メニューへ
ピラミッド
ロゼッタストーン
デビッド・ロバーツの絵
カルナック神殿・ルクソール神殿
王家の谷
ホルス神殿・コムオンボ神殿・イシス神殿
アブシンベル神殿

アブシンベル神殿 [地図]


ダビッド・ロバーツのアブシンベル遠景
画像をクリックすと拡大する。

ラムセスU世の記念的神殿

 アブシンベル神殿は、ラムセスU世によりBC1250年頃に造られた。大小2つの神殿からなる、砂岩をくり貫いた岩窟神殿である。
 カイロから南へ1,180Km、アスワンからさらに南へ280Kmのところにある。古代エジプト時代、自然の国境はアスワンまでで、南1,000Kmの広大な大地はヌビアと呼ばれていた。当時、ヌビブは金や銅の産地でエジプトはそれをねらって幾たびか遠征を企てている。ヌビアはマハのホルス(隼)という地方神が宿る聖地だった。ラムセスU世の最愛の妻ネフェルタリ王妃の像がたくさんある。ヌビアはネフェルタリ王妃の生まれ故郷だったといわれている。
 1813年、スイス人ブルックルハルトが土地の人の案内でアブシンベル神殿を発見した。北から吹く強い風のため神殿の4分の3は砂に埋もれていた。イタリア人ベルツォーニが発掘を始め、初めて神殿内部に入った。

アブシンベルの大神殿
4体ともラムセスU世の像で、左の若い頃から順に年代別に並べている。2番目の像が崩れているが神殿が完成してから7年後の大地震(BC1249年)で崩れたもの。それにしても4体とも自分の像とは。
ダビッド・ロバーツのアブシンベル

 デビット・ロバーツが1838〜9年にかけてエジプトをたずねたとき、彼は左上のような絵を残している。なんともロマンを掻き立てる絵ではないか。この神殿に魅せられた男たちに共感する。ベルツォーニは英国3人とともに掻いても掻いても崩れてくる砂をさらに掻き分けようやく神殿の入り口をみつけた。1815年のことだった。

アブシンベルの2つの神殿
右手が小神殿、左奥が大神殿。

 4人は神殿の内部の広さに驚いた。そして周囲を取り巻いている絵画・彫刻・巨像が見事な芸術品であることに気づいてもっと驚いた。ベルツォーニは気温44度の石窟の中で苦労しながら数枚の写生をした。
 ベルツォーニは仲間とアブシンベルを離れたが、土産として鷹の頭をした実物大のライオン2頭、小さな坐像1つ、そして扉についていた銅製品の破片を持ち帰った。現在、大英博物館におかれている。しかし、ベルツォーニは実をいうと、失望していた。何世紀もわたって手付かずのままだった神殿からはもっとすばらしい宝物が出るにちがいないと期待したいたからだった。当時の冒険家や探検家といわれる人たちの本音が生々しい。
(「古代エジプト探検史」吉村作治監修 創元社より) 
 デビット・ロバーツは1838〜9年に下のような神殿内部のラムセスU世の巨像を描いている。3200年あまりの時間を経て色は薄くなってしまったが、造形のすばらしさは今でもはっきりと感じられる。デビット・ロバーツの筆致が一段とさえている。

アブシンベルの大神殿、ラムセスU世像
ここでも写真より、左のデビット・ロバーツの絵のほうが数段すばらしい。
ダビッド・ロバーツのアブシンベル・ラムセスU世像

 ラムセスU世は、トルコ・アナトリア半島に王国を築いた民族であるヒッタイトと戦った。ヒッタイトは鉄器を使用した初めての民族だといわれ、ラムセスU世はそのヒッタイトと互角に勝負した。その戦いの様子などが壁のレリーフとしてたくさん残っている。 残念ながら撮影禁止。上の絵は秀逸。

アブシンベル神殿の内部
神殿の入り口から最奥の4人の像まで47m。朝日が当たると一直線に像が照らしだされる。 2月22日のラムセスU世の誕生日には一番の朝日が彼を照らしだす。2月14日の早朝に立ち会ったが、すばらしいショウを実感できた。2月22日と10月22日にこの現象を祝う祭りが行われる。

