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メテオラ・デルフィ遺蹟
ポセイドンパルテノン神殿
ミコノス・パトモス島
ロドス・クレタ・サントリーニ

ポセイドン神殿(スニオン岬)



ポセイドン神殿

ポセイドン神殿

アテネから南東約70kmのスニオン岬の最先端に、ポセイドンに捧げられた神殿が立っている。 

ポセイドンは海の神様。神殿は紀元前5世紀に立てられ、ペルシャ戦争で破壊されが後に再建された。柱の高さは6.1m、オリジナルの柱は34本だが、現在は16本の柱が残っている。
エーゲ海の青い海と青い空に浮かんでポセイドン神殿は神々しく美しかった。


スニオン岬の眼下の海岸

かっては、神殿にはポセイドンの像が安置されていたという。

当時、アテナイはクレタ島の勢力下にはいっていた。王の命令によって毎年7人の若者と7人の乙女を怪物ミーノータウロス(牛頭人身の怪物)への生贄として捧げるよう強要されていた。その事を知って強い憤りを感じたテーセウスは、クレータ島に乗り込んでミーノータウロスを退治するため、父王アイゲウスの反対を押し切り、自ら進んで生贄の一人となった。

ミーノータウロスが幽閉されているラビュリントスは、脱出不可能と言われる迷宮であった。クレタ王の娘アリアドネーがテーセウスに恋をしてしまい、彼女はテーセウスを助けるため、彼に赤い麻糸の鞠と短剣をこっそり手渡した。テーセウスはミーノータウロスを短剣で見事討ち果たした。

テーセウスはクレータ島へ向かう時、無事クレータ島から脱出できた場合には喜びを表す印として船に白い帆を掲げて帰還すると父王アイゲウスに約束していた。しかし、テーセウスはこの約束を忘れてしまい(不条理!不可解!)、出航時の黒い帆のまま帰還した。これを見たアイゲウスは、テーセウスがミーノータウロスに殺されたものと勘違いし、絶望のあまり海へ身を投げて死んだ。その後、アイゲウスが身を投げた海は、彼の名にちなんでアイゲウスの海=エーゲ海と呼ばれるようになった。(Wikipediaより)

ギリシャ神話の登場人物は多くは神であるが、実在性のある人物なのか全くの神話の神なのか、関係も入り組んでしてよくわからない。荒唐無稽の話が多く、とにかく理解を越えている。このミーノータウロスとテーセウス、アイゲウスも展開の細部は具体的でありながら、不条理に展開している。

テーセウスに恋したクレタ王の娘アリアドネーは、ミーノータウロスを倒した後、テーセウスとともにクレタ島を抜け出すのだが、その後すぐなぜかテーセウスと別れてしまう、ということになっている。

パルテノン神殿(アクロポリスの丘)



アクロポリスの丘の入口に続く坂道。びっしり観光客で埋まっていた。

6体の少女像が立つエレクティオン。女性たちは美しく色彩されていたらしい。
パルテノン神殿の真正面から見ると短辺の幅が30.9m、長辺の長さは69.5m。柱は石の台から上の梁まで約10m。柱のエンタシスの部分が約2m。

パルテノン神殿は、アクロポリスという150m程度の高さの丘の上に建っている。紀元前13世紀頃から建築されはじめ、破壊されては再建を繰り返して現在に至っている。現在の建物は紀元前438年に完工したものらしい。

チケットを買い入口から入ると緩やかな坂道が始まる。道は世界からの観光客でいっぱい。門をくぐると岩盤の急坂になるが、再度の入場チェックがありここからが時間がかかる。とにかく忍耐。
アクロポリスの丘に登ると右手にパルテノン神殿、左手にエレクティオン。

紀元前438年に完成した神殿、アテナイの守護神であるギリシア神話の女神アテーナーを祀る神殿である。創建当時、内陣には、アテネ(アテナイ)の守護神である女神アテナ像が祀られていた。
紀元前480年のペルシア戦争にて破壊された後に再建され、当時あった多くの神殿と同様にデロス同盟、そして後のアテナイ帝国の国庫として使われた。6世紀にはパルテノン神殿はキリスト教に取り込まれ、生神女マリヤ聖堂となった。オスマン帝国の占領後の1460年代初頭にはモスクへと変えられ、神殿内にはミナレットが設けられた。1687年9月26日、オスマン帝国によって火薬庫として使われていた神殿はヴェネツィア共和国の攻撃によって爆発炎上し、神殿建築や彫刻などはひどい損傷を受けた。1806年、オスマン帝国の了承を得た第7代エルギン伯トマス・ブルースは、神殿から焼け残った彫刻類を取り外して持ち去った。これらは1816年にロンドンの大英博物館に売却され、現在でもエルギン・マーブルまたはパルテノン・マーブルの名で展示されている。ギリシア政府はこれら彫刻の返却を求めているが、実現には至っていない。(Wikipediaより)

