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ローデンブルク

3.リューデスハイム・ミルテンブルク・ローデンブルク



リューデスハイムの町はずれの船着き場の様子

リューデスハイム

 リューデスハイムの名は1074年の文献に初めて登場する。その生計は主にワイン製造と筏による水運業によっていた。
リューデスハイム・アム・ラインは、ユネスコの世界遺産であるライン渓谷中流上部にあるワイン醸造の町である。
 この地域には、最初ケルト人が定住していたが、紀元後にはウビー族、マッティアチ族が取って代わった。1世紀になるとローマ人がタウヌスまで進出した。ローマ人はビンゲン・アム・ラインに砦を築き、その対岸、現在のリューデスハイム付近にリーメスへ向かう道の途中に橋頭堡を築いた。その後、ローマ人はアラマンニ人に追われ、民族移動時代の到来とともにフランク人がやって来た。


つぐみ横丁。レストランやワインバーやお土産屋さんが集まっている。

つぐみ横丁

 リューデスハイムはドイツのワイン生産地域の中部に当たる。主に生産されているのはリースリングという品種のブドウで、このブドウから高品質の白ワインが作られる。ドイツ製ワインの90%は白ワインである。ワイン店で、リューデスハイムのリースリングを使ったワインを含むいくつかの地場ワインを試飲する事が出来る。ドイツのワインは白にかぎる。アイスワインや貴腐ワインなどもある。

 地元名物のリューデスハイム・コーヒーを試してみる。
 ブランデーが1/3も入っているコーヒー、上に生クリームがトグロを巻いて乗っかっている。寒さが厳しい土地柄には、ブラデー・コーヒーがよく合う。


 普仏戦争後のドイツ帝国を記念して建設されたもの。
 1883年9月28日に落成式が行われた。高さは38メートルあり、全ドイツの統一を記念している。

ニーダーヴァルト記念碑

 1877年に建造がはじまり、1883年に完成した。この愛国的な記念碑は町を見下ろす高台にあり、完成当初はラック式鉄道を利用して多くの観光客が訪れたが、現在ではロープウェイによってこの高台まで上がる事が出来る。
 丘に登るゴンドラから、一面のブドウ畑を見渡せる。天気がよいのでとても気持ちがよい。


マイン川の関

 船はライン河のマインツからマイン川に入った。ここからいくつもの水門を通過して進んでいくことになる。マイン川全体で11箇所の関があるという。
 ライン−マイン川の水運は、現代でも鉄道・自動車と並んで運送業として立派に成り立っている。貨物船やコンテナ船が行きかっている。


関に入っていく船。

 関システムは、シンプルだが面白い。水門を占める扉が観音開きだったり、横からの移動式だったりする。どの方式が効率的なのか試行していめのかもしれない。

@船が狭い水路に入り、先の水門の前で止まる。

A すると船の後ろの水門が閉じて船は閉じ込められる。

B 次に、水門のバルブが開けられ前の水門の下から水が湧き出てくる。
 水の出方にもいろいろあるようだ。
 水位の高さの違いにもよるが2m程度なら5分あまりで水位が上がる。

 


船が関に入り、後ろの水門が閉じられると、前の水門の辺りからバルブが開けられ水が噴き出してくる。

C水位が揃い、やがて船の前の水門が開く。
 水門は観音開きと横から張り出してくる場合がある。

D船は、ゆっくりゆっくり前進を始め、水門を抜け出す。 

 船が水門を抜けるのを待っている船がある。その船が、出ていく船の代わりに水門に入っていく。@〜Dの手続きを行って船は下流に出ていく。

 スエズ運河やパナマ運河も同じ原理で、船は水位の高低を越えて、山を登ったり降りたりしているのだろう。

 船が関を通過するのが面白くて、何度も見続けてしまった。


水位が進行先の川の水位に揃うと、前の水門が開けられる。

 水門を出ていく船。時々、船腹が水路の壁に接触している。

マインツァー門は、マイン川に架かるマイン橋の東詰にある。ミルテンベルク旧市街への入口となる門。

通りの正面がホテル「ツム・リーゼン」。

ミルテンブルク

 ミルテンベルクの古風な街、歴史的市街はマイン川の左岸。ローマ駐屯地だった。
 155年頃、ローマ人はほぼ真っ直ぐに南へ向かうリーメス(ローマ帝国時代の防砦システム)をマイン川沿いから築いた。現のミルテンベルク付近では、ここより北側ではローマ帝国とゲルマン民族との天然の国境となっていたマイン川にリーメスが張り出していた。ミルテンベルクとビュルクシュタットの間、ミルテンベルクとクラインホイバッハの間にそれぞれローマ時代の城の遺構(前者はミルテンベルク東城、アルトシュタット城)が遺されている。

