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プラハ
ザルツブルグ・ウイーン
ブダペスト

ハルシュタット(オーストリア)



氷河が作った湖水地帯

ダッハシュタイン山塊の山麓に位置し、ハルシュタット湖の湖畔に家々が並び立つ景観は、オーストリアの代表的な風景として観光ガイドに用いられ、近年では観光地として脚光を浴びている。一帯は、「ザルツカンマーグート地方のハルシュタットとダッハシュタインの文化的景観」として、1997年にユネスコ世界遺産に登録されている。

小さな町だが、多くの観光者が散策していた。なぜか中国と韓国の若い人に人気が高く、訪れる人も多いのだという。中国にはハルシュタットに似せた街が作られていたり、韓国ではTVの撮影場所だったりしているようだ。


この景観が世界遺産として登録されたようだ。山間の湖のほとりに立つ清楚な教会の雰囲気なのだが、多すぎる観光客にはまいった。いつか静かに散策を楽しめる日がくるのだろうか。


小さな静かな町のはずだが、なぜか観光者が多すぎる。静かな散策が似合う街なのに、自撮り棒が邪魔な観光客が多く、それが残念。早くオーバーツーリズムの嵐が過ぎ去ってくれますように。

 


岩塩坑の入口。中に入る人には多少汚れてもよい指定の服装が支給される。

古代ローマ以前にまで遡る岩塩坑がある。この塩坑からは古代の墓地遺跡が発見され、ハルシュタット文化の由来となった。このあたりは古来より岩塩で栄えたらしい。

ハルシュタットの教会に、1734年に村内の岩塩の坑道から塩漬け状態の人間の遺体が発見されたという記録が残っている。遺体と同時に発見された衣類や道具から、この遺体は先史時代の岩塩の鉱夫で、落盤などの事故により岩塩内に閉じ込められたらしいという。この遺体はソルトマンとも呼ばれる。

   

ザルツブルク(オーストリア)



ミラベル宮殿と庭園。サウンド・オブ・ミュージックのロケ地としても有名で、多くの観光客が写真を撮っていた。

ザルツブルクは、標高424メートルに位置し、人口は15万人。すぐ南西側ではドイツ領土のベルヒテスガーデンに接し、高速道路で西に140キロの位置にミュンヘン、東300キロに首都ウィーンという位置関係にある。ザルツは「塩」、ブルクは「城」の意味。
オーストリア支配下に入ったのは19世紀以降(それまでは大司教が支配するドイツ諸邦のひとつとして、オーストリアとは対等独立の関係だった)で、その直前には短期間バイエルン王国に併合されていた。歴史的経緯から、ウィーンにも増してドイツのバイエルン州との文化的関係が深い。(Wikipediaより)
市内旧市街やその他の歴史的建築物は、ユネスコ世界遺産に「ザルツブルク市街の歴史地区」として登録された。


旧市街の丘の上にホーエンザルツブルク城

モーツァルが誕生し成長した家

ザルツブルクは、モーツァルトが1756年に誕生してから25歳まで住んでいた事で、彼の音楽を愛する世界の人々にとっていわば巡礼地になっている。
毎年夏にはザルツブルク音楽祭が開かれる。


旧市街地のゲトライデ小路の様子

目立つシェーンビューエル城

ヴァッハウ渓谷クルーズ


ザルツブルグよりドナウ川のヴァッハウ渓谷のクルーズの船に乗った。
36キロに及ぶ渓谷一帯が「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」の名で世界遺産に登録されている。

城塞の跡

山上の遺跡はデュルンシュタイン城跡

渓谷の両岸には古城や修道院が点在し、天気がよければ、ビール飲みながらの最高のクルージングになる。

以前、ライン川クルーズを経験したが、ドナウ川クルーズも同じ感じ。手入れされたブドウ畑も美しい。

ドナウ川はマイン川と運河で結ばれ、マイン川を通じてライン川とも連絡している。この運河により、ヨーロッパを横断し、北海と黒海の水運が可能となった。構想自体は8世紀からあったが、本格的な工事に着手したのは1921年、完成は1992年のこと。


メルク修道院

メルク修道院


町並みを見渡す小高い丘にそびえるメルク修道院。 修道院の設立は1089年、ベネディクト会修道士に寄進された。2000年に世界文化遺産として登録された。


メルク修道院から見た街の風景

メルク修道院からの展望。
メルクの街並み。左の建物がマリア・ヒメルファールト教会。



デュルンシュタインの城館。現在はホテルになっている。背後の山頂に城跡が見える。

 

市街地とベルヴェデーレ宮殿(オーストリア・ウイーン)


