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ハイデルベルク
古城渓谷クルーズ
ローデンブルク
ノイシュバンシュタイン城

1.ライン河クルーズ(Rhine River Cruise)
          ストラスプール・ハイデルベルク



船は運河の関を通過して、水位の差を越える。

 ドイツ、ライン・マイン河の旅、こんなツアーになぜ参加しようと思ったのか。やはり歳のせいとでもいうしかない。3年前に「黄斑上膜症」といわれ、いきなり右目の手術をした。日だちが悪いようで回復しない。左目は正常にものが見えるのに、右目は見えるものの揺らぎがいっそう悪くなるばかり。ものがまともに像を結ばない。先生に文句をいってもそのうちによくなるのではと、とりあってもらえない。そんなことで、そろそろ人生も仕事も潮時の感を強くしている。いつの間にか、ライン河クルーズが決まっていた。
 2017.年(平成29年)5月3日羽田を出発。
 約11時間で、フランクフルト着。さらにライン下りの船の待つバーゼルへトランジット。45分でバーゼル着。


船の後ろの水門が閉じているところ。

ストラスブール

 船はストラスブール(フランス)で待っているとのことで、バーゼルからバスで2時間。 ストラスブールの運河から、ライン河にでるためには左上の写真のような関を通過することになる。
  船が狭い水路に入り、先の水門の前で止まる。すると船の後ろの水門が閉じて船は閉じ込められる。次に水門のバルブが開けられ前の水門の下から水が湧き出てくる。水位の高さの違いにもよるが2m程度なら5分あまりで水位が上がる。


船の前方り水門が開いているところ。
 

 水位が揃い、やがて船の前の水門が開く。船は、ゆっくりゆっくり前進を始め、水門を抜け出す。スエズ運河やパナマ運河も同じ原理で、船は水位の高低を越えて、山を登ったり降りたりしているのだろう。

 船が関システムを通過するのが面白くて、何度も見続けてしまった。


雨混じりの空だったため、尖塔がかすんでいる。

ノートルダム大聖堂

 都心にあるカテドラルであるノートルダム大聖堂と木組みの伝統家屋が密集したプチット・フランス(プチフランス)地区がユネスコの世界遺産になっている。

 ノートルダム大聖堂は世界で一つなのかと思いきや、パリが有名でフランス語圏の世界各地にあるよだ。ノートルダムはフランス語で「私たちの貴婦人」、英語のOur Ladyと同じで、聖母マリアを指すという。普通はカトリックの教会である。

 ストラスブールの大聖堂は、11〜14世紀にかけて建築された。カテドラルは地元産の赤茶色の砂岩で作られているため外観がバラ色で、地盤が弱いため尖塔が片方しかないのが特徴。右側の塔がない。最初の設計からないということは考えられないが、どうも設計段階から塔は非対称の1つしかなかったようだ。
 1529年ルターの宗教改革で、この寺院も大きな試練を経験したというガイドさんの説明だが、やはりどういった試練なのかよくわからない。宗教改革時にいったんはプロテスタントになったが、その後カトリックに戻されたりしたようだ。当時のドイツ=神聖ローマ帝国におけるカトリックとマルティン・ルターの宗教改革の複雑な関係を反映している。


カラクリ時計のカラクリ人形、しぶい。
 

 ストラスブール大聖堂は美しいステンドグラスが有名だが、観光客は「天文時計」の周りに集まってくる。
 ガイドさんが、古い時代のカラクリ時計があるということで、時計の前に案内された。午後3時になるのを待った。それが右の写真。
  聖堂内に人の人生を表現したからくり時計「天文時計」が設置されていて、ガイコツの前を15分おきに子供・青年・老人が回転する。

  3時になった。ガイコツの前を15分おきに子供・青年・老人が回転する、というのだ。3時になるのを待たなくても、15分ごとに人形が回転するだけだった。古い時代のカラクリ時計はおおよそこんなものだそうだ。


ドイツの木組みの家

木組みの家(木骨造)

  木材による柱・梁によりフレーム (骨組)を作り、骨組の間に石材や煉瓦(時には漆喰やコンクリートも用いる)で壁体を作ることにより耐力壁とし、軸組と壁の両方で荷重を支える。
 中世ヨーロッパの森林の多いドイツ、フランス、オランダ、イングランド地域において盛んに作られた。
 日本の飛騨高山の合掌造りに似ている。日本の木造の家は、1階から上階まで垂直の柱を立てて階を構成する。ドイツの木組みの家は、階ごとにブロックのように構成して、それを積み上げるような構造になっている。そのため、階によって柱の位置がずれている。


プチフランス地区を行く観光船

 ストラスプールは運河・水路の街である。水路を観光船で回れる。
 左の写真のすぐ手前に下の写真のような関がある。2m程度低い水路から関を経由してこの高さの水路に入ってきた。こういう水路が何か所かあって水上交通の便に役立てている。だが、ほとんど遊覧船観光客のための関、観光関の役にしかたっていないのではないか。関の水位の上がり下がりを見物する観光客も多い。私もその一人。

 左下の印象的な塔のようなものが、橋を挟んで左右2つ建っている。水路の門番・監視塔だったのか、通航者の通行税徴収の塔だったのか。


 ここでも川の水位調整のための関がある。関システムの周りに観光客が集まっている。フランスではちょうど大統領選の最中だった。下のような掲示板ボスターがあった。やはり39歳のマクロン氏がルペン氏を大差で破って当選した。

