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プラハ
ザルツブルグ・ウイーン
ブダペスト

プラハ(チェコ)



ヴァーツラフ広場より国立博物館を望む。

2023年9月、現在は中欧というようだが、かっての東欧4か国、チェコ、オーストリア、スロバキア、ハンガリーを回るツアーに参加した。
2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵略を開始してから1年と半年、ロシアはまだ侵略を止めようとしていない。そんな中、プラハといえばどうしても「プラハの春」を思い起こしてしまう。

写真はヴァーツラフ広場より国立博物館を望んだもの。この広場をロシアの戦車が埋めつくし、それをプラハの若者たちが身体を張って抗議し阻止しようとした。 1968年のチェコスロヴァキアにおける政治的自由化の時期「プラハの春」である。なにか、苦い思いがよぎる。
今はその面影はなく、ウクライナをよそにプラハの人々は自由で平和な広場の散策を楽しんでいる。

 


ヴァーツラフ広場に面したホテルや商店

プラハにて、ソ連軍の戦車が燃え上がる様子
(Wikipediaより)

ドゥプチェク

当時、チェコスロバキアは社会主義共和国としてワルシャワ条約機構の一員で共産圏に属していた。
共産党第一書記のドゥプチェクは国の政治体制の改革を推進し、「人間の顔をした社会主義」を目指そうとした。それを、ソ連主導のワルシャワ条約機構の軍隊が、ドゥプチェクが実施しようとした自由化の改革を阻止・鎮圧するためチェコスロバキアに侵攻した。50万人規模の軍隊と戦車を送り込み、チェコスロヴァキアを占領した。ソ連による軍事侵攻の犠牲者は137人、500人が重傷を負った。(Wikipediaより)

19歳の私には、「プラハの春」の意味はよくわからなかったが、ソ連のこのやり方には憤慨していた覚えがある。
面白いことに、この軍事侵攻に対し中国はソ連を非難した。北朝鮮、北ヴェトナム、モンゴルはソ連の支持を表明し、ユーゴスラヴィアとルーマニアはチェコスロヴァキアに同情的で軍事侵攻を非難した。アルバニアはワルシャワ条約機構から離脱した。

旧市街を走る路面電車。プラハは市営の路面電車網が発達している。
ハイカラなスタイルの電車が走っていたが、旧市街と路面電車はレトロな感じでよく街に似合っていた。

どうしたことか、1993年にチェコとスロバキアは分離してしまった。ともにNATO・EU・OECDの加盟国となっている。

 

プラハ城(チェコ)


プラハ城は世界でも最も大きい城の一つ。かつてボヘミア国王や神聖ローマ皇帝の居城であり、現在はチェコ共和国(元チェコスロバキア連邦共和国)の大統領府のある場所。
城の中心にある高い塔は大聖堂。

第二次世界大戦のさなか、ナチスによるチェコスロバキア占有中、プラハ城はナチスのの本拠地となったこともあった。

 


城の中庭

「プラハの春」の指導者だったアレクサンデル・ドゥプチェクはヴァーツラフ広場に面したバルコニーに現れ、「ドゥプチェクを城へ!」と叫ぶ民主化デモの群衆の声を聞いた。彼らの声が、プラハ城にある国家指導者への椅子へとドゥプチェクを導き、彼は民衆にとって民主主義と自由のシンボルとなった。(Wikipediaより)
現在は城内の大部分が観光客に公開されているが、大統領府としても使われている。


プラハ城の中央にそびえる大聖堂

ミュシャの「ヒアシンス姫」と「舞踏」
ミュシャは( Mucha)1860年7月24日 - 1939年7月14日)は、チェコ出身でフランスなどで活躍したグラフィックデザイナー、イラストレーター、画家。 新市街にはミュシャ美術館がある。


プラハ城の壁に沿って造られた長屋のような家々は錬金術師や側近の家だったらしい。「黄金の小路」といわれている。写真の青い家にあの「変身」のカフカが住んでいたらしい。そのお店で記念にカフカとミュシャのポストカードを買った。

カフカ

ミュシャは絵なのかイラストなのかデザインなのか、よくわからないがなんとなく面白い。模写しやすいらしくて贋作が多いそうだ。


マラー・ストラナといわれるプラハ歴史地区

城壁に沿った高台から見たプラハの市街。


高台から新市街の方を望む。

   