聖ペーター教会 (左の写真)


4世紀後半に建てられた教会で、ウィーンの街にある教会の中では最古の建物。数回の修復をへて、今の姿になっている。

ウイーンは、ローマ帝国の宿営地ウィンドボナをその起源とし、かつてヨーロッパの数か国を支配したハプスブルク家のオーストリア帝国の首都であった。シュテファン寺院(シュテファン大聖堂)や旧市街をふくむ歴史地区は、「ウィーン歴史地区」の名称で2001年にユネスコの世界遺産に登録された。

1914年に始まった第一次世界大戦は1918年にドイツ・オーストリア側の敗北をもって終戦した。ハプスブルク家の帝国は解体し、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ポーランドなどが次々と独立、ウィーンは経済的困窮に追い込まれる。
1938年、ヒトラーは母国オーストリアをドイツに併合し、ウィーンは約700年ぶりに首都でなくなった。

1945年、第二次世界大戦でナチスは崩壊し、ウィーン攻勢でソビエト連邦軍に占領され、その後連合国の合意で米英仏ソ四か国の共同占領下に置かれた。1955年、オーストリア国家条約の締結によりオーストリアは主権国家として独立を回復した。旧ハプスブルク帝国の継承国家のほとんどが共産圏に組み込まれる中で、オーストリアでは共産党が国民の支持を得られず、経済的には西側との関係を保ったまま永世中立国として歩むことになった。(Wikipediaより)

 


グラーベン通りにある、ペスト記念柱。

大通りの歴史は12世紀までさかのぼり、バロック様式やルネッサンス時代の建物が多く建ち並び、その歴史と伝統の厚みに圧倒される。


シェーンブルン宮殿

シュテファン大聖堂


ウィーンのシンボルで、その観光名所のひとつ。ウィーン大司教区の司教座聖堂。

ホーフブルク宮殿

ハプスブルク家の歴代皇帝が住んでいた宮殿。13世紀以降、何世紀にもわたり拡張された様々な様式の建築複合体は、世界最大級とも言われ、現在はオーストリア大統領公邸になっている。
640年にわたりハプスブルク家の政治中枢であり居城であった宮殿で、ホーフブルク王宮とも呼ばれる。シェーンブルン宮殿が夏の離宮で、こちらは冬の主皇宮として使用された。

ウィーン国立歌劇場

世界でも屈指の演目数をほこるオペラ劇場。
ウィーンはドイツから北イタリアを支配していたハプスブルク君主国の首都であったため、ドイツ・オペラのみならずイタリア・オペラにとっても中心的存在であった。その帝都の威信をかけて発足した歌劇場であり、精力的な上演活動によってたちまち世界のオペラをリードする位置にのぼり、現在に至っている。


ベルヴェデーレ宮殿、現在は美術館になっている。クリムトとシーレの作品が多い。

ベルヴェデーレ宮殿

オーストリア帝国のオイゲン公の夏の離宮として建てられたもの。現在は、クリムト、シーレの作品を中心とした美術館になっている。

裏?からの眺望。


クリムト「接吻」


ちょっと画風が異なるクリムトの絵

「アダムとイブ」

館内は多くの作品は撮影自由。すばらしい。
クリムト作品の一番人気は「接吻」。黒山の人だかり。集団が過ぎてようやく正面から撮影できるかと思いきや今度は絵の正面に立って後ろの人の迷惑も考えずに記念撮影に興ずる女性。これにはまいった、注意したが聞く耳持たず、平気で撮影を続けていた。
クリムトはあまり興味のある画家ではなかったが、彼の多くの作品(現物?)を見ているうちに納得できた気がした。
金色の接吻や女性の絵が多いのかと思いきや、自然な人家や植物を描いた左のような心安らぐような作品も多かった。


エゴン・シーレ「死と少女たち」

ルイ・ダヴイッド 「サン・ベルナール峠のナポレオ」


ウィーン楽友協会、夜の玄関で。
楽友協会の黄金大ホールで18世紀末の優雅なコンサートの夕べが再現される、ということになっている。

 

ウィーン楽友協会


ウィーン楽友協会の前2列目で生のオーケストラを堪能することができた。演奏者は豪華な歴史的衣装とかつらをつけている。モーツアルトを中心にハイドンの曲を演奏した。かぶりつきの席では演奏者の足しか見えないし、演奏した曲は素人の私にはよくわからなかった。
アンコールでは、さすがにお約束らしい「美しき青きドナウ」が出た。よかった、しっかり楽しませてもらった。

   
photo by miura 2023.09
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