの像。
ルノアールはブロンズ像の制作をめぐって、製作者ともめていたらしい。

ルノアールの家に続く坂道
ルノワールが描いた当時のままの農家の建物


アトリエの様子
室内用のキャンバスと屋外用のキャンバスがある。ルノワールのアトリエは、母屋に2つ、家の外に1つあったが、外のものは戦争中に破壊された。 母屋はプロヴァンスのブルジョワ風の建物。住み込みの料理人2人の部屋、友人が泊まれる部屋もあって、大邸宅である。ここに絵画、彫刻、陶芸作品が展示されている。


庭園内に残るルノワールが描いた農家の家
農家は今は美術館の事務所になっているらしい。


「大水浴」1887年頃
ルノアールは多くの裸婦像を描いた。豊満で丸みを帯びた女性像が多い。
ルノアールの家のビーナス。お手伝いさんがモデルだとか。

庭園の向こうに海が見える。

庭園内の草花やオリーブの木立が南仏の香りを漂わせている。
   

マルセイユの旧港より

マルセイユMarseille (Map)

地中海リオン湾を臨むフランス最大の港湾都市。マルセイユ都市共同体の中心であり、近郊地域を併せた人口は約176万人。都市圏人口はパリに次ぎ第二位の規模となる。近郊には古都エクス=アン=プロヴァンスがある。
国歌『ラ・マルセイエーズ』 (マルセイユの歌)は、元はフランス革命の際の革命歌で、マルセイユの連盟兵(義勇兵)が隊歌として歌って広めたことによるということ。(Wikiより)


明るい海の光がまばゆい。

こんな観光バスで市内を回った。

ノートルダム・ド・ラ・ギャルド寺院の見晴らし台から。

ノートルダム・ド・ラ・ギャルド寺院
マルセイユの丘の上にそびえたつシンボル的存在。頂上に立つ黄金の聖母子像が有名で、航海に出る船乗りたちを見守り続けてきたこともあり、地元の人々から「ボンヌ・メール(優しき聖母様)」と呼ばれ親しまれている。
   
photo by miura 20125.07
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