4.ニュルンベルク・レーゲンスブルク・ノイシュバンシュタイン城 |
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ライン・マイン・ドナウ運河マイン川の関を抜け、田園の中へ。マイン川ではブドウ畑はほとんど見かけず、美しい菜の花畑が続いていた。 ライン河はスイスアルプスのトーマ湖に端を発し、ボーデン湖に入りドイツ・フランスの国境を北に向かう。ストラスブールを越えてカールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボン、ケルン、デュッセルドルフ、デュースブルクなどを通過しオランダ国内へと入る。そのあと2分岐し、ワール川とレク川となりロッテルダム付近で北海に注いでいる。なかなか複雑に国をまたいで流れている。 |
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ライン・マイン・ドナウ運河の実際が知りたくてGoogle Mapを開くが、地形が複雑で河川もはっきりしないので、Wikipediaの次のサイトを参照されたい。
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ドナウ川は、ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がる。
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ニュルンベルク 人口50万人を超えるバイエルン州第2の都市(ドイツ全体では14番目)である。ドイツで初めての鉄道7Kmが敷かれた。現在は地下鉄3本のラインが走っている。 ナチス党政権下時代、ナチス党大会が1933年から1938年にかけてニュルンベルクで行われた。この街はナチスにとって「帝国党大会の街」としてプロパガンダの上で重要な都市であった。1935年の党大会においてユダヤ人から市民権を剥奪する法(「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」)が定められ、一般的にはニュルンベルク法と呼ばれている。ナチスはこの法律により反ユダヤ主義思想の法的根拠を得たのである。このようにニュルンベルクは、ナチス党政権下のドイツを象徴する都市となった。 |
ニュルンベルク城(カイザーブルク)城がいつごろ造られたかは不明だが、 11世紀頃に市街地の形成と同時期とみられる。 |
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ニュルンベルク城(カイザーブルク) Kaiserburg NurnbergのMap
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左の写真の塔の右下にあるうさぎの像。なぜか気持ち悪い。 |
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ドナウ川に架かる石橋と正面のピンクの建物は帝国議会博物館。 |
レーゲンスブルクドナウ川とレーゲン川の合流点に位置する交通の要衝として、特に中世には一大交易地として栄えた。ニュルンベルクからバスで1時間30分。下の写真はドナウ川と観光船。 |
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ドナウ川に面したところにあるハンバーガー屋さん。人気店らしく、とにかく混んでいて座る場所もない。ソーセージ3本を入れた焦げたハンバーガーがうまかった。
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ドナウ河畔近くに聳え立つ、高さ105mの立派な2つの尖塔を持つ大聖堂。1273年に着工し、1634年に完成した。 |
ユネスコの世界遺産に登録されているドイツ連邦共和国の都市。バイエルン州に位置する。人口は約12万人。
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バイエルン国立歌劇場 |
ミュンヘンミュンヘンはベルリン、ハンブルクに次いで3番目に大きな都市。人口は140万人。1972年にはミュンヘンオリンピックが開催された。 左の写真はバイエルン国立歌劇場。その前の広場に観光バスがとまり、観光客が吐き出される。この広場がミュンヘンへの入口のようなもの。ここからマリエン広場へは歩いて数分のところ。 |
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ミュンヘンの主要な観光スポットへのアクセスが非常によいマリエン広場。写真の新市庁舎ではドイツ最大の仕掛け時計がある。それをみようとして時間を待っていたが、今日はキリスト教のお祭りがあるため中止ということ。何の祭り・儀式なのか不明だが、洗礼に関わる何かのようだった。
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ノイシュヴァンシュタイン城 Schloss NeuschwansteinのMap
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ノイシュヴァンシュタイン城 ミュンヘンからバスでフュッセンへ。ドイツ・アルプスが目の前になったらそこがフュッセン。そこで1泊し翌日ノイシュヴァンシュタイン城へというのが一般的な観光コース。 |
趣味の城を造るために税金を無駄遣いして国や国民を苦しめたが、いまでは立派な観光資源となって地域経済に貢献している。万事塞翁が馬か。 |
