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メテオラ・デルフィ遺蹟
ポセイドンパルテノン神殿
ミコノス・パトモス島
ロドス・クレタ・サントリーニ

メテオラ修道院群



展望台から見たグランド・メテオラ修道院。この日は曇り、時々雨。

メテオラ修道院群 Meteora のMap

成田集合は7時35分。第一ターミナル南ウィング4階。
イスタンブール行きの便が2時間余り遅れた。13時間余りのフライト。イスタンブールからアテネに向かう。1時間25分のフライト。トランジェットの待ち合わせに4時間かかった。

平穏無事の生活とある種の高揚感のある生活、人間はどうしてもこういう二面性を持っている。コロナ禍の後ではなおさらだ。だが、この時世でギリシャ・エーゲ海クルーズというのはどうなのだろうか。

ギリシャは、労働人口の25%が公務員、人気職業も公務員。選挙があると支持者を公務員にして人気を得ていたらしい。シエスタがある。夕食は夜10時以降。あくせく働くよりも人生を楽しむことを優先するお国柄。それも悪くはない。観光がメイン産業で、コロナ対策に成功して観光も回復してきた。


物を上げ下ろしする道具もあったようだが、現在はジグザクの階段を上っていく。

奇岩と修道院で有名なメテオラ

グランド・メテオラ修道院。最も規模が大きい現役の修道院。かっては岩の上の修道院は24か所あったらしいが、現役の修道士が活動しているのは6か所だけらしい。
浸食されて形成された奇岩20-400mの岩の塔の上に修道院が乗っている。6か所以外は廃墟になってしまったようだ。

その地形及びギリシア正教の修道院文化の価値からユネスコ世界遺産(文化・自然複合遺産)に登録されている。
メテオラの険しい地形は、俗世との関わりを断ち祈りと瞑想に生きるギリシア正教の修道士にとっては理想の環境と見なされる。9世紀には既に、この奇岩群に穿たれた洞穴や岩の裂け目に修道士が住み着いていた。この時代の修道士は現在のような修道院共同体を形成することはなく、単独で修行する隠修士が主流であったという。(Wkipediaより)


手前はヴァルラアム修道院、右手の低い岩山のアギオス・ニコラオス修道院

ヴァルラム修道院
1541年に建立された。大メテオロンのすぐ隣に立つ修道院である。14世紀に活動した隠修士ヴァルラアムの居所に、ヨアニナ出身のセオファニスとネクタリオス修道士兄弟によって現在の修道院が建てられた。修道院内部にはフランゴス・カテラノスによるフレスコ画が残る。

アギオス・ニコラオス修道院
16世紀中頃に建立された。大メテオロン同様に救世主変容を記念した修道院であるが、同時に聖女ヴァルヴァラにも捧げられている。現在の修道院は1545年の創立。垂直に切り立った岩の上に三層建ての修道院の建物が建つ。1950年以降、女子修道院となっている。 (Wikipediaより)

 


人も荷物もロープにぶら下がって運ばれる。

どうやって建材を運んだか

凧をあげた、ロープを巻き上げた等の説がある。岩山の頂上にある修道院に登るための道も階段もない修道院があったようだ。人も、荷物も頭上に吊るした網袋だけで上り下りしていたと言う。メテオラは、「空中に釣り上げられた」と言う意味だそうだ。
厳しい修行の場である。冬は雪が降り登り降りは不可能となる。
現在は、荷物や人を運ぶロープウェイが張られている。人も荷物といっしょに乗っているが怖そう。昔は、人力でロープを巻き上げていたようだ。


ギリシャ正教会風の教会

ギリシャ正教会

宿泊したホテルの裏にある教会。ギリシャ正教会風なのだろう。教会の中にはロマネスクなイエス・キリストや聖母マリアや聖人の絵が描かれていた。ヨーロッパのカトリックとは異なり、素朴で原初的な感じの教会だった。
街の中や集落の中にも同じようなギリシャ教会が立っていた。

ギリシャ正教は、1833年に東方正教会(ギリシャ正教)のコンスタンティノープル総主教庁から独立した、ギリシャ共和国にある独立正教会。

 

急峻な山肌にへばりつくように作られた街。道路もはみ出している。

アラホバの街

世界遺産のデルフィ遺跡へ車で10分ほどの所に位置する美しい街。デルフィ遺跡観光の拠点となっている街。

斜面に造られた町のレストランで昼食。美味しいワイン、豚肉の串焼きとポテトが普通に美味しい。地中海に面した白い町や村のような街並み。冬はスキー客で賑わうという。

ギリシャの反乱軍が、1826年この地のアラホバの戦い(?)でオスマン帝国を破ったという。

 


