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ロライマの頂上へ  [地図]


ギアナ高地南東部の台地の全景
ギアナ高地南東部の台地の全景。右からロライマ・クケナン・ユルアニ・ワダカイピエポ(切り株) ・カラウリン・トラメン・イル。

ギアナ高地の成り立ち

 2010年2月、早朝にサンタ・エレナからヘリコプターでロライマ山(写真の右端)とクケナン山(中央の山)を目指す。ギアナ高地では最高峰となるロライマ山(標高2810m)の山頂に降り立ち、散策するためである。
 考えてみると、なんと贅沢なことだろう。今回の旅の目的の一つはロライマ山に降りて散策することにあった。
 「ギアナ高地を行く」(1990年 徳間書店 恵谷治著)によると、ギアナ高地は、地質学的に世界最古の地殻のひとつといわれる。"地質学的有史時代"ともいうべき古生代の始まりであるカンブリア紀が5億6千四百万年前とされているが、ギアナ高地の年代は20億年から30億年といわれ、さらに古い先カンブリア紀にさかのぼる。

ロライマとクケナンが間近に
ロライマとクケナンが間近に近づいてきた。ギアナ南東部ではロライマ山が最も面積がある。

  先カンブリア時代である18億年前、ギアナ楯状地一帯が沈下して、そこに淡水湖(ラグーン)が形成された。そのラグーンの湖底に堆積物が沈殿し始め、そこから1億年ほどの間に、沈殿物は2000mの堆積岩となった。この堆積岩が、地質学的にローライマ層(砂岩と頁岩(けつがん))と呼ばれ、現在のギアナ高地の卓状地の主要部分となっている。
 16億年ほど前になると、ローライマ層を湖底とするラグーン周辺が隆起し、同時に、ローライマ層にマグマ(輝緑岩)が貫入し始めた。その後、ギアナ楯状地は再びわずかながら沈み込んだが、ローライマ層の最上部には平原が形成された。以後、ギアナ楯状地は水没することなく、陸地として存在し、長期間にわたって浸食作用を受けながら、今日に至っている。

緑の密林に囲まれたテーブルマウンテン
テーブルマウンテンはサバンナの茶色の草原の中に緑の密林に囲まれて鎮座していた。クケナン山は2,680m、1,000mの楯状地の上に1,600mの台地がそそり立っている。

 当時、地球の大陸はひとつの陸塊だったとと考えられている。ドイツ人探検家で気象学者だったアルフレッド・ヴェゲナーの唱えた大陸移動説にちなんで、その原始大陸は「パンゲア大陸」と呼ばれる。
 古生代から中生代にかけて、パンゲア大陸は北部のローラシア大陸と南部のゴンドワナ大陸に分裂し、次にゴンドワナ大陸が分裂して大西洋が形成された。
 「失われた世界を行く」(1996年 小峰書店 関野吉晴著)によれば、ゴンドワナ大陸が分裂し始めたのは2億5,000年前で、それが現在のような孤立した大陸になったのは6,500万年前のことである。
ゴンドワナ大陸に広く分布していた動植物は、陸地とともにばらばらに移動し、そけぞれの動植物がそれぞれの大陸で進化することになった。

クケナン山が朝日をうけて神々しく美しい
白い雲の帽子をかぶったクケナン山が、朝日をうけて神々しく美しい。写真をクリックすると拡大する。

 ところが、ギアナ高地はゴンドワナ大陸が分裂する際の回転軸のような場所であったため、移動することなくとどまった。他の大陸が何度も気候変動の影響を受けたのに、この地域だけはずっと熱帯気候のまま現在に至っている。現在に残るゴンドワナ大陸、「失われた世界」だといえる。
 「ギアナ高地を行く」に戻ると、こうした地殻変動の中で、ギアナ楯状地のローライマ層の表面は、断層線に沿って浸食が進み、平原は分離解体していった。しかし、浸食作用に対して抵抗が強い硬質砂岩と輝緑岩の岩盤が取り残され、その結果500〜1000mの垂直な断崖に囲まれた卓状台地(メサ)が出現した。

ロライマ山の頂上の様子。
ロライマ山の頂上の様子。 2,810m、ギアナ高地で最も高いテーブルマウンテン。関野吉晴さんの測定では2,650mだった。台地の中央にブラジル・ベネズエラ・ガイアナ3国の国境がある。

ロライマ山の頂上に降り立つ

乗ってきたヘリコプター
 ふもとのサン・フランシスコの村で、ロライマ山に歩いて登ろうとしている日本人グループに出会った。私たちは、こんな楽をして登ってしまった(上の写真)、なんだか申し訳ないような気持ち。それぞれの旅である。
 関野吉晴さんは1988年にロライマ山の南側から登頂し、頂上台地を縦断した。


ロライマ山頂へ

ヘリコプターは雲の切れ目を探して着陸した

風化し浸食を受けた奇岩

 ロライマ山の標高は2,810mとなっているが、関野さんの測定では2,650mだった。ロライマはキアナ高地の中では解明されているほうだが、それでも標高すら正確には測られていない地域なのだ。

 関野さんは1995年にはさらに、アウヤンテプイとクケナン山に登り横断を試みている。(「失われた世界をゆく」小峰書店 1997年 関野吉晴)

