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ハイデルベルク
古城渓谷クルーズ
ローデンブルク

2.古城渓谷クルーズ



ライン川の夕暮れ


朝もやの中、ボッパルトの美しい街並みが見えてきた。

ボッパルト

 夕方にボッパルトに着く。ライン河から見る夕焼けが美しかった。翌日はここからライン河を遡って古城渓谷クルーズとなる。

 ライン渓谷中流上部は、ライン川の65キロメートルの渓谷のことで、2002年に地理学的、歴史的、文化的、産業の分野の複合的で独特な景観として、ユネスコの世界遺産に登録されている。
 先史時代より、ライン川は、中央における交易の重要な通路であり、ライン川の堤防に連なる形で、小さな集落が形成されてきた。
 時代が進むにつれ、多くの城塞が建設されるようになり、神聖ローマ帝国時代は、この地域は、帝国の中枢となった。三十年戦争中に、多くの城塞が廃墟になったものの、渓谷に沿ってのクルージングが現在では盛んな地域である。今もなお、古城、古い町並みを残す都市群、聖堂、修道院といった中世以来の景観が残されている。
 この地域は、フランスとの国境だった時代もあり、19世紀にはプロイセン王国(後のドイツ帝国)の領域となった。
(Wikipediaより)

 翌朝、霧が濃かった。日が出てくると徐々に霧が晴れ、小さな美しい町や村が見えてきた。

 


山の上の白い塔の城、シュテンベルク

シュテレンベルク城

 朝の霞に煙る山上の白い塔の城。ボッパルトからライン河を遡上すると最初に見えてくる城である。
 兄弟で殴り合い殺しあったという「敵対する兄弟の城」伝説が残る。現在はカフェ&レストランとホテルとして利用されている。
 ライン川は、古代ローマ軍がアルプスを越えてガリアの地に侵攻したきたときの防衛線だった。古代から、砦や城がたくさん造られては壊されてきたのだろう。そんな歴史が味わえたらと期待していたのだが。

 以下、城の照会は主に、つぎのサイトを参照させてもらいました。
https://worldheritagesite.xyz/ 


ライン河から見上げた白いシュテレンベルク城とリーベンシュタイン城。観光船といっしょに大きなコンテナを積んだ貨物船も行き来している。

白いシュテレンベルク城とリーベンシュタイン城

 兄弟で殴り合い殺しあったという「敵対する兄弟の城」伝説が残る2つの城が向かい合っている。


現在は、鷲や鷹の飼育場となっているそうだ。

ネズミ城(トゥルンベルク城)

 1353から1388年に建てられた城。城内には最新の防衛設備を備えていたが、1806年にナポレオン軍に爆破され廃墟化したといわれている。ネコ城の城主から「ネズミ」と嘲笑ってそう呼んだといわれる。1本の飾り気のない塔と建物の廃墟感が美しい。


 13世紀以降、何度も包囲攻撃を受けたが一度も落城したことがなく、16世紀後半にはドイツで最も強固な要塞の一つとなっていた。1794年のフランス革命の時にフランス軍がドイツまで侵入し、城は爆破された。

 

ラインフェルス城


 1245年に建造、ライン川の通行料徴税という役割を担っていたが、通行税を引き上げたためライン都市同盟が挙兵し、1255〜1256年の1年以上にわたり城を包囲した。城は守り抜かれた。難攻不落の城としての威厳を誇っていたが、18世紀に廃墟となる。現在、一部がホテルとして利用されているが、大部分は廃墟のまま残されている。
 多くの城や砦は通行税徴収のためという説明があるが、ライン川を行き来するのに、そんなに何回も通行税を払わなければならなかったのだろうか。またどうやって船をとめお金を徴収したのだろうか。そんな素朴な疑問があるが、それを説明してくれる資料はない。

 