アラホバの街はずれの塔。何のための塔かわからないが何か面白い。

アラホバの街はずれの塔。何の塔だろうか。

広い平原に畑が続く。小麦、ジャガイモ、大豆、トマト。いちご、ナッツなども農業が盛ん。オリーブ畑はあまりみられない。山の斜面のぶどう畑。葡萄酒はいけるらしい。
ギリシャはなぜか道路がよく整備されている。

町の中の廃屋、味がでていたので撮った。

 

オシオス・ルカス修道院


オシオス・ルカス修道院 Osious Rouka のMap

東ローマ帝国時代のギリシャ正教会の修道院。1990年にユネスコ世界遺産登録された。ビザンティン時代の石材を使った建築と、内部の豪華なモザイク画が魅力的な寺院。10世紀に設立され、中期ビザンティン建築の傑作と言われる聖堂と、11世紀に作成されたモザイクが残る。

中央聖堂は複合型スクィンチ式教会堂と呼ばれる中期ビザンティン建築特有の建築で、現存する建物の中でも傑作だといわれる。

門をくぐると前庭があり、現在も3名の修道士が暮らす独居房がある。

 


オシオス・ルカス修道院の中央聖堂

中央聖堂にはモザイクが残る。イエスキリストのモザイク画はどこかで見たことがあるような気がしていた。トルコ・イスタンブール(東ローマ帝国のコンスタンティノープル)にあるアヤソフィア大聖堂のモザイク画を思い出した。モスクに作りえかられる際に消されたものが、壁の漆喰をはがしたらキリスト教会時代のモザイク画が出てきたというもの。
オシオス・ルカス修道院では、11世紀につくられたものがそのまま残されている。ビザンツ美術といわれる。
白い石と赤い石のランダムな組合せの壁が印象的。


ビザンティン様式のキリスト画。 やや聖人然としている。

トームの天井のキリストと聖人の画。よく修復されているようで美しい。

聖地デルフィ



円形のアテナ神殿の跡。柱が3本立っている。

アテナの聖域(アテナ・ブロナイア)

パルナッソス山脈の麓に広がる古代ギリシャの都市国家の遺跡。

アポロンの聖域の道を挟んでオリーブの木々の坂下ったこころにある。
紀元前6世紀頃の旧アテナ神殿で円形の建物である。3本の柱が修復されて立っていた。他には、石ころがゴロゴロしているだけ。


アテナ・ブロナイア のMap

 

アポロンの聖域


アテネ人の宝庫
マラソンの起源として知られるマラトンの戦いでの勝利を記念してアテネの人々が奉納した宝庫。


アポロンの神託で知られる古代の聖地。パルナッソス山脈のほとんど崖のような場所にへばりついている遺跡。中学・高校生とおぼしき若者たちのグループが熱心にガイドさんの説明を聞いていた。
アポロンはゼウスの息子で、オリュンポス十二神の一人。詩歌や音楽などの芸能・芸術の神として名高いが、羊飼いの守護神にして光明の神。『イーリアス』ではつねにトロイア側に加担している。

 


アポロンの神殿は、柱だけが立っている。

パルナッソス山脈を背景にしたアポロンの神殿と古代遺跡。背景の山肌が険しい。古代ギリシャ時代、全世界の中心、「世界のヘソ」と考えられていたらしい。なぜこの地が聖地となったか、いろいろな話があるがギリシャ神話に関係があるのだろうか、よくわからない。
神託を受ける巫女をビューティアといい、地面の割れ目から吹き上がる気をすって陶酔の世界に入ることで神託を受けたといわれる。神託は詩の形で与えられたという。

 

石垣に使われている石には古代ギリシャ文字がびっしりと刻まれている。何と刻まれているのか興味があるが案内板は何もない。

ギリシャの神は有名なオリンポス12神。アポロンはゼウスが愛人のレトに産ませた息子。詩歌や音楽などの芸能・芸術の神として名高いが、羊飼いの守護神にして光明の神。イーリアスにおいてはギリシア兵を次々と倒した「遠矢の神」。

 


アポロン神殿跡の全景。6本の柱を残しあとは礎石のみが残っている。ローマ遺跡に似ているが、ギリシャ遺跡が先。古代ローマは、文化面だけでなく建築面でもギリシャから受け継いでいるものが多い。


アポロン神殿の手前にあるねじ曲がった柱は、「プラタイアの戦勝記念碑」のモニュメントの一部で青銅製。紀元前479年にプラタイアの闘いでペルシャ軍に対する勝利を記念して、31のポリスが奉納したもの。

アポロン神殿跡

デルフィ Delphi遺跡のMap

アポロンが神託を始めた地としてアポロン神殿が立てられた。古代ギリシャでは、神に捧げる祭は何より優先されたし、重要な決定はすべて神託によって決められた。ギリシャにはいくつかの神託所があったが、その最高の地位にあったのがデルフィ。デルフィの神託は絶対視され、ポリスが重要な決定を行う際は必ず神託をたまわった、という。