 ミルデンブルク城、博物館、歴史的旧市街、「シュナッターロッホ」(歴史的マルクト広場)、ホテル「ツム・リーゼン」(ドイツで最も古い旅館の一つ、あるいは最古のものであるかもしれない)、旧市庁舎、ヴュルツブルガー門、マインツァー門、周辺の森に点在する史跡などがある。


マルクト広場の周りを囲む木組みの家

墓地の塀の上に骸骨が。

からくり人形つきのオルゴールなのか自動演奏装置。こんな機械が広場のあっちこっちにあり、楽しい音楽を奏でていた。

マイン川の対岸の丘の上のマリエンベルク要塞。ドイツ農民戦争では1525年5月に攻撃された

ヴュルツブルク


 マイン渓谷の中流に位置した、ワイン集積地。現在、カトリックのヴュルツブルク司教区の司教座都市である。ロマンティック街道の起点として、またフランケン・ワインの集積地として知られている。


1981年にユネスコ世界遺産に登録されたレジデンツ。

 レジデンツは大司教の宮殿として1719年から1779年に建設された。 階段の間のバロック建築様式を代表するヨーロッパでも屈指の宮殿。世界一大きいフレスコ天上一枚画「オリュンポス山と四大陸」がすばらしい。撮影禁止なのが残念。裏にある幾何学庭園「ホーフ庭園」も美しい。

ローテンブルクの街を囲む城壁

ローテンブルク

 ローテンブルクの起源は、現在は一市区となっているデトヴァングにあった。この貴族が、タウバー川を望む丘の上に城を建てたことが、現在の地名である。
 1170年にローテンブルク市が設置された。当時の町の中心は市場とヤコブ教会であった。この当時から街の要塞化が始まったとみられる。13世紀になると、塔や城壁が造られた。その中で現在まで残っているものはレーダー・アーチとマルクス塔。
 以下、ローテンブルクの歴史が興味深いので、Wikipediaから引用する。
 1274年にローテンブルクはハプスブルク家から帝国都市の特権を与えられた。聖ヤコブ教会には、十字軍遠征に伴いローテンブルクにもたらされた聖遺物とされる聖血が置かれた。これが多くの巡礼者を引き寄せ、中世のローテンブルクは第一級の巡礼地であった。その当時の市壁の内側の人口は約5500人で、これに加えて周辺の390平方キロメートルの領地の中に14,000人が居住していた。
 1350年には皇帝から徴税権と関税権を認められ、この頃からローテンブルクは帝国自由都市とみなされるようになる。
  1525年、ドイツ農民戦争において、ローテンブルクはフロリアン・ガイアー率いる反乱軍側につき、プロテスタントに改宗しようとしたが、最終的にローテンブルクの守将は降伏し反乱者が処刑された。(Wikipediaより)


三叉路の角に立つ木組みの家。形が面白いせいか人気がある。1階より2階3階になるほど木組みの幅が広がっている。

クリスマスツリーに飾る人形や木製の置物などのお店が多い。

 1544年、ローテンブルクは Johann Hornburg 市長の時代にプロテスタントへ改宗した。宗教改革である。1559年にはプロテスタントの教会規則が公布された。聖ジョンの騎士団とドイツ騎士団だけが引き続きカトリックを信仰したが、これらの騎士修道会もそれぞれ教会(聖ジョン教会、聖ヨハネ教会)への権利を手放さねばならなかった。
 1572年、1501年に焼失した市庁舎の東側の再建が始まった。その後、三十年戦争が勃発するまでの間、街は繁栄した。
 1631年10月にカトリックのティリー伯ヨハン・セルクラエスが、プロテスタントのルター派のローテンブルクに、40,000人の軍隊の宿営を求めた。街はこれを拒否し、籠城して守り抜こうとした。しかしながら、ティリー伯の軍隊は300人の兵を失っただけで、間もなくローテンブルクを陥落させた。「街に火を放ち掠奪する」と脅したティリー伯から旧市長のヌッシュが街を救った成り行きは、現在も毎年開催される街の祝祭劇『マイスター・トゥルンク』の話の元になっている。(Wikipediaより)

 『マイスター・トゥルンク』とは「市長の酒飲み」の意味。敵将カトリックのティリー伯がローテンブルクを攻め落とした後、「この大ジョッキのワインを飲み干したら、町を許す」といった。プロテスタント派のローテンブルク市長は、3リットルのワインを一気飲みして町を救ったという話。市長は、3日3晩寝込んだという。
 ローデンブルクの町は、現代でも町を挙げて『マイスター・トゥルンク』の中世風劇を演じて祝うのだという。

 


