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ノイシュバンシュタイン城

4.ニュルンベルク・レーゲンスブルク・ノイシュバンシュタイン城


ライン・マイン・ドナウ運河

 マイン川の関を抜け、田園の中へ。マイン川ではブドウ畑はほとんど見かけず、美しい菜の花畑が続いていた。

 ライン河はスイスアルプスのトーマ湖に端を発し、ボーデン湖に入りドイツ・フランスの国境を北に向かう。ストラスブールを越えてカールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボン、ケルン、デュッセルドルフ、デュースブルクなどを通過しオランダ国内へと入る。そのあと2分岐し、ワール川とレク川となりロッテルダム付近で北海に注いでいる。なかなか複雑に国をまたいで流れている。


マイン川の両岸に広がる農耕地、こんな風景の中を船でのんびり通り過ぎるのもいいものだ。

 ドナウ川は、ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がる。
 面白いことに、北海にか流れ込むライン川と黒海に流れ込むドナウ川を、マイン川を経由し分水嶺を越えて行き来できるというのだ。どうしてそういうことができるのだろうか。
 マイン川はドイツ南部を東から西に向かって流れる川で、上流の支流のレグニッツ川を経てマイン-ドナウ運河がある。
  構想は8世紀頃からあったが、本格的な工事に着手したのは1921年のこと。戦争による中断などがあり、1960年から両河川間の運河本体の開削工事が開始された。完成は1992年のことである。標高差175mを11の関を経て通過する運河である。
 分水嶺や中央の池や下流への関など、この運河の船での通化を期待していたのだが、トラブルがありバスに乗ってニュルンベルグ、ミュンヘンまで来てしまった。残念。

 


 30年戦争の時代、ニュルンベルク周辺の地域は長年続いた陣地戦の戦場となった。ニュルンベルク自体が征服されることはなかったものの、周辺地域の荒廃により交易が廃れ、経済的に次第に衰弱していった。  戦後は1649年にニュルンベルクで「平和の宴」が催され、敵対していた両陣営がともに何日も祝宴を行った。
 1920年代にはすでにニュルンベルクで国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)の党大会が開催された。ただしニュルンベルク自体は選挙でナチス党を勝たせなかった。この都市では自由主義のDDPが有力な政党であった。同時に、工業都市として、バイエルンの社会民主主義の中心地でもあった。

 戦争勝利の後にナチス党大会が開催される筈だったコングレスハレ(未完成)。下の写真。

ニュルンベルク

 人口50万人を超えるバイエルン州第2の都市(ドイツ全体では14番目)である。ドイツで初めての鉄道7Kmが敷かれた。現在は地下鉄3本のラインが走っている。
 ナチス政権が最初の大会を開催した都市であり、それゆえナチス政権要人を裁く「ニュルンベルク裁判」が行われたことでも知られる。リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の舞台としても知られる。ニュルンベルクは、現在も旧市街は中世の城壁で囲まれている。

 ニュルンベルクは森林が多く、職人・芸術家も多く住んでいる。アスパラガス産地としても有名。

 ナチス党政権下時代、ナチス党大会が1933年から1938年にかけてニュルンベルクで行われた。この街はナチスにとって「帝国党大会の街」としてプロパガンダの上で重要な都市であった。1935年の党大会においてユダヤ人から市民権を剥奪する法(「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」)が定められ、一般的にはニュルンベルク法と呼ばれている。ナチスはこの法律により反ユダヤ主義思想の法的根拠を得たのである。このようにニュルンベルクは、ナチス党政権下のドイツを象徴する都市となった。
 第二次世界大戦中、ニュルンベルクは連合国軍による空爆の優先目標であった。イギリス空軍とアメリカ空軍の航空機による爆撃で1945年1月2日にニュルンベルク旧市街は破壊され、全市域が甚大な被害を負った。同年4月の4日間に渡る地上決戦で、さらにいくつかの歴史的建造物が破壊された。
 第二次世界大戦後、1945年から戦勝国はナチス独裁政権下の指導的戦争犯罪人に対する裁判、いわゆる「ニュルンベルク裁判」を実施した。 (Wikipediaより)

ニュルンベルク城(カイザーブルク)