だが、このような実用的でない城ではあるが、世界から観光客を集めるという観光施設としての効果は絶大である。現在はロマンチック街道の終点として、人気の観光スポットとなっており、内部を見学することができる。 |
ペラート峡谷にかかるマリエン橋から見たノイシュヴァンシュタイン城。 |
ヴァルトブルク城やヴェルサイユ宮殿を目にしたルートヴィヒ2世は、「私自身の作品」として自分の中世への憧れを具現化するロマンティックな城を造ろうと決意する。このため城全体のグランドデザインを行うよう指名されたのは建築家でも技術者でもなく、宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していた画家のクリスチャン・ヤンクであった。
建設作業は1869年9月5日に開始され、1886年には、施設内に人間が居住できる程度には完成した。これ以後、ルートヴィヒ2世は首都ミュンヘンに戻らず、この城に住まうようになる。 |
ペラート峡谷にかかるマリエン橋から見るのが最も美しいとされている。 |
ルートヴィヒ2世はこの城の他にも、リンダーホーフ城、ヘレンキームゼー城の建設を始め、さらにはノイシュヴァンシュタインよりも高い岩山の上にさらに壮大なファルケンシュタイン城を建設する計画をたてており、その上オリエント風の宮殿も建設したいと考えていた。これらの建設費用はプロイセン王国によるドイツ統一を支持した見返りとしてビスマルクから送られた資金などを中心に、ほぼ王室費から支出され、バイエルン政府の国庫とは別会計ではあったものの、王室公債などを乱発して借金を積み重ねた。 |
ノイシュヴァンシュタイン城。外見は堅固そうにみえるのだが。 |
ルートヴィヒ2世が亡くなった1886年6月13日の時点で、ノイシュヴァンシュタイン城は王の構想の一部を実現したに過ぎず、未完成部分を多く残していたが、建設工事はこの時点で中止された。元来実用性の乏しい施設であったが、公的な施設として用いられることはなく、その直後から城と内部は観光施設として一般公開された。
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ルートヴィヒ2世には不可解な婚約解消事件があるようだ。彼は外見はいわゆる苦み走ったいい男だった。彼は21歳、王族の17歳の娘婚約した。誰もがうらやむ美男美女の組み合わせだった。だが彼は式直前で婚約を解消してしまった。ルートヴィヒ2世は同性愛者だった。彼は密かに侍従や青年士官らを寵愛していた。それを彼は苦しんでいた。死後に発見された日記により明らかになっている。(「ドイツものしり紀行」紅山雪夫著より) ルートヴィヒ2世が新白鳥城の建設に夢中になっていたころ、23の君主国に分裂していたドイツを再統一しようという動きがプロイセンの宰相ビスマルクにより進められてした。王家の格ではバイエルンがプロイセンより上だが、軍事力ではプロイセンだった。ルートヴィヒ2世は統一ドイツの皇帝になりたかったが、ビスマルクに一蹴されてしまった。ビスマルクは、新白鳥城の建設資金に苦しんでいたルートヴィヒ2世に資金提供したのだともいわれている。
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ノイシュヴァンシュタイン城のテラスからみたホーエンシュヴァンガウ城 |
ホーエンシュヴァンガウ城 1832年、マクシミリアン2世は12世紀に建設されたが廃墟になっていたシュヴァンシュタイン城を購入し、4年ほどの歳月を費やして古城を改築した。これがホーエンシュヴァンガウ城。ルートヴィヒ2世は幼年時代をホーエンシュヴァンガウ城で過ごした。 シュヴァンガウという地名は直訳すると「白鳥の里」の意味。リヒャルト・ワーグナーのオペラ『ローエングリン』で有名な白鳥伝説ゆかりの地である。ルートヴィヒ2世は後に、このホーエンシュヴァンガウ城の近くの岩山にノイシュヴァンシュタイン城を建築した。 |
城に通じた道から見上げるノイシュヴァンシュタイン城 |
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ノイシュヴァンシュタイン城の麓には、こんなきれいな緑の牧草地が広がっている。
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草原にたたずむ教会。メルヘンチックな教会で、観光用なのかもしれない。結婚式の新郎新婦の二人とカメラマンの一人が教会をバックに盛んに写真を撮っていた。
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ロココ美術のヴィース教会 フュッセンの近くにヴィース教会がある。1983年、ユネスコの世界遺産に登録された。 |
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ロココは、18世紀初めのフランスに始まり、ドイツ、ロシアなどヨーロッパの宮廷で採用された。イタリアの貝殻装飾に由来すると考えられているが、植物の葉のような自由な曲線を複雑・優美に配したもの。ロカイユ(ロココ)装飾が天井周りに多く使われ、壁と天井の境界が明確でなくなるのがロココの特徴。(Wikipediaより)
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ロココ美術の見本のような教会の内部。
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photo by miura 2017.5 |