レーダー門。こんな塔と門が市内のあっちこっちにある。城壁が拡張されるたびに取り残された城壁の一部のようだ。

 帝国都市連合は1632年-1634年にかけてスウェーデンと同盟した。
 1634年にはペストの大流行によって多くの死者が出た。    1645年にフランスの軍隊に占領された。1650年に最後の兵士が街を去ると、この街にはもはや財産も権力もなくなり、ローテンブルクの街の発展は停滞し、街はその重要性を失っていった。これは、街が17世紀のままの状態で保存された理由である。
 1793年のフランス革命戦争もこの地に大きな騒乱をもたらした。
 1806年にはナポレオンの圧力により、フランス主導でバイエルン王国が成立。同時にライン同盟に加盟し、フランスの影響下に置かれた。ローテンブルクは辺境地帯となり、経済危機はさらに悪化した。
 1871年にドイツ帝国が成立すると、バイエルン王国もドイツ帝国に組み込まれた。また、1873年には鉄道が開通した。


 ローテンブルクはナチスの運動家たちにとって特別に重要なものだった。彼らにとってローテンブルクはドイツ人の「故郷の町」の典型であり、ドイツ的な要素を余すところなく体現した街とされた。ローテンブルクは「ドイツの街の中で最もドイツ的である」と称揚されていたからでもあり、住民の多くは国家社会主義に好意的であった。1938年10月、ローテンブルクはユダヤ人市民を追放した。これはナチスや、ドイツ中のナチス支持者たちから支持された。 (Wikipediaより)
 ローテンベルグとナチスとの関係も1945年の敗戦とともに終結する。

  ローテンベルクの歴史に翻弄される様はすざまじい。

 

 左の写真の左手の建物が市庁舎。
 ローテンブルクは、入り組んだ路地や小さな公園それを取り巻く木組み住宅といった中世さながらのよく保存された旧市街で知られている。この広場を囲んだ旧市街は、ドイツの街のプロトタイプとして、世界中の観光客に人気がある。正面の白い建物は当時の宴会場だったらしい。からくり時計があり、時間になると町を救ったとされる市長で出てきてビールを飲む。

 聖ヤコブ教会は、白い建物のの後ろにある。
1485年には、170年掛けて建設された聖ヤコブ教会が落成し、現在までよく保存されている。

ブルク公園

 ローテンブルクの起源は、タウバー川を望む丘の上に城を建てたことにある。現在は城跡というよりこじんまりとした公園になっている。公園からの見晴らしがよく、ここに城をつくった意味がよくわかる。

 


市庁舎の後ろの白い塔の最上階からの眺め。


 この庁舎の正面から入り、後ろの白い塔の最上階まで登ることができる。受付があると聞いていたのだが、それはなぜか最上階にあった。

 

 庁舎の塔の最上階からの街の眺めは最高だった。赤い屋根とパステル調の壁の色がメルヘンチックな雰囲気を醸して、他では味わえないとても面白い眺めだった。
 とんがり屋根の3階から5階建ての家だが、すべてが木組みの家ではないようだ。

 これがその古き良きドイツの故郷なのか。


   

バンベルク

 バイエルン州バンベルク市の旧市街は、第二次世界大戦中の爆撃の被害を受けずに、中世の景観がそのまま維持されているドイツでは稀な地域である。その美しさから「バイエルンの真珠」と称えられている。1993年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

 1455年に完成したオーベレ・ブリュッケと呼ばれる橋とその中洲に建てられた市庁舎。橋は聖職者が居住する山手の旧市街と市民たちが住む下町の市街地との境界となっていて、市庁舎は聖職者側と市民側のどちらにも属さない中立の立場で市政を行うという判断から橋の真ん中に建てられたという。バンベルクには、3つ目の地域として農民の園芸地区がある。

バンベルク大聖堂

 4つの尖塔を伴う後期ロマネスク様式の建造物。1004年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世によって建造され、1012年に完成した。

 大聖堂の中央階段の間には、大理石で作られた墓がある。これは大聖堂の建立者である皇帝ハインリヒ2世と妻クニグンデ皇后の墓で、彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーが14年の歳月をかけて彫り上げ完成させたもの。柱には「バンベルクの騎士像」として知られる有名な彫像が建っている。

マイン川の関

 マイン川には11の関がある。マイン川は川幅も狭く、標高差も高い。そのため水門の関の高さも10m程度になる。水位差10mを関を利用して越えていく。
 船が関を越えていく様を何度も何度も、煙草をくわえて眺めていた。

 船室にいて窓の外を見るとコンクリートの壁しか見えずシュールな風景。窓と壁の隙間は10cmしかない。すごい操船技術だと感心していたら、注意してみていると、やはり時々壁をこすっている。


関に侵入していく船。川幅とぎりぎりの船幅。

ときどき船の通過待ちの渋滞が起こる。
   
   
photo by miura 2017.5 mail:お問い合わせ
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