パルテノン神殿は、古代ギリシャ建築の黄金比率を巧みに取り入れた美しい構造を持っている。柱の配置や寸法は、美しさと調和を最大限に引き出すように設計されているという。46本の柱の間隔は一律ではなく、また角の柱は他の柱より太い。
神殿の計46本ある円柱は一見、垂直に見えるがわずかに内側に傾いていて、屋根の石を支える役目をしている。中央に膨らみを持たせるエンタシスという技法が用いられ、これより視覚的な安定感を生み出しているという。建築美学と実用的な用途がバランスするよう設計されている。なるほど古代ギリシャ人の知恵には敬服せざるを得ない。

 

確かに8本ある柱の角の2本は他より太く見える。柱の間隔も一律ではないらしい。
各柱には20個の溝が彫られていて、センスがよく美しい。ギリシャの神殿の石柱にはこの美しい垂直の溝が彫られているようだ。 ローマ遺跡の柱にはこのような溝はない。エジプトの太い列柱には極彩色のレリーフが彫られている。


現在の神殿は1834年に始まった修復作業によって再建されたもの。古代ギリシャ時代の神殿は、現在、目にしているものとは違い、上部には赤と青の彩色がされており、絢爛豪華な神殿だったといわれている。
神殿のペディメント(屋根の三角形部分)には、アテナ女神の誕生や神々の戦いを描いた精巧な彫刻が施されるていた。そこにあった像のいくつかが大英博物館で展示されている。さすが大英帝国。

 


東端の展望台から見たパルテノン神殿

アクロポリスの丘の東端の展望台から見たパルテノン神殿。神殿の西側正面は工事中で幌がかけられていた。内部でも修復中のようだった。神殿の周りは岩盤がむき出しだったり石片がしかれていたり、かなりでこぼこしている。かっての建造物の礎石のようなものもあっちこっちに転がっている。

多くの観光客はガイドさんの説明に聞き入り、パルテノン神殿の美しさに圧倒されていた。このような建築物が紀元前から造られてきたこと、人間文明、古代ギリシャ文明のすごさに感じ入らずにはおれない。

 

ギリシア神話といえば、メドゥーサの話はかかせない。

ゴルゴーン3姉妹の1人である。名前は「女王」を意味する。姉はステンノー(「強い女」の意)、エウリュアレー(「広く彷徨う女」あるいは「遠くに飛ぶ女」の意)と呼ばれ、メドゥーサは三女に当たる。
美少女であったメドゥーサは、海神ポセイドーンとアテーナの神殿の1つで交わったためにアテーナの怒りをかい、醜い怪物にされてしまう。別の伝承では、彼女はもともと美少女であり、特に自分の髪を自慢としていたため、アテーナーと美を競ってその髪を蛇に変えられたとされている。これに抗議したメドゥーサの姉たちも怪物に変えられてしまう。姉のステンノーとエウリュアレーは不死身であったが、メドゥーサだけはそうでなかったため、ペルセウスに討ち取られたとされる。
見た者を恐怖で石のように硬直させてしまうとされる。頭髪は無数のヘビで、イノシシの歯、青銅の手、黄金の翼を持っている(腰に蛇をまいた姿や、イノシシの胴体と馬の下半身になった姿で描かれることもある)。

