メテオラ修道院群 |
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成田集合は7時35分。第一ターミナル南ウィング4階。 ギリシャは、労働人口の25%が公務員、人気職業も公務員。選挙があると支持者を公務員にして人気を得ていたらしい。シエスタがある。夕食は夜10時以降。あくせく働くよりも人生を楽しむことを優先するお国柄。それも悪くはない。観光がメイン産業で、コロナ対策に成功して観光も回復してきた。 |
物を上げ下ろしする道具もあったようだが、現在はジグザクの階段を上っていく。 |
奇岩と修道院で有名なメテオラグランド・メテオラ修道院。最も規模が大きい現役の修道院。かっては岩の上の修道院は24か所あったらしいが、現役の修道士が活動しているのは6か所だけらしい。 その地形及びギリシア正教の修道院文化の価値からユネスコ世界遺産(文化・自然複合遺産)に登録されている。 |
手前はヴァルラアム修道院、右手の低い岩山のアギオス・ニコラオス修道院 |
ヴァルラム修道院
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人も荷物もロープにぶら下がって運ばれる。 |
どうやって建材を運んだか 凧をあげた、ロープを巻き上げた等の説がある。岩山の頂上にある修道院に登るための道も階段もない修道院があったようだ。人も、荷物も頭上に吊るした網袋だけで上り下りしていたと言う。メテオラは、「空中に釣り上げられた」と言う意味だそうだ。 |
ギリシャ正教会風の教会 |
ギリシャ正教会宿泊したホテルの裏にある教会。ギリシャ正教会風なのだろう。教会の中にはロマネスクなイエス・キリストや聖母マリアや聖人の絵が描かれていた。ヨーロッパのカトリックとは異なり、素朴で原初的な感じの教会だった。 ギリシャ正教は、1833年に東方正教会(ギリシャ正教)のコンスタンティノープル総主教庁から独立した、ギリシャ共和国にある独立正教会。
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急峻な山肌にへばりつくように作られた街。道路もはみ出している。 |
アラホバの街世界遺産のデルフィ遺跡へ車で10分ほどの所に位置する美しい街。デルフィ遺跡観光の拠点となっている街。 斜面に造られた町のレストランで昼食。美味しいワイン、豚肉の串焼きとポテトが普通に美味しい。地中海に面した白い町や村のような街並み。冬はスキー客で賑わうという。
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アラホバの街はずれの塔。何のための塔かわからないが何か面白い。 |
アラホバの街はずれの塔。何の塔だろうか。 広い平原に畑が続く。小麦、ジャガイモ、大豆、トマト。いちご、ナッツなども農業が盛ん。オリーブ畑はあまりみられない。山の斜面のぶどう畑。葡萄酒はいけるらしい。
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オシオス・ルカス修道院
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東ローマ帝国時代のギリシャ正教会の修道院。1990年にユネスコ世界遺産登録された。ビザンティン時代の石材を使った建築と、内部の豪華なモザイク画が魅力的な寺院。10世紀に設立され、中期ビザンティン建築の傑作と言われる聖堂と、11世紀に作成されたモザイクが残る。 中央聖堂は複合型スクィンチ式教会堂と呼ばれる中期ビザンティン建築特有の建築で、現存する建物の中でも傑作だといわれる。 門をくぐると前庭があり、現在も3名の修道士が暮らす独居房がある。
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オシオス・ルカス修道院の中央聖堂 |
中央聖堂にはモザイクが残る。イエスキリストのモザイク画はどこかで見たことがあるような気がしていた。トルコ・イスタンブール(東ローマ帝国のコンスタンティノープル)にあるアヤソフィア大聖堂のモザイク画を思い出した。モスクに作りえかられる際に消されたものが、壁の漆喰をはがしたらキリスト教会時代のモザイク画が出てきたというもの。 |
ビザンティン様式のキリスト画。 やや聖人然としている。 |
トームの天井のキリストと聖人の画。よく修復されているようで美しい。 |
聖地デルフィ
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円形のアテナ神殿の跡。柱が3本立っている。 |
アテナの聖域(アテナ・ブロナイア)パルナッソス山脈の麓に広がる古代ギリシャの都市国家の遺跡。 アポロンの聖域の道を挟んでオリーブの木々の坂下ったこころにある。 |
アポロンの聖域 |
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アテネ人の宝庫 マラソンの起源として知られるマラトンの戦いでの勝利を記念してアテネの人々が奉納した宝庫。 |
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アポロンの神殿は、柱だけが立っている。 |