朝日に輝くアブシンベル神殿
 室内は撮影禁止なため、入り口でようやく数枚の写真を撮るとこを許してもらった。
 室内はラムセスU世が戦車に乗ってヒッタイトと果敢に戦っている様子や捕虜を殺害している様子、神々からの祝福、ヒッタイト王の長女との婚姻、ヌビアやアジアの捕虜たち、凱旋の様子など。
 神殿の奥には4人の神が祭られている。左から2人目がラムセスU世で、年2回2月と10月に昇ったばかりの朝日が神殿に差し込むとちょうど2人目のラムセスU世像にあたるように設計されている。2月22日と10月22日で、ラムセスU世の誕生日だとも春分の日・秋分の日だともいわれている。(実際は21日なのだが、神殿の移動により1日ずれたのだとか。)

アブシンベルの小神殿

アブシンベルの夜の大神殿
夜の大神殿の光と音のショー。

左は小神殿。ネフェルタリ王妃の神殿。

小神殿ネフェルタリ像

 大神殿から北に100m離れたところに小神殿がある。最愛の妻ネフェルタリ王妃と現地の地方神ハトホル女神にささげられたもの。2人のラムセス像の間にネフェルタリ王妃像が挟まれて2セット、左右対称に造られている。
 正面の奉納碑文には、偉大なるラムセスU世がネフェルタリ王妃のためにこの岩窟神殿を造った・・・・永遠に彼女のために朝日が昇る、と書いてある。ネフェルタリは幸せだったかどうかはわからないが、ラムセスU世の彼女への愛は形になって、3500年たった今も残っている。

 ネフェルタリ王妃は、左手に打楽器を持っている。ネフェルタリとは古代エジプト語で「最も美しい女性」を意味し、「偉大なる王妃」「王の母」「上下エジプト2国の女王」などの称号で呼ばれている。

 アブシンベルは、アスワンハイダムが完成すると湖水に沈む運命だった。1960年ユネスコはヌビアの遺跡を救うために世界的なキャンペーンを開始した。1968年にダムが完成して水没してしまう前に救出するためだ。


アブシンベルの彫刻をいくつかの部分に切り分け、1つの断片は20トン以下にして、クレーンとトラックで200m離れた高台の神殿の再建予定地へ運ぶ。巨大なパズルのようになった部品が組み立てられる。上の写真はアブシンベルのプレゼンルームにあったパネルを撮ったもの。興味深い写真がたくさんあった。

 ヌビア地方にもナイル川が流れているが、その恩恵は僅かしかない。ヌビアは砂漠の中で北風も強く生きるには厳しい自然の中にある。エジプトの領土としても最南端で、現在でもすぐ側にスーダンとの国境がある辺境の地である。そこになぜ、このような大神殿を建てたのか。ヌビアは、ラムセスU世の最愛の妻ネフェルタリの生まれ故郷だといわれている。その地にラムセスU世は自分と彼女のために、確かに生きてきた証しとしてとてつもない記念碑を造った。古代エジプトの英雄は今も多くのエジプト人に愛されている。

 ヌビアの風 砂に埋もる ラムセス像
 3500年の 朝日がつつむ アブシンベル
 砂と風 ヌビアの大地に 青い月
 アブシンベル 何を語るか 砂の風
 3500年の 闇をこえて ラムセス神

失礼、駄句でした。

アスワンハイダムより
ハイダムからナセル湖をみたもの。遠くに神殿が見えたので望遠で撮った。
アスワン [地図]

 左の写真はアスワンハイダムの上より。下の写真はダムから下流を見たもの。水は豊富にあっても荒涼しとた風景が続く。この下流にアスワン市がある。
アスワンハイダムより

ヌビア砂漠の蜃気楼
これがその蜃気楼、いや逃げ水か。

 左はアブシンベルからアスワンに来る途中で見た蜃気楼。ヌビア砂漠ではよく見られるという。砂漠で見る蜃気楼ははじめての体験。下はナセル湖のアブシンベル横に停泊しているホテル船。エメラルドの湖と砂漠のコントラストが美しい。
ナセル湖のアブシンベル横に停泊しているホテル船


 アスワン市のホテルからの写真。ナイル川の縁は緑が濃いリゾート地帯、山側は瓦礫の砂漠に接した街が続く。 カメラをかついで砂漠の街に入っていきたい衝動にかられる。[地図]


 ナイル川の両岸には緑があり、農作物が作られている。緑の幅は数百mから数Kmまで。ナイルの恵みは水が得られるほんの僅かの範囲でしかなく、すべてナイル川に沿っている。

photo by miura 2008.2
メニューへ  ページトップへ