海の神であるポセイドーンの愛人であり、ポセイドーンとの間に天馬ペーガソスと巨人クリューサーオール(「黄金の剣を持てる者」の意)をもうけた。

メドゥーサはペルセウスによって首を切り落とされ、退治された。切り落とされたメドゥーサの首から滴り落ちた血はペルセウスによって2つの瓶に集められ、アテーナーに献上された。右側の血管から流れて右の瓶に入った血には死者を蘇生させる効果が、左側の血管から流れて左の瓶に入った血には人を殺す力があったとされる。アテーナーは後に、死者を蘇生させるメドゥーサの血をアスクレーピオスに授け、彼はこの血を混ぜた薬を使用した。
ペルセウスは海から突き出た岩に縛り付けられた美女を見つける。その美女の名はアンドロメダーといい、母親カッシオペイアが自分の娘アンドロメダーの方が海のニュンペーより美しいと公言したため、海神ポセイドーンの怒りに触れ、海の怪物ケートス(クジラの意だが、実際は海竜のような姿をした怪物)の生贄にされるため、岩に磔になっているのだという。可哀相に思ったペルセウスは、美女を助けることを約束する。
美女を襲いに来た海の怪物に剣はまったく歯が立たず、そこでペルセウスはメドゥーサの首を取り出し、怪物を石に変えた。
ペルセウスは無事に課題を終えたことの感謝の意を含め、加護してくれていたアテーナー女神にメドゥーサの首を贈る。アテーナーは自分の盾であるアイギスにメドゥーサの首をつけ、最強の盾とした。(Wikipediaより)


メドゥーサの首を切り落としたペルセウス。アントニオ・カノーヴァ作『メドゥーサの頭を持つペルセウス』(1800年頃) バチカン美術館所蔵。(Wikipediaより)


ウフィティ美術館のテラスにある 「メドゥーサの頭を持つペルセウス」

(Webサイトより)

アテネの街中のレストランから見た夕日のパルテノン神殿

夕日がアクロポリスの丘の向こう沈んで、アクロポリスの丘とパルテノン神殿に照明が当てられて美しい。
アフロディテ像
ローマ神話ではヴィーナスをアプロディーテーに対応させている。
愛と美と性を司るギリシア神話の女神, 生殖と豊穣の女神。
ヘーシオドスの『神統記』によれば、クロノスによって切り落とされたウーラノス(クロノスの父)の男性器にまとわりついた泡(アプロス)から生まれ、生まれて間もない彼女に魅せられた西風が彼女を運び、キュテラ島に運んだ後、キュプロス島に行き着いたという。彼女が島に上陸すると愛と美が生まれ、それを見つけた季節の女神ホーラーたちが彼女を飾って服を着せ、オリュンポス山に連れて行った。オリュンポスの神々は出自の分からない彼女に対し、美しさを称賛して仲間に加え、ゼウスが養女にした。(Wikipediaより)
ボッティチェリの「ビーナス誕生」は、ギリシア神話の女神アフロディテの誕生を題材にしている。

国立考古学博物館

ギリシャ各地から出土した品々が納められているギリシャ最大の博物館。


ポセイドンのブロンズ像。1928年エヴィア島アルテミシオンの海底から偶然発見され引き上げられたという。国外に持ち出そうとして難破したのだとも。最近ではポセイドンではなくゼウスの像だという説が有力。
ゼウスとポセイドンは、クロノスを父としレイアを母とする兄弟で、ゼウスは地上をポセイドンは海を司る神となった。


ボクシングをする子供たち
紀元前1500年頃の大噴火により突如歴史から消えたサントリーニ島のアクロティリ遺跡から発掘された壁画。


水やワイン、穀物などを貯蔵していた壺。黒をベースにした黒絵と赤をベースにした赤絵がある。

アガメムノンの黄金のマスク
1872年、ドイツの考古学者シュリーマンがミケーネ遺跡の発掘調査中に円形墓地から発掘された。

 

アテネ市街のアクロポリスが見える通路。

アクロポリスの丘の周辺は土産物屋やテラス席つぎのレストランなどがあり、地元の人と観光客でにぎわっている。

   

オリンピアの遺跡



ゼウス神の妻であるヘラの神殿。

ヘラ神殿

古代ギリシャのゼウス神に捧げる運動競技会&祭典のオリンピック大祭が行われた場所。ゼウス神の聖地。1989年にユネスコの世界遺産に登録された。

最初は競技としては短距離走のみだったが、回を重ねるごとに競技数は少しずつ増え、レスリングやボクシング、円盤投げ、槍投げ、走り幅跳びなど、現在行われている競技の原型が生まれた。
参加できるのは成人のギリシア人男子のみで、会場への女性・子供・奴隷の立ち入りは禁止されていた。不正を防ぐために全裸で競技が行われた。