城がいつごろ造られたかは不明だが、 11世紀頃に市街地の形成と同時期とみられる。

 17世紀の三十年戦争では幾度と戦場となったが、陥落することはなかった。
 第二次世界大戦の空襲によって城をはじめニュルンベルク市は壊滅的な打撃を受けたが、戦後に復元された。城の再興と同時に周りの街並みも中世風に整備された。




左の写真の塔の右下にあるうさぎの像。なぜか気持ち悪い。

 名物のソーセージとザワークラウト(ドイツのキャベツの酢漬け)。ビールとよく合う。町中のテラス席でのこのいっぱいは最高。

ドナウ川に架かる石橋と正面のピンクの建物は帝国議会博物館。

レーゲンスブルク

 ドナウ川とレーゲン川の合流点に位置する交通の要衝として、特に中世には一大交易地として栄えた。ニュルンベルクからバスで1時間30分。下の写真はドナウ川と観光船。


14世紀頃からの古い石畳が残る路地。

 旧約聖書にある3mの巨人ゴリアテとダビデ少年の戦いの絵。ダビデが石投げ器を使ってゴリアテを打ち負かすことになっている。建物は「ゴリアテハウス」と言われる。16世紀頃に描かれ、今まで何度も書き直されている。なんとなく面白い。
 

ドナウ川に面したところにあるハンバーガー屋。とにかく混んでいて座る場所もない。ソーセージ3本を入れた焦げたハンバーガーがうまい。


 ハンバーガーを買ってお釣りをもらうところ。群がる観光客をさばきながらお母さんたちが忙しそうに働いていた。みなさん元気も愛想もよく気持ちよかった。

 


レーゲンスブルク大聖堂(聖ペーター大聖堂)

 ユネスコの世界遺産に登録されているドイツ連邦共和国の都市。バイエルン州に位置する。人口は約12万人。
1世紀頃には、ローマ帝国軍の駐屯地だった。
  6世紀頃、バイエルン族が居住するようになり、バイエルン大公の居城がおかれた。その後、8世紀後半にタシロ3世がカール大帝に屈服し、フランク王国の統治下に入った。その後も政治・経済の中心として重要な役割を果たしており、大司教座聖堂などを通じてその繁栄をうかがうことができる。13世紀半ばに「帝国自由都市」としての特権を認められていた。


 BMWの本社はミャンヘンにある。高級車BMWと大衆車ワーゲンが多い。たまにBMWの新型車・旧車のバイクを見かける。誰かが、フランス人はファッションと食事にお金を使い、ドイツ人は車にお金を使う、といっていた。なるほど。ドイツ人は機械と車が好きだというのは定評があるようだ。


バイエルン国立歌劇場

ミュンヘン

 ミュンヘンはベルリン、ハンブルクに次いで3番目に大きな都市。人口は140万人。1972年にはミュンヘンオリンピックが開催された。

 左の写真はバイエルン国立歌劇場。その前の広場に観光バスがとまり、観光客が吐き出される。この広場がミュンヘンへの入口のようなもの。ここからマリエン広場へは歩いて数分のところ。


マリエン広場の新市庁舎

 ミュンヘンの主要な観光スポットへのアクセスが非常によいマリエン広場。写真の新市庁舎ではドイツ最大の仕掛け時計がある。それをみようとして時間を待っていたが、今日はキリスト教のお祭りがあるため中止ということ。何の祭り・儀式なのか不明だが、洗礼に関わる何かのようだった。


山の下に見える白い建物がノイシュヴァンシュタイン城

南ドイツ、アルプスに近い牧場で。

ノイシュヴァンシュタイン城

 ミュンヘンからバスでフュッセンへ。ドイツ・アルプスが目の前になったらそこがフュッセン。そこで1泊し翌日ノイシュヴァンシュタイン城へというのが一般的な観光コース。
 ノイシュヴァンシュタインはドイツ語で「新しい白鳥の石」という意味になるということ。英語では、New swan stoneとなる。
 バイエルン王ルートヴィヒ2世によって19世紀に建築された。オーストリア国境に近いフュッセンの東南東方向(直線距離にて約4km)に位置し、近隣には、ルートヴィヒ2世が幼少時代を過ごし、彼の父親が所有していたホーエンシュヴァンガウ城がある。(この城はノイシュヴァンシュタイン城のすぐ麓にある)
  ホーエンシュヴァンガウとは「高い白鳥の郷」となるらしい。中世の英雄、白鳥の騎士ローエングリーンにちなんだ名前ということ。この城は父の城で、ルートヴィヒ2世は幼少期をここで過ごした。

