3.リューデスハイム・ミルテンブルク・ローデンブルク
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リューデスハイム リューデスハイムの名は1074年の文献に初めて登場する。その生計は主にワイン製造と筏による水運業によっていた。 |
つぐみ横丁。レストランやワインバーやお土産屋さんが集まっている。 |
つぐみ横丁 リューデスハイムはドイツのワイン生産地域の中部に当たる。主に生産されているのはリースリングという品種のブドウで、このブドウから高品質の白ワインが作られる。ドイツ製ワインの90%は白ワインである。ワイン店で、リューデスハイムのリースリングを使ったワインを含むいくつかの地場ワインを試飲する事が出来る。うまい、ドイツのワインは白にかぎる。アイスワインや貴腐ワインなどもある。 |
普仏戦争後のドイツ帝国を記念して建設されたもの。 1883年9月28日に落成式が行われた。高さは38メートルあり、全ドイツの統一を記念している。 |
ニーダーヴァルト記念碑 1877年に建造がはじまり、1883年に完成した。この愛国的な記念碑は町を見下ろす高台にあり、完成当初はラック式鉄道を利用して多くの観光客が訪れたが、現在ではロープウェイによってこの高台まで上がる事が出来る。 |
マイン川の関 |
船はライン河のマインツからマイン川に入った。ここからいくつもの水門を通過して進んでいくことになる。マイン川全体で11箇所の関があるという。 |
関に入っていく船。 |
関システム関システムは、シンプルだが面白い。水門を占める扉が観音開きだったり、横からの移動式だったりする。どの方式が効率的なのか試行していめのかもしれない。 @船が狭い水路に入り、先の水門の前で止まる。 |
船が関に入り、後ろの水門が閉じられると、前の水門の辺りからバルブが開けられ水が噴き出してくる。 |
C水位が揃い、やがて船の前の水門が開く。 D船は、ゆっくりゆっくり前進を始め、水門を抜け出す。 船が水門を抜けるのを待っている船がある。その船が、出ていく船の代わりに水門に入っていく。@〜Dの手続きを行って船は下流に出ていく。 船が関を通過するのが面白くて、何度も見続けてしまった。 |
水位が進行先の川の水位に揃うと、前の水門が開けられる。 |
水門を出ていく船。時々、船腹が水路の壁に接触している。 |
マインツァー門は、マイン川に架かるマイン橋の東詰にある。ミルテンベルク旧市街への入口となる門。 通りの正面がホテル「ツム・リーゼン」。 |
ミルテンブルク ミルテンベルクの古風な街、歴史的市街はマイン川の左岸。ローマ駐屯地だった。 |
マルクト広場の周りを囲む木組みの家。ドイツの伝統的な木組みの家の雰囲気を満喫できる。 |
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ヴュルツブルク
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1981年にユネスコ世界遺産に登録されたレジデンツ。 |
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ローテンブルクは城壁都市である。ハプスブルク家から帝国都市としての自治権など特権を与えられたが、防衛は自前で行わなければならなかった。 |
ローテンブルク ローテンブルクの起源は、現在の場所が1kmあまり離れたデトヴァングという村のあたりにあったらしい。ここ貴族が、タウバー川を望む丘の上に城を建てたことが、現在の地名である。 |
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1544年、ローテンブルクは Johann Hornburg 市長の時代にプロテスタントへ改宗した。宗教改革である。1559年にはプロテスタントの教会規則が公布された。聖ジョンの騎士団とドイツ騎士団だけが引き続きカトリックを信仰したが、これらの騎士修道会もそれぞれ教会(聖ジョン教会、聖ヨハネ教会)への権利を手放さねばならなかった。 『マイスター・トゥルンク』とは「市長の酒飲み」の意味。敵将カトリックのティリー伯がローテンブルクを攻め落とした後、「この大ジョッキのワインを飲み干したら、町を許す」といったとか。プロテスタント派のローテンブルク市長は、3リットルのワインを一気飲みして町を救ったという話。市長は、3日3晩寝込んだという。
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レーダー門。こんな塔と門が市内のあっちこっちにある。城壁が拡張されるたびに取り残された城壁の一部のようだ。 |
帝国都市連合は1632年-1634年にかけてスウェーデンと同盟した。 |
ローテンブルクはナチスの運動家たちにとって特別に重要なものだった。彼らにとってローテンブルクはドイツ人の「故郷の町」の典型であり、ドイツ的な要素を余すところなく体現した街とされた。ローテンブルクは「ドイツの街の中で最もドイツ的である」と称揚されていたからでもあり、住民の多くは国家社会主義に好意的であった。1938年10月、ローテンブルクはユダヤ人市民を追放した。これはナチスや、ドイツ中のナチス支持者たちから支持された。
(Wikipediaより) ローテンベルクの歴史に翻弄される様はすざまじい。 |
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左の写真の左手の建物が市庁舎。 聖ヤコブ教会は、白い建物のの後ろにある。 |
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ブルク公園 ローテンブルクの起源は、タウバー川を望む丘の上に城を建てたことにある。現在は城跡というよりこじんまりとした公園になっている。公園からの見晴らしがよく、ここに城をつくった意味がよくわかる。
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市庁舎の後ろの白い塔の最上階からの眺め。 |
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庁舎の塔の最上階からの街の眺めは最高だった。赤い屋根とパステル調の壁の色がメルヘンチックな雰囲気を醸して、他では味わえないとても面白い眺めだった。 これがその古き良きドイツの故郷なのか。 |
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バンベルクバイエルン州バンベルク市の旧市街は、第二次世界大戦中の爆撃の被害を受けずに、中世の景観がそのまま維持されているドイツでは稀な地域である。その美しさから「バイエルンの真珠」と称えられている。1993年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。 1455年に完成したオーベレ・ブリュッケと呼ばれる橋とその中洲に建てられた市庁舎。橋は聖職者が居住する山手の旧市街と市民たちが住む下町の市街地との境界となっていて、市庁舎は聖職者側と市民側のどちらにも属さない中立の立場で市政を行うという判断から橋の真ん中に建てられたという。バンベルクには、3つ目の地域として農民の園芸地区がある。 |
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バンベルク大聖堂 4つの尖塔を伴う後期ロマネスク様式の建造物。1004年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世によって建造され、1012年に完成した。 大聖堂の中央階段の間には、大理石で作られた墓がある。これは大聖堂の建立者である皇帝ハインリヒ2世と妻クニグンデ皇后の墓で、彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーが14年の歳月をかけて彫り上げ完成させたもの。柱には「バンベルクの騎士像」として知られる有名な彫像が建っている。
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マイン川の関 マイン川には11の関がある。マイン川は川幅も狭く、標高差も高い。そのため水門の関の高さも10m程度になる。水位差10mを関を利用して越えていく。 船室にいて窓の外を見るとコンクリートの壁しか見えずシュールな風景。窓と壁の隙間は10cmしかない。すごい操船技術だと感心していたら、注意してみていると、やはり時々壁をこすっている。 |
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関に侵入していく船。川幅とぎりぎりの船幅。 |
ときどき船の通過待ちの渋滞が起こる。 |
photo by miura 2017.5 |