「王は息子によって殺され、息子は母と交わるだろう」というオイディプスの神話(後で紹介)や、ギリシャ最高の知者を問うて下された「ソクラテスより賢い者はいない」という神託、アレクサンダー大王が遠征前に訪ねた逸話など、デルフィの神託には数多くの伝説が伝わっている。いゃー、どこまでが史実で伝承なのか。全くギリシャの古代遺跡は神話と史実の関係がどろどろでよくわからない。

ギリシャ文明は日本からは遠いが、西洋人には古い祖先、文明・文化の正統性の根拠となっているようだ。西洋の文明の開治は古代ローマによる征服・植民地化であり、古代ローマはギリシャ文明の正統な継承者であり、滅亡したトロイのイタリアの逃れた人々の末裔であるという思いがあるようだ。
だから、ギリシャの神々の名前や神話と親しいし基本的な教養ともなっているが、日本人にはなぜギリシャ神話なのかわかりにくいし馴染みも少ない。 特に、次々と出てくる似たような神々の名前、古代ギリシャ風の名前とローマ風の名前の違い、現代風に読み替えた名前など、お手あげ状態。
星座の名前は、古代バビロニア、後のギリシア(プトレマイオスによって記述された)が混在していて、それぞれなにがしかの神話に由来しているようだ。

 


古代の劇場。ローマ劇場に影響を与えた。

デルフィの古代劇場

紀元前4世紀頃につくられた劇場。5,000人収容できた。
古代ローマの半円形の劇場が有名だが、ローマはギリシアから建築上の影響の多くを受けている。劇場の設計もギリシャの影響が大だが、他の建築物も基本的にはそうである。しかしローマ劇場は独立した基礎の上に築かれているのが特徴で、土を掘ったり斜面を利用したりするギリシアの劇場とは異なる。


オイディプス神話

ラーイオスは、子供を作るべきではないとの神託を受けた。もし子供を作れば、その子供がラーイオスを殺すというのである。しかしラーイオスは酔ったおりに妻イオカステーと交わり、男児をもうけた。神託を恐れたラーイオスは男児を殺そうと考えたが、殺すには忍びなく、男児の踵をブローチで刺し、従者に男児を渡してキタイローンの山中に置き去りにするよう命じた。しかし従者もまた殺すには忍びないと考えたため、男児をキタイローンの山中にいた羊飼いに渡し、遠くへ連れ去るように頼んだ。

コリントス王ポリュボスとその妻メロペー(異説ではペリボイア、メドゥーサとも)には、子供が生まれなくて困っていたため、羊飼いは男児を2人に渡した。ブローチで刺された男児の踵が腫れていた為、ポリュボスとメロペーは男児をオイディプース(腫れた足)と名づけた。

旅立ち
成長したオイディプースは他の者よりも能力が勝っていたため、これを嫉んだ者たちが酒席で、オイディプースはポリュボスとメロペーの実子ではないと中傷した。疑いながらも不安に思ったオイディプースは、ポリュボスとメロペーを詰問したが、満足のいく回答が得られなかった。そこで神々に真実を聞こうと、デルポイでアポローンの神託(日本語では「デルフォイ」の神託となる)を受けたが、アポローンは彼の問いに答えず、「故郷に近寄るな、両親を殺すであろうから」と教えた。
ポリュボスとメロペーとを実の両親と信じるオイディプースは、コリントスを離れて旅に出た。

父殺し
戦車に乗って旅をしている最中、ポーキスの三叉路に差しかかったところで、戦車に乗った実の父ラーイオスが前方から現れた。ラーイオスの従者ポリュポンテースが、オイディプースに道を譲るよう命令し、これに従わぬのをみるや、彼の馬を殺した。これに怒ったオイディプースは、ポリュポンテースとラーイオスを殺した(殺害方法には、打ち殺したという説と谷底に突き落としたという説がある)。ラーイオスが名乗らなかったため、オイディプースは自分が殺した相手が誰であるかを知らなかった。
プライタイアイ王ダマシストラトスがラーイオスを埋葬し、彼亡き後のテーバイは、メノイケオスの子クレオーンが摂政として治めた。

