アブシンベル神殿 [地図]
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ラムセスU世の記念的神殿 アブシンベル神殿は、ラムセスU世によりBC1250年頃に造られた。大小2つの神殿からなる、砂岩をくり貫いた岩窟神殿である。 |
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4体ともラムセスU世の像で、左の若い頃から順に年代別に並べている。2番目の像が崩れているが神殿が完成してから7年後の大地震(BC1249年)で崩れたもの。それにしても4体とも自分の像とは。 |
デビット・ロバーツが1838〜9年にかけてエジプトをたずねたとき、彼は左上のような絵を残している。なんともロマンを掻き立てる絵ではないか。この神殿に魅せられた男たちに共感する。ベルツォーニは英国3人とともに掻いても掻いても崩れてくる砂をさらに掻き分けようやく神殿の入り口をみつけた。1815年のことだった。 |
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右手が小神殿、左奥が大神殿。 |
4人は神殿の内部の広さに驚いた。そして周囲を取り巻いている絵画・彫刻・巨像が見事な芸術品であることに気づいてもっと驚いた。ベルツォーニは気温44度の石窟の中で苦労しながら数枚の写生をした。 |
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ここでも写真より、左のデビット・ロバーツの絵のほうが数段すばらしい。 |
ラムセスU世は、トルコ・アナトリア半島に王国を築いた民族であるヒッタイトと戦った。ヒッタイトは鉄器を使用した初めての民族だといわれ、ラムセスU世はそのヒッタイトと互角に勝負した。その戦いの様子などが壁のレリーフとしてたくさん残っている。 残念ながら撮影禁止。上の絵は秀逸。 |
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神殿の入り口から最奥の4人の像まで47m。朝日が当たると一直線に像が照らしだされる。 2月22日のラムセスU世の誕生日には一番の朝日が彼を照らしだす。2月14日の早朝に立ち会ったが、すばらしいショウを実感できた。2月22日と10月22日にこの現象を祝う祭りが行われる。 |
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左は小神殿。ネフェルタリ王妃の神殿。 |
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大神殿から北に100m離れたところに小神殿がある。最愛の妻ネフェルタリ王妃と現地の地方神ハトホル女神にささげられたもの。2人のラムセス像の間にネフェルタリ王妃像が挟まれて2セット、左右対称に造られている。 ネフェルタリ王妃は、左手に打楽器を持っている。ネフェルタリとは古代エジプト語で「最も美しい女性」を意味し、「偉大なる王妃」「王の母」「上下エジプト2国の女王」などの称号で呼ばれている。 アブシンベルは、アスワンハイダムが完成すると湖水に沈む運命だった。1960年ユネスコはヌビアの遺跡を救うために世界的なキャンペーンを開始した。1968年にダムが完成して水没してしまう前に救出するためだ。 |
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ヌビア地方にもナイル川が流れているが、その恩恵は僅かしかない。ヌビアは砂漠の中で北風も強く生きるには厳しい自然の中にある。エジプトの領土としても最南端で、現在でもすぐ側にスーダンとの国境がある辺境の地である。そこになぜ、このような大神殿を建てたのか。ヌビアは、ラムセスU世の最愛の妻ネフェルタリの生まれ故郷だといわれている。その地にラムセスU世は自分と彼女のために、確かに生きてきた証しとしてとてつもない記念碑を造った。古代エジプトの英雄は今も多くのエジプト人に愛されている。 ヌビアの風 砂に埋もる ラムセス像 失礼、駄句でした。 |
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ハイダムからナセル湖をみたもの。遠くに神殿が見えたので望遠で撮った。 |
アスワン [地図] 左の写真はアスワンハイダムの上より。下の写真はダムから下流を見たもの。水は豊富にあっても荒涼しとた風景が続く。この下流にアスワン市がある。 |
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これがその蜃気楼、いや逃げ水か。 |
左はアブシンベルからアスワンに来る途中で見た蜃気楼。ヌビア砂漠ではよく見られるという。砂漠で見る蜃気楼ははじめての体験。下はナセル湖のアブシンベル横に停泊しているホテル船。エメラルドの湖と砂漠のコントラストが美しい。 |
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アスワン市のホテルからの写真。ナイル川の縁は緑が濃いリゾート地帯、山側は瓦礫の砂漠に接した街が続く。 カメラをかついで砂漠の街に入っていきたい衝動にかられる。[地図] |
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ナイル川の両岸には緑があり、農作物が作られている。緑の幅は数百mから数Kmまで。ナイルの恵みは水が得られるほんの僅かの範囲でしかなく、すべてナイル川に沿っている。 |
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photo by miura 2008.2 |