パルナッソス山脈を背景にしたアポロンの神殿と古代遺跡。背景の山肌が険しい。古代ギリシャ時代、全世界の中心、「世界のヘソ」と考えられていたらしい。なぜこの地が聖地となったか、いろいろな話があるがギリシャ神話に関係があるのだろうか、よくわからない。
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石垣に使われている石には古代ギリシャ文字がびっしりと刻まれている。何と刻まれているのか興味があるが案内板は何もない。 ギリシャの神は有名なオリンポス12神。アポロンはゼウスが愛人のレトに産ませた息子。詩歌や音楽などの芸能・芸術の神として名高いが、羊飼いの守護神にして光明の神。イーリアスにおいてはギリシア兵を次々と倒した「遠矢の神」。
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アポロン神殿跡 アポロンが神託を始めた地としてアポロン神殿が立てられた。古代ギリシャでは、神に捧げる祭は何より優先されたし、重要な決定はすべて神託によって決められた。ギリシャにはいくつかの神託所があったが、その最高の地位にあったのがデルフィ。デルフィの神託は絶対視され、ポリスが重要な決定を行う際は必ず神託をたまわった、という。 「王は息子によって殺され、息子は母と交わるだろう」というオイディプスの神話(後で紹介)や、ギリシャ最高の知者を問うて下された「ソクラテスより賢い者はいない」という神託、アレクサンダー大王が遠征前に訪ねた逸話など、デルフィの神託には数多くの伝説が伝わっている。いゃー、どこまでが史実で伝承なのか。全くギリシャの古代遺跡は神話と史実の関係がどろどろでよくわからない。 ギリシャ文明は日本からは遠いが、西洋人には古い祖先、文明・文化の正統性の根拠となっているようだ。西洋の文明の開治は古代ローマによる征服・植民地化であり、古代ローマはギリシャ文明の正統な継承者であり、滅亡したトロイのイタリアの逃れた人々の末裔であるという思いがあるようだ。
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古代の劇場。ローマ劇場に影響を与えた。 |
デルフィの古代劇場 紀元前4世紀頃につくられた劇場。5,000人収容できた。 |
オイディプス神話 ラーイオスは、子供を作るべきではないとの神託を受けた。もし子供を作れば、その子供がラーイオスを殺すというのである。しかしラーイオスは酔ったおりに妻イオカステーと交わり、男児をもうけた。神託を恐れたラーイオスは男児を殺そうと考えたが、殺すには忍びなく、男児の踵をブローチで刺し、従者に男児を渡してキタイローンの山中に置き去りにするよう命じた。しかし従者もまた殺すには忍びないと考えたため、男児をキタイローンの山中にいた羊飼いに渡し、遠くへ連れ去るように頼んだ。 コリントス王ポリュボスとその妻メロペー(異説ではペリボイア、メドゥーサとも)には、子供が生まれなくて困っていたため、羊飼いは男児を2人に渡した。ブローチで刺された男児の踵が腫れていた為、ポリュボスとメロペーは男児をオイディプース(腫れた足)と名づけた。 旅立ち 父殺し スピンクス退治 テーバイ王となり、母と交わる 真実を知る |
謎を解かれて面目を失ったスピンクスは、自ら城山より身を投じて死んだ(謎が解かれた場合は死ぬであろうという予言があったためとする話もある)。また、このスピンクスの問いの答えは「オイディプース」であるという穿った異説もある。 私は、ギリシャ神話について語るべきものをもっているわけではないが、アクリル画を少々やっている。西洋絵画の印象派の流れや絵画の歴史にも興味がある。
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デルフィ遺跡の博物館
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デルフィ遺跡前景の想像図 |
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羽をつけた像、ルーブルにある「サモトラケのニケ」の原型か。 天使の羽のようだが、エジプトの翼イシスの像の影響があるような。顔の下半分と胴体と足がないが、なんかすごく魅力的。 |
背中に羽をつけた女神の像の部分。頭半分から下が失われているのが残念。すべて残っていればミロのビーナスにも匹敵するのではないか。 博物館には多数の像が出土しているが、破損が激しい。頭のない像や頭だけの像など多数。青銅の像を作るための土の像や大理石の像などいろいろ混じっているようだす。 |
美少年の像 ローマ皇帝ハドリアヌス帝の寵愛を受けていたとされる美少年の像。18歳の頃にナイル川にて溺死。それを悲しんだハドリアヌス帝が彼を神格化し、沢山の像を作った。 |
ローマ皇帝ハドリアヌス帝の寵愛を受けていたとされる美少年の像の出土風景とされる写真。紀元前のギリシャなのか紀元後のローマ時代の作なのか。紀元前のギリシャではないでしょう。出来過ぎのようにも思えるが。 |
photo by miura 2023.05 |