ヘラはゼウスの正妻で実姉。ゼウスには逆らわないが、浮気性のゼウスの相手や子供には意地悪で怖い女神。

ゼウス神殿も近くにあるが石柱が1本立っているのみ。神殿跡の周りには石材がびっしり転がっている。
ヘラ神殿の前の右側に石の祭壇のようなものがある。ここで近代オリンピックの聖火配火式はこの場で行われる。

第1回大会が行われたのは、紀元前776年だったという。

 

スタジアムの入口のアーチ

オリンピックのスタジアムの入口としては少し寂しいような気もするが、地方の競技場の入口としては立派なものだろう。紀元前の競技場の発想が現代の競技場づくりに受け継がれて生きているのが感じられる。

スタジアム(競技場)

紀元前4世紀中頃に造られたとされる。トラックは幅が30m、長さは192m。女性禁制、観客席はないが約4万人を収容できた。ピーク時には14〜15万の観客が集まったという。
現在は、単なる運動場のようだが、紀元前の競技場かと思うと、なぜか草野球や草サッカーのようでうれしくなる。思わずスタートラインから走り出す人も数人いた。

 

ミケーネの遺跡 シェリーマンが発掘



アトレウスの宝庫または アガメムノンの墓といわれる。紀元前1250年ごろに建設された。入り口の上にあるまぐさ石は120トンの重量がある。墓として使われていた期間は不明。シュリーマンが1879年にミケーネのアクロポリスのアゴラ地下に竪穴式墳墓を発見したときには既に見つかっていた。

ギリシャ・ペロポネソス地方、アルゴス平野に広がる小高い丘に、かってホメロスが「黄金に富むミケーネ」とうたったミケーネの古代都市遺跡がある。ドイツの考古学者シュリーマンにより1876年に発掘された。シュリーマンは1870年にトルコにあるトロイ遺跡の発掘を開始しそれをを継続しながら、その後ギリシャのミケーネ遺跡を発掘した。彼は発掘物を私物化するなどいろいろ悪評があるが、トロイとミケーネを発掘した功績は評価されされている。


アトレウスの宝庫の内部の巨大なドーム


獅子門、紀元前1350年頃に作られたといわる。
ミケーネ文明の建築は堅牢な城壁で囲まれ閉鎖的なものだった。
ミノア文明(クレタ文明)の建築が開放的であったのに対し、ミケーネ文明の建築は模倣的で巨石を用い、円頂墓を作る等、堅牢な城壁で囲まれ閉鎖的なものとなっている。これは、外敵の脅威にさらされる可能性があった為と考えられている。

ギリシャの時代区分における紀元前1600年頃から紀元前1100年頃までの期間は、同地にちなんでミケーネ時代と呼ばれている。 紀元前1350年頃の全盛期、城塞と城下町を合わせた都市域の総面積は約30ヘクタールで、その中におよそ3万人の人口が暮らしていた。(Wikipediaより)

ミケーネの王アガメムノンは、トロイの木馬で有名なトロイア戦争で、ギリシャ連合軍の総大将を務めたといわれる。

ミケーネの城砦の入口で、敵から町を守る役割をもっていた。梁の上の三角形の石に、向かい合う2頭のライオンが彫られている。


円形墳墓


円形墳墓と蜂の巣形の墳墓からは、黄金細工や副葬品が多数発掘された。シュリーマンはこの円形墳墓でアガメムノンの黄金の仮面を発掘したといわれる。現在はアテネの国立考古博物館に所蔵されている。

 

コリントス運河


コリントス運河

ペロポネソス半島の根元にあるコリントス地峡に開削されたもので、エーゲ海とコリンティアコス湾を結び、1893年に竣工、供用開始。全長6,343m。最も高いところで標高約79m。幅24m、水深8m。
1869年にエジプトでスエズ運河が開通すると、これに触発されてギリシアでもコリントス運河建設の機運が高まった。

川幅が狭いため大型貨物船の通航はできない。大きな船はタグボートに曳航されて運河を通る。年間11,000隻、一日に換算すると約30隻の船がこの運河を往来するがそのほとんどは観光用の船。
苦労して採掘した割には利用する船は少なく、ほとんどが観光船だという。


橋げたの中央には、バンブージャンプ台が。

運河の上にかかる橋には、バンブージャンプができる場所があった。上の写真は、運河に飛び込んだバンブジャンパー。

   
photo by miura 2023.05 mail:お問い合わせ
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