 ノイシュヴァンシュタイン城は一見すると伝統的な建築方式で造られているように見えるが、石造りではなく鉄骨組みのコンクリート及びモルタル製で、装飾過多であり、耐候性や耐久性も低かった。
  この城は軍事拠点としての「要塞」としてではなく、また政治や外交の拠点としての「宮殿」として建設されたものでもなく、後述のようにルートヴィヒ2世のロマンティック趣味のためだけに建設されたもの。
  ドイツの城館に本来は必ずあるべき小聖堂や墓地がこの城にはなく、玉座を後回しにしてもヴィーナスの洞窟と名付けられた人工の洞窟が建設されるなど、実際の住居としての居住性はほとんど考慮されておらず、施設としての実用性は無視された設計になっており、居住にも政務にも(もちろん軍事施設としても)不向きな城である。(Wikipediaより)


ペラート峡谷にかかるマリエン橋から見たノイシュヴァンシュタイン城。なんともかっこいい。デズニーランドのお城のモデルだといわれている。

 だが、このような実用的でない城ではあるが、世界から観光客を集めるという観光施設としての効果は絶大である。現在はロマンチック街道の終点として、人気の観光スポットとなっており、内部を見学することができる。

  この城をつくったルートヴィヒ2世は中世騎士道への憧れを強く抱いた人物で、ワーグナーを庇護し、彼の創作する楽劇の世界に酔いしれた、いわゆる“ワグネリアン”であった。彼は、ロマン主義音楽の巨匠ワーグナーの「ローエングリーン」を宮廷劇場で観て激しく感動し、異常なまでのワーグナーファンになったといわれる。彼は、膨大な額の金を与え、ミュンヘン市内に豪華な邸宅を用意し、別荘も送った。ワーグナーは、作曲家としての名声もあり腕も確かだったが、贅沢好みで借金を重ね、借金取りに追い立てられ、リストの娘で弟子の妻だったコジマと関係を持ち、その醜聞はミュンヘン中に知れ渡っていた。
  ルートヴィヒ2世はその彼に莫大な援助を施し、彼の楽劇を「私たちの作品」と呼んだ。だが、ワーグナーはたとえ有力なパトロンであり国王であったとしても、作品に干渉することを許さなかった。


ペラート峡谷にかかるマリエン橋から見たノイシュヴァンシュタイン城。

 ヴァルトブルク城やヴェルサイユ宮殿を目にしたルートヴィヒ2世は、「私自身の作品」として自分の中世への憧れを具現化するロマンティックな城を造ろうと決意する。このため城全体のグランドデザインを行うよう指名されたのは建築家でも技術者でもなく、宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していた画家のクリスチャン・ヤンクであった。   建設作業は1869年9月5日に開始され、1886年には、施設内に人間が居住できる程度には完成した。これ以後、ルートヴィヒ2世は首都ミュンヘンに戻らず、この城に住まうようになる。


 ペラート峡谷にかかるマリエン橋から見るのが最も美しいとされている。

 ルートヴィヒ2世はこの城の他にも、リンダーホーフ城、ヘレンキームゼー城の建設を始め、さらにはノイシュヴァンシュタインよりも高い岩山の上にさらに壮大なファルケンシュタイン城を建設する計画をたてており、その上オリエント風の宮殿も建設したいと考えていた。これらの建設費用はプロイセン王国によるドイツ統一を支持した見返りとしてビスマルクから送られた資金などを中心に、ほぼ王室費から支出され、バイエルン政府の国庫とは別会計ではあったものの、王室公債などを乱発して借金を積み重ねた。
  プロイセンに対し普墺戦争の損害賠償を未だ抱えていたバイエルン政府はこれに危機感を募らせ、最終的に首相ルッツらは、ルートヴィヒ2世を形ばかりの精神病鑑定にかけ、統治不能としてベルク城に軟禁した。その翌日、王は主治医とシュタルンベルク湖畔を散歩中に謎の死を遂げた。王がノイシュヴァンシュタイン城に居住した期間は、わずかに102日間であった。(Wikipediaより)