スピンクス退治
オイディプースはポーキスの三叉路から逃げてテーバイへと向かった。この頃テーバイは、ヘーラーにより送られたスピンクス(スフィンクス)という怪物に悩まされていた。
スピンクスはオルトロスを父とし、エキドナを母とする怪物で、女面にして胸と脚と尾は獅子、鳥の羽を持っていた。スピンクスはムーサより謎を教わって、ピーキオン山頂に座し、そこを通るものに謎を出して、謎が解けぬ者を喰らっていた。この謎は「一つの声をもちながら、朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものは何か。その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える」というものであった。
テーバイ人たちは、「この謎が解かれた時スピンクスの災いから解放されるであろう」という神託を得ていたため、謎を解くべく知恵を絞ったが、誰も解くことは出来ず、多くの者がスピンクスに殺された(一説によるとクレオーンの子ハイモーンもまたスピンクスに殺された)。このためクレオーンは、「この謎を解いた者にテーバイの街とイオカステーを与える」という布告を出した。
テーバイに来たオイディプースはこの謎を解き、スピンクスに言った。「答えは人間である。何となれば人間は幼年期には四つ足で歩き、青年期には二本足で歩き、老いては杖をついて三つ足で歩くからである」

テーバイ王となり、母と交わる
スピンクスを倒したオイディプースはテーバイの王となった。そして実の母であるイオカステーを、そうとは知らずに娶り、2人の男児と2人の女児をもうけた。男児はそれぞれエテオクレースとポリュネイケースといい、女児はアンティゴネーとイスメーネー(英語版)という。

真実を知る
オイディプースがテーバイの王になって以来、不作と疫病が続いた。クレオーンがデルポイに神託を求めたところ、「不作と疫病はラーイオス殺害の穢れのためであるので、殺害者を捕らえテーバイから追放せよ」という神託を得た。
オイディプースはそこで過去に遡って調べを進めるが、次第にそのあらましが、自分がこの地に来たときのポーキスの三叉路でのいざこざに似ていることに気が付く。さらに調べを進めるうち、やはりそれが自分であること、しかも自分がラーイオス王の子であったこと、母との間に子をもうけたこと、つまりは以前の神託を実現してしまったことを知る。それを知るやイオカステーは自殺し、オイディプースは絶望して自らの目をえぐり、追放された(娘と共に放浪の旅に出て行ったという説もある)。
実の父を殺し、実の母と親子婚を行ったため、オイディプースの名は「エディプスコンプレックス」の語源になった。 (Wikipediaより)


ドミニク・アングルによる『スフィンクスの謎を解くオイディプス』1808年 ルーヴル美術館所蔵(Wikipediaより)


オイディプスとスフィンクス

謎を解かれて面目を失ったスピンクスは、自ら城山より身を投じて死んだ(謎が解かれた場合は死ぬであろうという予言があったためとする話もある)。また、このスピンクスの問いの答えは「オイディプース」であるという穿った異説もある。

私は、ギリシャ神話について語るべきものをもっているわけではないが、アクリル画を少々やっている。西洋絵画の印象派の流れや絵画の歴史にも興味がある。
キリストやマリア中心の新旧聖書の宗教画から、ルネサンスは人間を解放目指したが、その時の習いとしたものは、キリスト生誕よりももっと古いギリシャ文化や神話であったり古代ローマの彫像だった。ギリシャ神話は、西洋のアーディストのインスピレーションの源泉だったようだ。


レオナルド・ダ・ビンチの新約聖書の「受胎告知」 ウフィツィ美術館 (『新約聖書』に書かれているエピソード)

ボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』 ウフィッツィ美術館(ギリシャ神話)

海を司る神ポセイドン像(ギリシャ神話)

ペルセウスがメドゥーサの首を切り落として掲げている像(ギリシャ神話)

デルフィ遺跡の博物館



デルフィ遺跡前景の想像図


アポロン神殿の上部に飾られていたレリーフ。

デルフィ遺跡の博物館 DelphiMuseum


羽をつけた像、ルーブルにある「サモトラケのニケ」の原型か。
天使の羽のようだが、エジプトの翼イシスの像の影響があるような。顔の下半分と胴体と足がないが、なんかすごく魅力的。

背中に羽をつけた女神の像の部分。頭半分から下が失われているのが残念。すべて残っていればミロのビーナスにも匹敵するのではないか。

博物館には多数の像が出土しているが、破損が激しい。頭のない像や頭だけの像など多数。青銅の像を作るための土の像や大理石の像などいろいろ混じっているようだす。

ナクソス人のスフィンクス。アポロン神殿の前にある高い柱の上に据えられていた。

美少年の像
ローマ皇帝ハドリアヌス帝の寵愛を受けていたとされる美少年の像。18歳の頃にナイル川にて溺死。それを悲しんだハドリアヌス帝が彼を神格化し、沢山の像を作った。

ローマ皇帝ハドリアヌス帝の寵愛を受けていたとされる美少年の像の出土風景とされる写真。紀元前のギリシャなのか紀元後のローマ時代の作なのか。紀元前のギリシャではないでしょう。出来過ぎのようにも思えるが。
ハドリアヌス帝紀元2世紀のローマ時代なのだから、紀元前のデルフィ遺跡の年代と大分合致しないのでは。美少年の像の製作年代がわかればいつの時代かもはっきりするのだが。

   
photo by miura 2023.05
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