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ロドス島(聖ヨハネ騎士団の島)



11の門のなかの「アンボワーズ門」 。ヨーロッパでも最大級の城塞といわれる。門までの石橋は写真のような混みよう。

ロドス島(聖ヨハネ騎士団の島) RodosのMap

1309年、ロドス島は聖ヨハネ騎士団に占領されたため、ロドス島騎士団と称される。この騎士団のもと都市は中世ヨーロッパ風に作り変えられた。騎士団長の館などのロドス島の有名な遺跡の多くはこの時期に造営されたもの。

騎士団は島内に堅固な城塞を築き、1444年のエジプトのマムルーク朝の攻撃や1480年のオスマン帝国のメフメト2世の攻撃を防いだが、1522年にオスマン帝国の大軍に攻囲されついに陥落した(ロドス包囲戦)。騎士団の残った者たちはマルタ島へ移っていった。

1912年、トルコ領だったロドス島はイタリアによって占領され(イタリア領エーゲ海諸島)、1947年にはドデカネス諸島ともにギリシャに編入された。(Wikipediaより)

 





城壁の正門を内側から見た。場内は観光客でいっぱい。

多くの包囲戦の記憶を留める城壁と城内を隔てる中庭。
紀元前305年−紀元前304年にマケドニア王のデメトリオス1世とロドス島との間戦われた包囲戦。この戦いではロドス島が勝ったということになっている。

1444年にエジプトのマムルーク船団がロドス島を攻囲した時には、聖ヨハネ騎士団はブルゴーニュ公国の海軍司令官ジョフロワ・ド・トワジの助けを借りて、これを撃退した。
1522年のロドス包囲戦では、オスマン帝国が聖ヨハネ騎士団をロドス島から完全に駆逐した。この結果オスマン帝国は東地中海での覇権を確立し、聖ヨハネ騎士団はシチリア島に撤退、後にマルタ島へ移ってオスマン帝国に抵抗し続けた。

1522年12月に騎士団とスレイマン1世は協定を結び、騎士団が持てる限りの財産とともに島を去ることで合意した。これと引き換えに、残された都市住民には一切の報復が加えられないこと、および住民がキリスト教を信仰し続けても構わないことが確認された。1523年1月1日をもって騎士団は島を離れ、以降ロドス島はオスマン帝国の支配下に入った。 (Wikipediaより)
オスマン帝国は他民族の大国だけあって、支配下に入り税金を治めさえすれば、多様な宗教に関してはいたって寛容だったようだ。



騎士団長の館


ギリシャの世界遺産「ロードス島の中世都市」

ロドス島の主都ロドスの旧市街には、かつて聖ヨハネ騎士団が築いた城塞都市の特質が良好に保存されており、中世ヨーロッパ都市の優れた例証として評価されている。(Wikipediaより)
もっと血塗られたおどろしい城塞を期待していたのだが、観光用にきれいに整備されていてやや拍子抜け。度重なる包囲攻防戦でその痕跡は歴史の闇に葬られててしまったようだ。


城壁の正門を直ぐ側の海側からみた。
オスマン帝国の支配が長かったためかモスクが多い。
城壁や師団長の館などは観光用に整備され過ぎていてやや情感に欠ける。壊れたり崩れたり、草むら、兵どもの夢の跡感があったほうがおもしろいのではないかなあ。

聖ヨハネ騎士団は、1307年の聖堂騎士団の迫害後にイタリアを離れ、ロドス島を占領し、本拠地とした。1309年に教皇クレメンス5世は聖ヨハネ騎士団がロドス島を所有することを認め、以降、ムスリムが手出しをして来るまでの2世紀ほどにわたり、ロドス島は聖ヨハネ騎士団の本拠地でありつづけた。(Wikipediaより)

城塞都市

ビザンティン帝国時代に築かれた都市は、14世紀から15世紀にかけて聖ヨハネ騎士団によって拡張され、要塞化が行われた。この城塞都市が中世のロドスの市域を定めるものになった。かつての防衛設備は非常に行き届いたもので、11の門、多くの防壁を含み、水の張られていない大きな堀に守られた城壁の列も存在していた。オスマン帝国の支配下にあった16世紀以降も保持され、20世紀になって修復もされたこの城塞都市の建造物群は、ヨーロッパに現存する中世防衛施設群の中では最大級のものである。

しかし、ヨハネ騎士団やロードス島にあまり興味のない日本人には、なぜこの城塞都市が人気があるのかよくわからない。歴史の知識に弱い私には、熊本城の手作り感の強い石組みの方がすごいと思う。西南戦争で西郷軍でさえ落とせずに、ついに田原坂で敗れ去った歴史の方が面白いと思うのだが。まぁ、同じようなものか。

   

クノッソス宮殿(クレタ島)