カレル橋と旧市街



プラハ歴史地区への入口の塔門に続くカレル橋。

プラハ城・プラハ歴史地区への入口の塔門に続くカレル橋。
1357年に建設が始まり、1402年に完成した。西欧と東欧の交易ルートとしてプラハが重要な地位を占めるようになった。最初は単に石橋、プラハ橋と呼ばれていたが、1870年よりカレル橋と呼ばれるようになった。
橋を守るために3つの橋塔が建てられており、とくに旧市街側の橋塔はゴシック様式の建築として名高い。橋の欄干には15体ずつ計30体の彫刻が並んでいる。カレル橋は、プラハ歴史地区と旧市街とを結ぶ橋で、車は原則通れず、歩行者専用。

 


くカレル橋の向こうにプラハ城

カレル橋、向こうに見えるプラハ城。
カレル橋は歩行者天国となっていて、大勢の観光客と露店や楽団でにぎわっていた。

この日は天気も良く、モルダウ川をまたぐカレル橋はお祭り騒ぎのような陽気だった。人々は平和と自由の空気を満喫していた。

スメタナはチェコ出身の作曲家で、「我が祖国」が有名。連作交響詩ともいわれ「モルダウ」は、上流から下流にかけて流れていくモルダウ川の様子を曲にしたものといわれる。


カレル橋からのプラハ城の眺め。

旧市街にはいくつかのコンサート会場や美術館があって興味深い。コンサートは観光客用で、内容をよく確認することをお勧めする。ドイツ語かチェコ語ができるとよいのだが、つたない英語では通じるかどうか心もとない。
旧市街の橋のたもとのアッシジのフランシス セラファン教会のコンサートに申し込んだ。かって、モーツアルトがプラハを訪れた際、この教会で作曲し、オルガンで演奏したという。

橋のたもとにある教会。この教会で夜にコンサートがあるというので申し込んだ。

コンサートの呼び込みで時々ラッパが吹かれる。これに誘われて入った。コンサートということだったが、ビアノ・バイオリン・ソプラノ各一人の構成だった。ちょっとさびしい。女性のソプラノがすばらしかった。いい思い出になった。


旧市街地は広場を中心に広がっている。カレル橋からこの広場まで一大観光地となっていて多くの観光客でにぎ合っていた。建築様式もいろいろあるようでよくわからないが、広場に面したテラスでビールやコーヒーでもすすりながらボーとして時間を過ごすのが正解のようだ。



天文時計の塔から見た旧市街地。素晴らしくて、ことばにできない。

チェコ・プラハの旧市街は、ゴシック様式、バロック様式、ロココ様式などあらゆる時代の建物に囲まれた美しい街。
左側の塔のある建物は旧市庁舎の天文時計。1時間ごとに簡単なからくりが動く。何がどう動いたのかよくわからなかった。この塔の上に入場料を払って歩いて登った。ここからの旧市街の眺めは美しかった。


旧市庁舎の天文時計と塔。こんな古い4、500年前の建物が補修されながら現役で立っている。なんともいい味を出している。


夜の旧市街広場。
夜の9時頃だが、塔や街は照明で照らされ、広場は昼間と同様、多くの人でにぎわっていた。夜遅くまでお客さんを楽しませてくれる。

 

チェスキー・クルムロフ城(チェコ)



古代ローマの水道橋のような陸橋。いや、お城の建物を結ぶ通路のようだ。

オーストリア中北部のザルツブルグに向かう途中、チェコのチェスキー・クルムロフ城を観光した。
バスの駐車場を出ると、目の前に写真にあるような古代ローマの水道橋のような陸橋が現われる。

チェコ共和国南ボヘミア州チェスキー・クルムロフにある城である。
多数の歴史的な建築物を含む城であり、18世紀に作られたバロック劇場が保存されているほか野外回転劇場、世界遺産に指定されているチェスキー・クルムロフの一部として多くの観光客を集めている。 この城はチェコでプラハ城に次いで2番目に観光客が多い城だという。
ボヘミアの有力な一族であったヴィートコフ家により最初の城が建設されたのは1250年より前のこと。


チェコのチェスキー・クルムロフ城の案内板

1992年にはUNESCOより世界遺産に指定された。
中庭を5つ有し、それぞれの中庭を囲むように宮殿が建っている。ゴシック建築、ルネサンス建築、バロック建築など、さまざまな建築様式がいりまじっている。40ほどの建物があり、中世の塔や博物館、大広間、ゴシック庭園などもある。西側にはプラーシュティ橋がある。1992年には「チェスキークルムロフ歴史地区」として世界遺産に指定された。(Wikipediaより)

 

城の内部も興味深いが、馬蹄形のように張り出した地形につくられた町が、絵のように美しい。
歴史地区だけあっておそらく中世の街の面影を残しているのだろう。時間が止まったような感覚を楽しめる。

 


通路の窓から見たクルムロフの街
   
photo by miura 2023.09
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