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プラハ
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ブラチスラバ城(スロバキア)



四隅の塔が、テーブルがひっくり返ったようだとも言われるブラチスラバ城。

1945年、ナチス・ドイツの支配から逃れチェコスロバキア共和国が再興される。
1969年 「プラハの春」
1989年11月、ビロード革命。共産党政権が解体される。
1993年1月1日、チェコとの連邦を解消(ビロード離婚)。

スロバキアの首都ブラチスラヴァの主城。
ブラチスラヴァ市街の真ん中を通るドナウ川を見下ろす、小カルパチア山脈(英語版)の孤立した岩丘の上に建ち、長方形の四隅に塔を持つ巨大な城である。その威容と位置取りから、何世紀にもわたって都市統治の象徴であった。


ブラチスラバ城の城壁から見たドナウ川とブラチスラバ市街


ブラチスラバ城門にある売店。Souvenirの店名?なんとなく面白くて。

ブラチスラバの旧市街を守っていた4つの門のうち現存するのは「ミハエル門」のみ。旧市街の通り。


なぜチェコとスロバキアは分離することになったのか。複雑な歴史的経緯があるようで、よくわからない。

 

   

ブダペスト観光(ハンガリー)



マーチャーシュ教会の全景

マーチャーシュ教会

教会の伝承によると、元々は1015年に建造されたとある。

テラス?城壁からの眺望がよい。


国会議事堂

内部は観光客にも開放されている。議会といってもほとんど観光施設に近く、内部は一見の価値あり。

ハンガリー動乱は、1956年10月23日よりハンガリーで起きた、ソビエト連邦(ソ連)や勤労者党政権の権威と支配に反対する民衆による全国規模のデモ行進・蜂起をいう。ハンガリー政府側がソ連軍に要請した鎮圧によって市民約3,000人が犠牲となり、20万人以上が難民となり国外へ亡命したとされる事件。
ハンガリー政府はソ連軍に出動を要請したが、暴動は地方に広がり、労働者はゼネストに入った。スターリン主義者の首相が退任し、新たに首相に就任したナジ=イムレは複数政党制の導入などの改革を図り、ワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリーの中立を表明した。
だが、ソ連の介入。ハンガリーの革新を「反革命」と断定したソ連(フルシチョフ、ブルガーニン首脳部)は、反ソ暴動と位置づけて軍事介入に踏み切る。(Wkipediaより)

1968年の「プラハの春」にも社会主義国家で最初に正当に評価を下した。
そして1989年10月23日、ハンガリーは一滴の血を流す事もなく社会主義路線を放棄してハンガリー第三共和国を樹立された。10月23日は1956年にハンガリー動乱が勃発した日付でもあり、この日は現在「1956年革命、および共和国宣言の日」としてハンガリーの祝日に制定されている。(Wkipediaより)


夜の国会議事堂。夜も観光サービスの仕事をしている。

ハンガリーの現政権は、ロシアのウクライナ侵略に対して唯一ロシア寄りの姿勢を示している。自身はEUやNATOに加盟しながらも、民主主義は後退するし、親ロシアの傾向を強めている。
スロバキアと同様、 エネルギーなどのロシア依存も強く、ロシアとの距離感は複雑なようだ。
ブダペストの街の雰囲気は、ヨーロッパ風でもあり、共産圏だったソ連時代の雰囲気も残っているようだ。


夜の「くさり橋」と王宮。この橋を散歩しながらの夜景は過剰に美しい。


くさり橋のたもとの絵かきブロンズ像。

   
   
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