ノイシュヴァンシュタイン城。外見は堅固そうにみえるのだが。

 ルートヴィヒ2世が亡くなった1886年6月13日の時点で、ノイシュヴァンシュタイン城は王の構想の一部を実現したに過ぎず、未完成部分を多く残していたが、建設工事はこの時点で中止された。元来実用性の乏しい施設であったが、公的な施設として用いられることはなく、その直後から城と内部は観光施設として一般公開された。

 

 


ノイシュヴァンシュタイン城のテラスからアルプスの方を見た風景。黄色の城が幼少期に過ごしたホーエンシュヴァンガウ城。
 

 ルートヴィヒ2世には不可解な婚約解消事件があるようだ。彼は外見はいわゆる苦み走ったいい男だった。彼は21歳、王族の17歳の娘婚約した。誰もがうらやむ美男美女の組み合わせだった。だが彼は式直前で婚約を解消してしまった。ルートヴィヒ2世は同性愛者だった。彼は密かに侍従や青年士官らを寵愛していた。それを彼は苦しんでいた。死後に発見された日記により明らかになっている。(「ドイツものしり紀行」紅山雪夫著より)

 ルートヴィヒ2世が新白鳥城の建設に夢中になっていたころ、23の君主国に分裂していたドイツを再統一しようという動きがプロイセンの宰相ビスマルクにより進められてした。王家の格ではバイエルンがプロイセンより上だが、軍事力ではプロイセンだった。ルートヴィヒ2世は統一ドイツの皇帝になりたかったが、ビスマルクに一蹴されてしまった。ビスマルクは、新白鳥城の建設資金に苦しんでいたルートヴィヒ2世に資金提供したのだともいわれている。

 


ノイシュヴァンシュタイン城のテラスからみたホーエンシュヴァンガウ城

ホーエンシュヴァンガウ城

 1832年、マクシミリアン2世は12世紀に建設されたが廃墟になっていたシュヴァンシュタイン城を購入し、4年ほどの歳月を費やして古城を改築した。これがホーエンシュヴァンガウ城。ルートヴィヒ2世は幼年時代をホーエンシュヴァンガウ城で過ごした。

 シュヴァンガウという地名は直訳すると「白鳥の里」の意味。リヒャルト・ワーグナーのオペラ『ローエングリン』で有名な白鳥伝説ゆかりの地である。ルートヴィヒ2世は後に、このホーエンシュヴァンガウ城の近くの岩山にノイシュヴァンシュタイン城を建築した。


城に通じた道から見上げるノイシュヴァンシュタイン城


 ノイシュヴァンシュタイン城へは、歩いて登る他、馬車が数台昇り降りしていて馬車に乗る人も多い。シャトルバスで城の裏山まで登り、ペラート峡谷にかかるマリエン橋からの眺めを楽しみ、ゆっくり歩いて場内を見物する。これが一般的なコースらしい。

 

 ノイシュヴァンシュタイン城の麓には、こんなきれいな牧草地が広がっている。

 

 草原にたたずむ教会。メルヘンチックな教会で、観光用なのかもしれない。結婚式の新郎新婦の二人とカメラマンの一人が教会をバックに盛んに写真を撮っていた。

 

 フュッセンの近くにヴィース教会がある。ヴィース教会は「草原の教会」という意味。この教会は涙を流すキリスト像の伝説がある。18世紀ドイツ・ロココ建築の最高傑作といわれている。

 ロココは、18世紀初めのフランスに始まり、ドイツ、ロシアなどヨーロッパの宮廷で採用された。イタリアの貝殻装飾に由来すると考えられているが、植物の葉のような自由な曲線を複雑・優美に配したもの。ロカイユ(ロココ)装飾が天井周りに多く使われ、壁と天井の境界が明確でなくなるのがロココの特徴。(Wikipediaより)

 

 
   
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