フランス革命の時ナポレオンによって1806年に破壊された。1936年のナチス時代には帝国勤労奉仕隊が、戦後はドイツ連邦共和国の所有となった。

ネコ城(ノイカッツェンエルンボーゲン城)
 ラインフェルス城を築いてから約100年後の1371年頃に建造。対岸にあるラインフェルス城を守るために、軍事基地として建てられた。この頃のライン川周辺は、船からの税収目当ての領地争いが絶えなかったようだ。
  1989年以来日本人の所有になり、一般公開はされていないという。整備された建物と古ぼけた円筒状の塔のアンバランスが何かおかしい。

 


船上からネコ城を見る。いかにもライン川クルーズ観光といった感じ。

船上からハイネの詩の 「ローレライ」の曲が流れる。

ローレライ

 ローレライという高さ132mの切り立った崖の岩。川幅は90m。ライン河の中でも一番狭い場所で、流れが速く水面下には多くの岩礁が潜み、多くの船が事故を起こしたという。昔から航行の難所で有名。
  「妖精の岩」の意味を持つローレライ。岩から金の櫛を持った水の妖精が美しい歌声で船乗りを惑わすという伝説の舞台となった場所。


裸身のローレライの銅像。何を意味するかは不明。


城のまわりのあっちこちにある物見の塔


城の近くには、出城的な感じでいくつかの塔が建てられている。左の写真はシェーンブルク城の物見の塔で、全部で21個もあったという。

 


ライン川からみたシェーンブルク城。赤い建物が目印。

シェーンブルク城

 外見はいろいろな時代の建物のが集まったような城で、美しいとは感じられないが、ドイツで最も美しい城のひとつとして称賛されているらしい。古城ホテルとしても人気が高い。
 12世紀前半頃に建築され、15世紀以降は戦争や私闘によって城の持ち主が何度も変わり、1689年にはフランス軍がこの城を落とそうとしたが、この城が堅固だったので、当時の戦闘技術では城を落すことができなかった。だが、17世紀中にはフランス軍によって撃破された。城は修復されず、廃墟のままとなっていた。1957年からはホテルとして改装され現在にいたっている。


ライン川の中州に建てられたプファルツ城

プファルツ城

 通行税を徴収する関所として、ライン川の中州に建てられた真っ白な古城。現在は、資料館となり見学可能。
 岩島に1326年に築かれた、軍艦を模して造られた城。五角形の船の形をしているのは、激流化した水の流れによる損傷や流木などで城壁が崩されるのを防ぐため。レンガと漆喰で造られた白い城壁の高さは12m。
 城は1714年に改築され、現在のような姿になった。税徴収のために作られた城なので、戦争などの被害にあうこともなかったようだ。


城が再建され古城ホテルとして利用されているのは、本丸部分のみ。外壁から含めるとライン河谷でも屈指の規模を誇るといわれている。

グーテンフェルス城

 カウプの街の背後に「HOTEL」と書かれた建物がある。1200年ごろにライン川を見下ろす丘の上に築城された、ライン渓谷の軍事上の拠点として活躍した城。飾り気のないいかにも中世風の外観でいい感じの城なのだが、城壁に「HOTEL」と書かれていて軽薄なのが残念。
 丘の下には、プファルツ城がある。
 1620年にはグーテンフェルス城とカウプの町はスペインの名将スピノラによって占領され、1631年にヘッセン軍が城を襲撃。1635年に神聖ローマ軍が占拠し、1645年はフランス軍が、1647年に再びヘッセン軍が城を攻撃した。この頃は攻撃と所有者移転を繰り返していた。1793年にはとうとうフランスに明け渡され、1803年まで傷病兵の宿営所として使われた。その後1806年にナポレオンによって破壊され、その建材は競売にかけられた。
 1889年から92年の歳月をかけて修復され、現在はホテルとなっている。

 


丘の上のシュタールエック城

シュタールエック城

 12世紀頃に建てられた城。古城ユースホステルとして人気。三十年戦争の最中の1620年以降、シュターレック城とバッハラッハの町は、スペイン、スウェーデン、神聖ローマ帝国、バイエルン、スペイン、 フランスと次々に占領され荒廃した。
  1666年に修復工事を行ったが、プファルツ継承戦争の際の1689年には、フランス軍によって塔と城壁を爆破された。