現地ガイドさんが遺蹟の説明を日本語混じりでしてくれた。残念ながら何をいっているのかわからなかった。

クノッソス宮殿(クレタ島) KnossosのMap

クレタ島は地中海の東部、エーゲ海の入口にある大きな島。シュリーマンの助手をしたこともあるイギリス人エヴァンズが、クレタ島の中央部にあるクノッソスで1900年から本格的に発掘を開始した。その結果、前2000年頃から前1400年ごろの青銅器文明の存在を明らかになり、クレタ文明と名付けられた。クノッソスは伝承上のミノス王の都とも考えられている。
宮殿の一辺は160m以上あり、部屋は1200個以上、部分的には4階建ての建造物すらもあったとされる。後のミケーネ文明のものを遥かに凌ぐ規模を持つこの宮殿の最大の特徴は何よりも中央広場。この広場とそれを囲むようにして重要な施設が配置されている宮殿の構造は、高度な官僚機構と強い王権の存在を示している。

 


クノッソス宮殿跡の壁画。ミノス王の玉座の間のグリフィン(鷲(あるいは鷹)の翼の上半身とライオンの下半身をもつ伝説の生物)を描いた壁画。

ミノタウロス退治の神話

当時、アテーナイはクレータ島のミノス王の勢力下に置かれており、アテーナイはミノス王の命令によって毎年7人の若者と7人の乙女を怪物ミノタウロスへのいけにえとして捧げるよう強要されていた。その事を知って強い憤りを感じたテーセウスは、クレータ島に乗り込んでミノタウロスを退治するため、父王アイゲウスの反対を押し切り、自ら進んでいけにえの一人となった。いけにえを運ぶ船は、国民たちの悲しみを表す印として黒い帆が張られていた。テーセウスは他のいけにえたちと共にその船に乗り込み、クレタ島へ向かった。


なるほど迷宮のような宮殿跡。 ミノタウロスが幽閉されていたという伝説が生まれてもおかしくないか。

ミノタウロスが幽閉されているラビュリントスは、名工ダイダロスによって築かれた脱出不可能と言われる迷宮であった。しかし、ミノス王の娘アリアドネーがテーセウスに恋をしてしまい、彼女はテーセウスを助けるため、彼に赤い麻糸のまりと短剣をこっそり手渡した。テーセウスはアリアドネーからもらったまりの麻糸の端を入口の扉に結び付け、糸を少しずつ伸ばしながら、他のいけにえたちと共に迷宮の奥へと進んでいった。そして一行はついにミノタウロスと遭遇した。皆がその恐ろしい姿を見て震える中、テーセウスはひとり勇敢にミノタウロスと対峙し、アリアドネーからもらった短剣で見事これを討ち果たした。ピンダロスによれば、テーセウスは短剣ではなく、パンクラチオンという格闘技によってミノタウロスを撃破したのだという。その後、テーセウスの一行は糸を逆にたどって、無事にラビリントスの外へ脱出する事ができた。テーセウスはアリアドネーを妻にすると約束し、ミノス王の追手から逃れてアテーナイへ戻るために、アリアドネーと共に急いでクレタ島から出港した。


クノッソス宮殿跡
赤い柱が印象的。柱の上が太く下が細いのがクノッソスの特徴。

しかし、彼は帰路の途中、ナクソス島に寄った際に、アリアドネーと別れてしまった。これは、アリアドネーに一目ぼれしたディオニューソス(バックス/バッカス)が彼女をレームノス島にさらってしまったために、行方が分からなくなり、やむをえず船を出港させたとも、薄情なテーセウスがアリアドネーに飽きたため、彼女を置き去りにしたとも言われている。 テーセウスはいけにえの一人としてクレタ島へ向かう時、無事クレタ島から脱出できた場合には喜びを表す印として船に白い帆を掲げて帰還すると父王アイゲウスに約束していた。しかし、テーセウスはこの約束を忘れてしまい、出航時の黒い帆のまま帰還した。これを見たアイゲウスは、テーセウスがミーノータウロスに殺されたものと勘違いし、絶望のあまり海へ身を投げて死んだ。その後、アイゲウスが身を投げた海は、彼の名にちなんでエーゲ海と呼ばれるようになった。(Wikipediaより)

 

サントリーニ島



サントリーニ島は火山の外輪山の一部。山の上の白い部分は市街地の白い建物。ちょっと見には雪を頂いた山のように見える。

サントリーニ島 SantoriniのMap

サントリーニ島は、エーゲ海のキクラデス諸島南部に位置するギリシャ領の島。かつて大爆発を起こした火山が形成したカルデラ地形(サントリーニ・カルデラ)の一部で、その外輪山にあたる。


外輪山の上には海岸からつづら折りの急な坂道が続いている。

「サントリーニ島」の名はカルデラ全体、すなわち本島を含めた5つの島々(サントリーニ諸島)の総称としても用いられる。カルデラ湾を望む断崖の上に白壁の家々が密集する景観でも知られている。サントリーニ・カルデラ内では現在も活発な火山活動があるという。

カルデラの外輪山の内側に広がる白い市街地はサントリーニ島観光のハイライト。写真を撮る順番待ちにといつまでも動かない人たちにイライラ。


白い建物と青い教会の丸屋根。青い海と空。いうことなし。

ここから見るエーゲ海に沈む夕日が素晴らしいらしい。高い岩場に上ってサンセットを楽しむ観光客も多い。


サントリーニ島の観光を終え船に戻る途中、振り返ると海岸から高台の市街地を結ぶ道を行き交う車のライトがなんか変。見たことのない景色。

   
photo by miura 20123.5
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