シュパイアー大聖堂

シュパイアー大聖堂

 1981年に大聖堂はユネスコの世界遺産に登録された。ロマネスク様式最大級の聖堂である。
 ロマネスク様式は、古代ローマ建築の影響を残し、入口や窓の半円のアーチや重厚な壁体などを特徴としている。先端がとがった、高くそびえるゴシック建築とは大きな違いをみせている。

 大聖堂の前の通りを散歩した。通りのテラスでお茶をしたが、何もない静かな街だった。

 

ハイデルベルク

 マンハイムで下船し、バスでハイデルベルクに着いた。ネッカー川に架かるアルテ橋(カール・テオドール橋)からみた印象的な塔門が橋の左右に立っている。黒い帽子をかぶり、せの高い白い2本の塔が高く伸びていて、街のどこからでも目立つ。ハイデルベルクの城は廃墟同然で地味だが、この塔だけが、この街の象徴のような役割を担っているようだ。白い塔の半分から下がレンガの赤との縞々になっているのが、奇抜で面白い。イスラムの意匠が入っているのかもしれない。

 ネッカー川の反対側の山に哲学の道がある。そこからの旧市街や城の眺めが最高ということで期待していたが、今回の観光コースには入っていなかった。


街の観光メイン道路。

 紀元前500年頃からケルト人がハイデルベルクのあたりに住んでいたらしい。彼らは、侵攻してくる他のゲルマン人に対抗するために二重の壁を巡らしていた。その後、古代ローマのカエサルが侵入し、1〜3世紀のローマ人の時代を築いた。宿営地や石積みの城を築いていたが、ゲルマン人の侵入によりローマはライン河まで押し元されてしまった。
  ネッカー川に架けられた橋は。初めは木製で、200年頃には石造りの支柱橋が造られた。
  506年にハイデルベルクはフランク王国の支配下に組み込まれ、キリスト教化された。
 ハイデルベルクは、プロテスタントとカトリックと諸国の利害がからんだ三十年戦争、フランス王ルイ14世が選帝侯位の継承権を要求したプファルツ継承戦争によりフランス軍に占領され、ほぼ完全に破壊された。三十年戦争で初めて城に砲弾が飛んできたが、大砲への防備が弱かった城はすぐに落ちてしまったようだ。その後、城は破壊と再建を繰り返し、半分廃墟になって現在に至っている。


ネッカー川に架かるアルテ橋から、ハイデルベルクの城を見る。

 ハイデルベルクはドイツで最も古い大学ループレヒト=カールス大学があり、大学の街としても有名。
 日本のような立派なキャンパスなどはなく、大学の施設や教室はあっちこっちのビルに分散している。学生たちは、教室のある建物や道路の脇で思い思いに本を読んだり、話しあっていた。


エリーザベト門

 ネッカー川に架かるアルテ橋から、ハイデルベルクの城を見る。ここからの城の外観は立派だが、内はほとんど廃城である。廃城ではあるがこの城のたどった波乱万丈の歴史を思うと、ドイツの中世から近世にかけての歴史の重さや暗さや人間というものの不可思議さを思わないではおれない。

 エリーザベト門。 1615年、フリードリヒ5世が20歳の妻の誕生日に若い妻を驚かすために一夜にして建設されたといわれる。

 城門をくぐると、正面にフリードリヒ館が見える。右手は兵士の棟、左はループレヒト館。防御の城というより王の華麗な住居といった感じ。
 ドイツ語で城を意味する言葉が2つある。ブルクとシュロス。「ブルク」は防御の要塞、「シュロス」は王が居住する統治の拠点。中世以前は外敵からの防御のため城は山頂や山の中腹に築かれた「ブルク」だったが、大砲の発達した近世では都市の中に作られる「シュロス」が多くなったといわれている。
  ハイデルベルクの城はブルクとシュロスの両方を兼ね備えているようだ。

 


フリードリヒ館

 フリードリヒ館の外観は、選帝侯の先祖の像が飾られた立派なものだが、内部は公開されていない。1階は教会、階上は王の住居だったようだ。 フリードリヒ館のテラスから見たハイデルベルクの街並みがすばらしい。

砲撃により破壊されたままの城址。

フリードリヒ館の地下にあるワインの大樽。

 ハイデルベルクの城から見たネッカー川とアルテ橋。やはり2つの塔門が印象的である。川の対岸から旧市街と城を見るのが一番の眺めのようだ。

 10年前に私の事業の友から絵をもらった。倒産会社から差し押さえてきた絵らしい。その絵が、ネッカー川の対岸からアルテ橋越しにハイデンベルク城を描いたものだった。ちょっと暗いが絵具が厚くもられた重厚な絵で、中世的な雰囲気や城の暗い歴史を暗示しているようで、気に入っていた。いつかその場所に行くこつがあるかもと思っていた。その思いは案外早くかなえられた。

 


リューデスハイムの町はずれの船の係留場より

リューデスハイム.

 ワイン製造と水運業により栄えてきた町。

 丘へ登るコンドラから、丘一面のブドウ畑を望む。のんびりとブドウ畑を眺める。とても気持ちがよい。

 酒場やレストランやお土産屋が並ぶ「つぐみ横丁」。ガイドさんの案内でワインをたくさん買うことになった。
 リューデスハイム・コーヒーが有名とかで、飲んでみた。ブランデーが1/3も入っているコーヒー、上に生クリームがトグロを巻いて乗っかっている。全部のみほすとブランデーが大分回ってします。ほどほどに。


つぐみ横丁の通り。観光客でごったがえしている。

 ニーダーヴァルト記念碑。1877年に建造がはじまり、1883年に完成した。普仏戦争後のドイツ帝国発足を記念して建設された。ドイツ統一の記念碑のようだ。
   
   
photo by miura 2017.5 mail:お問い合わせ
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