 ロライマ山といえば、「ロストワールド」の舞台として有名である。Wikipediaに依れば次のように紹介されている。、
 『失われた世界』(うしなわれたせかい、原題:The Lost World)は、1912年にアーサー・コナン・ドイルが書いたSF小説。児童向け邦題には、『生きていたきょうりゅう』(唐沢道隆翻訳・1975年金の星社版)、『きょうりゅうの世界』(内田庶翻訳・1994年集英社版)などがある。
 ジョージ・エドワード・チャレンジャー(George Edward Challenger)、通称チャレンジャー教授(Professor Challenger)は、アーサー・コナン・ドイルによる一連のSF小説に登場する架空の人物。同じくドイルによるシャーロック・ホームズがくつろいだ思索的な人物であるのに対して、チャレンジャー教授は攻撃的・威圧的な人物である。
 「愛する女性のために実績をあげたいと考えていた新聞記者エドワード・ダン・マローンは、古生物学者チャレンジャー教授が計画した、絶滅した生物達が生き残っているという「失われた世界」への探検旅行に同行。チャレンジャー教授に批判的なサマリー教授や世界的冒険家のジョン・ロクストン卿らとともに、南米のアマゾン流域へ向かう。
 「失われた世界」は、平原に屹立する巨大な台地にあった。一行は丸木橋を渡ってそこにたどり着くが、ロクストン卿に恨みを抱く案内人にその橋を落とされ、帰り道をなくしてしまう。台地は驚くべき古生物達の世界であり、一行は様々な生き物に遭遇する。
 ある晩、マローンは一人でキャンプを抜け出す。肉食恐竜に追われるなどの冒険の後キャンプに帰ってくると、テントは荒らされ教授たちはいなくなっていた。凶悪な猿人の群れに襲われ、連れ去られたのである。なんとか猿人の村から脱出した教授たちとマローンは、猿人に圧迫され虐殺されていた人間の原住民たちと協力し、猿人たちを滅ぼす。そして、原住民から教えられた秘密の通路を通り、「失われた世界」を脱出した。
 ロンドンへ戻ったチャレンジャー教授は学界で冒険の成果を発表するが、もちろん誰も信用しない。この事あるを予見して秘密裏に運んできた大きな箱を人々の目の前で開けると、中から飛び出してきたのはプテラノドンであった。プテラノドンは南米の方向に逃げ去ったが、チャレンジャー教授たちの話は事実であると証明され、彼らは一躍時の人となった。」

 実際、ここで恐竜の生き残りが発見されても、テプイの生い立ちを考えれば、さもありなんと思えるだけの説得力がある。恐竜の話は、「アウヤンテプイ」のページでふれる。


あたりは奇岩が立ち並んでいた。

 頂上は、1億年の強風と豪雨が彫刻した奇妙な形の岩石群に覆われていた。ところどころに下の写真のような植物たちが群れていた。地衣類の他、日本では見たこともない植物。知識がないので名前は不明。



 テーブルマウンテンの上で確認されている植物は約4,000種。これは日本全体の植物の種類を超えている。しかもその75%が固有種、他にはないギアナ高地だけに生えている植物である。ガラパゴス諸島の固有種が53%であることからみても、ギアナ高地の他地域からの隔絶度がわかる。

 グアナ特有の植物が多いが、アフリカ大陸の植物との類似性が強く、かってひとつの大陸だったことを明かしているという。
 テプイの頂上には土はほとんどない。植物の腐植質の上に新しい植物が根を張っている。どの植物も岩にしっかりしがみついていてちょっと力を入れた程度では動かない。どの植物もたくましい生命力を発揮している。


 毛虫を見つけた。しきりに動き回っていた。
 ロライマの台地では小動物はほとんどみられなかったが、カエルや昆虫、鳥などがいるようだ。

テプイの周りの気流は不安定で、テプイにはいろんな形の雲がへばりついていた。
クリックで拡大。

 ロライマ台地での滞在時間は20分程度の短い時間だった。ヘリコプターはロライマ山を廻りながら、隣の山のクケナン山に近づいていった。雲の切れ目から顔を出したクケナン山の端の絶壁はこの世を隔絶した美しさがあった。

 



 最近の調査では、テプイの上からサハラ砂漠の砂塵が大量に発見されたという。アフリカ大陸のサハラ砂漠上の大気中には絶えず大量の砂塵が舞い、熱上昇風によって吹き上げられ、それが北東貿易風や低気圧の働きで大西洋の方に流れ、それがアンデス山脈にぶつかって雷雨とともにアマゾンやギアナに降り注ぐのだそうだ。ソハラの砂塵はリンやカリウムなどの栄養素を豊富に含み、熱帯雨林や土壌の乏しいテプイの上に暮らす植物たちを養っている。(U社添乗員さんの手書き資料より)
地球規模での壮大なドラマが想われ、興味深い話しだ。

 クケナンの台地には亀裂が走り、岩盤深く切れ込んでいてとても渡れそうもない。比較的平らな台地上には、石仏のような奇岩が無数に連なっていた。
 (左の動画は、クケナン山頂の石仏たち。)
 クケナン山は地域の人々からは「聖なる山」と呼ばれ、また「死の山」とも呼ばれているようだ。山頂はまさしく賽の河原か。

   
photo by miura 2010.3 mail:お問い合わせ
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