円筒の塔が1本立っているだけの地味な城址。城というより砦といった感じ。戦う城の感じがして好もしい。

フュルステンベルク城

 1219年にケルンの司教によって彼の財産保護とバッハラッハ周辺の領地周囲の護衛、そして関税徴収のために築城された。三十年戦争でスペイン軍、スウェーデン軍に相次いで占領され、後の1689年のプファルツ継承戦争で完全に破壊された。廃城の陰影が美しい。

 


もっと地味な城址

ノリッヒ城

 ロルヒの町の護衛のために、見張り塔として建てられたとされてる。土台に使われている約1300の礎石から推定して14世紀初めごろに築かれたものと考えられている。築城の本当の目的も実は定かではなく謎の多い城。
 コンクリートの打ちっぱなしといった感じの廃城。こういう素朴で質実剛健な感じがいい。山の上で一人、戦いました、敗れました、疲れましたといった哀愁たっぷりなたたずまいがいい。


いかにも城といった感じでかっこいいが、何か悪の巣窟的な感じがする。やはり盗賊たちの巣になったという歴史があった。宗教や利害がからんだ30年戦争やナポレオンの進行などで、この手の城は戦いの舞台になったのだろう。

ゾーネック城


 11世紀にアーヘン近郊にあるコルネリミュンスター修道院の護衛と遠隔地の支配のためにに築城されたという。13世紀に入るとゾーネック城もライヒェンシュタイン城と同様に盗賊たちの巣となりライン都市同盟とハプスブルク家に相次いで破壊される。
 1689年になってからフランス軍に打ち破られてしまいまう。19世紀にはプロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム4世の狩猟城、そして再建され20世紀には国有物化の道をたどり現在に至る。今日、その印象的なロケーションと素晴らしい景観を望めるこのお城は、博物館として一般公開されている。

 


13世紀には盗賊たちの巣となったライヒェンシュタイン城。こういう歴史が面白い。

ライヒェンシュタイン城

 ライヒェンシュタイン城は11世紀にアーヘン近くのコルネリ修道院大聖堂の所有物守護を目的に建設されたという。   13世紀に入ると幾度にわたりり盗賊達の巣となるが、1254年と1282年にライン都市同盟によって破壊される。

 現在は、博物館・古城ホテル。

ラインシュタイン城

 城の起源は10世紀頃とされているが詳細は不明らしい。14世紀初頭にはプロイセンのフリードリッヒ王子の夏の居城として改築。17世紀末にフランス軍に破壊されてしまい廃城となる。

 岩の上に建てられた城からのライン川の眺めが美しく、現在は、人気のあるレストランや結婚式場になっている。


印象的な2つの塔がたっている。

エーレンフェルス城

 リューデスハイムに位置する、右岸の急斜面のぶどう畑の丘の上に建つ城。13世紀に立てられライン川の重要な税関局の1つ。17世紀末にフランス軍に破壊され、廃城となる。廃墟マニアには面白い城のようだが、老朽化が激しく原則として内部見学はできない。


「ねずみ塔」と言われる出城、ないし物見の塔。

 こんな感じの塔(ねずみ塔)があっちこっちに立っている。城の出先の物見の塔なのか、関税の徴収施設だったのか。この渓谷沿いには約30の城があり、それぞれ通行税などを徴収していたようだが。中世、そんなに通行税を払わなければライン河は通航できなかったのだろうか。
 外国は特にドイツは、やはりその長い歴史を理解していないと難しいことが多い。ライン川沿いにはどうしてこんなに城が多いのだろう。65kmの川沿いに30の城がある。2kmごとに大小の城があることになる。
  領土争い、宗教戦争、他国の侵入、 日本の戦国時代、信長・秀吉・家康と続く国家の統一化の過程と似ている。違いは、日本の仏教はヨーロッパほど政治にからんでこない。土と木の城や砦は、いったん荒廃すると自然に戻ってしまう。石の城は廃城になっても残る。

 

   
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