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ジャイプール Jaipurのアンベール城 [地図]



丘の上のアンベール城

アンベール城

 ジャイプールは、デリーの南西約260kmに位置し、ラージャスターン州の州都である。2010年の都市地域の人口は305万人。約10kmの赤い城壁に囲まれ、別名「ピンク・シティー」と呼ばれる。ジャイプルという呼び方が実際の発音に近いようだ。
 アンベール城は、1727年、当時この地を治めていたラージプートの有力氏族、カチュワーハー家の当主サワーイー・ジャイ・スィン2世によって建設が開始され、その後150年間にわたり改築が続けられた。
 アンベール城は小高い丘の上に建っていて、観光客は象やジープに乗って城まで登ることができる。

 丘の下には池がある。渇水期には水がなくなってしまうこともある。池の周りに駐車場があり、観光客はそこから象や車で城に登ることになる。


 シープより象の背中に乗って城のある丘に登るのが人気のようだ。ただ、象に乗る順番待ちに1時間かかるとのこと。私たちはシープで上がったが、象に乗ってみたかった。乗った人の話では、揺れが大きく乗り心地はよくないとのこと。

象の上の籠には同時に2人しか乗れない。

 とにかく象の乗り物が観光客には人気。象は80頭いて、下の駐車場から数珠つなぎで往復しているが、象の労働管理を考えて午前中だけしか営業しないのだとか。かって、象を酷使して観光客を運んでいて事故を起こしたことが教訓になっている。インドの城には象が似合う。


ガネーシャ門。この建物から先は後宮となる。

 ジャイプルの藩王(マハーラージャー)は、イギリスがインドの大部分を植民地化したイギリス領インド帝国時代においても、イギリスに対して一定額の税金を納めるなどして、従属はしても間接的なものにとどめて、領地の自治権の保証を得ていた。そのため、デリーやアーグラーなど、ムガル帝国の直轄領を経てイギリス領インド帝国の直接統治下に置かれた都市に比べ、インド的な雰囲気をより強く残しているという。1876年にはヴィクトリア女王(この翌年インド皇帝となった)の息子、アルバート王子がこの地を訪れマハラジャ一家の歓待を受けた。この時に市街の建物をピンク色に塗ったのをきっかけに、伝統的に建物にピンク色の塗装が施されるようになり、現在でも「ピンク・シティー」と呼ばれている。

 現在では城壁の外側に新市街が形成され、駅なども新市街にある。王族一家は1947年のインド独立後も旧市街の中心にある「シティ・パレス」に居住しており、その一部が博物館として公開されている。(Wikipediaより)


城の中庭の広場。開放的で気持ちがよい。

 城の中は開放的で明るい。テラスから中庭をみると、向こうの山も見え、爽快な気分になる。屋根に乗った半球の帽子がインド風。
 城から下の池を見下ろす。池の中には幾何学デザインの庭園がある。


 宮殿の中は、イスラム的なシンメトリックなデザインが多い。シンプルで明るく、色使いもハイセンス。

イスラム風の中庭。
 後宮にある中庭。イスラム風の幾何学的な庭で、中央には噴水がある。

 城の隅っこで休んでいる女性がいた。足元にはほうきがあり掃除婦さんのようだ。インド女性のサリーはお城ともよくマッチする。

鏡の細工がほどこされた部屋。

謁見の間の様子。


 ガネーシャのデザイン。これがイスラム+ビンドゥー文化・建築様式か。


 気持ちのいいテラス。
  周りを取り囲むすべての山の稜線に、万理の長城のような城壁が築かれている。

コブラ使い?

 城の周りには、怪しい蛇使いたちがいた。気になって近づくと写真をとってもいいとのこと。当然有料。彼らは笛を吹いてコブラを踊らせて、見物人から見物料をいただくというのが仕事のようだ。よく見ているとコブラの動きが怪しい。とうとうコブラがゴム製であることがバレてまった。見物料をとっておきながら、なんという商売。お金を払った観光客もあまりのバカらしさに、誰も文句をいう人はいない。そうそうに立ち去る。
  こういう観光客だましではインドの伝統産業が泣いてしまう。本物のコブラを笛の音で操ってこそ、インド人だと思うのだが。

 

お城のお勝手から持ち出してきた鍋だという。1000人分の料理が一度にできるというが、この煮物をどう管理し制御すればよいのだろうか。日本でも芋煮会でクレーンを使って具材をかき回しているのをテレビで見たが、この鍋はそれに使えるのではないか、などと考えた。

 お城を取り巻く貴族・豪族の屋敷跡。この建物も整備して公開する予定だとか。

 ジャイプルの街を歩く女性の服はカラフルで軽やかでよく似合っている。
 街をちょっと歩いただけで、子供を抱えた女性が子供に食べるものをあげたいといって寄ってきた。子供に目が行ってしまい100ルピを渡した。抱えた子供や手足の不自由さをねたに物乞いすることが多い。インドの現実の一面である。
風の宮殿=ハワ・マハル

 市中に宮殿の別邸がある。王室に使える女性たちが壮大なファザード(建物の正面)の涼しい部屋から、通りの人の行き来や街の様子が楽しめるようにと造られたという。印象的な建物でシャイプルの象徴となっている。 152個の出窓がある。

シティーパレス

 丘の上の城にある宮殿とは別に、街中にある宮殿。宮殿コンプレックス全体が高い塀でかこまれている。
 宮殿の所有者は、王族の末裔でこの宮殿に住んでいて、宮殿を有料で公開している。別料金で正面の建物の居間なども見ることができるという。


王がヨーロッパ旅行したときに、この入れ物にインダス川の水を入れて持ち運び、沐浴に使ったという。

上の写真は、古城の避暑用の別荘。実は陸地とは地続き。007ものの映画の舞台になったとか。

ジャルタン・マンタル(屋外天文台)

 天文学に造詣の深いサワイ・ジャイ・シン2世が1729年に建設した。左の写真は巨大な日時計で、最大2秒単位での時間の測定が可能だという。彼はに国中に5箇所の天文台を造り、一生をかけて天文学の研究に取り組んだという。
 北極星観測儀や黄道儀などマニアックな道具をたくさん作った。天体マニアの人は楽しめるかも。


インド地方都市のメインの通りでも町並みはこんな感じが多い。

街のようす・人々の暮らし

 一般に街中の庶民の家は小さく汚い。都市部の現代的な住居との対比が目立つ。経済的な格差が目立つ。街中の通りにはゴミが散乱し、牛がゴミをあさっている。
  郊外の住宅地の中には、整備された街並みの周りを鉄条網で囲み、警備員が管理しているところもあった。これで人々は平気で暮らしているのだろうか。何か、悲しいものを感じる。


道路には牛・犬・羊そしてラクダが平気で歩いている。だれもがごく自然なこととして受け入れている。 かっての日本もそうだったのではないか。


 住民は概して明るく人なつっこい表情をしていて、救われる。

 道路事情は悪いし、電気や上下水道の基本的な公共整備・投資の不足ないし格差が目立つ。整備が進むはずの各種の投資が、いつのまにか政治家や関連企業のポケットに入ってしまっているという。政治家をはじめとして役人や警察に腐敗がはびこり賄賂社会が一般化していて、とても自浄作用は期待できそうもないという。将来にむけての教育を受けた少年少女に期待するしかないようだ。


街中や街外れには、必ずといっていいほどスラムがある。スラムに住む人々はほとんどがアウトカーストだという。

 単に貧しいというのではなく、4つのカーストのさらにその下のアウトカーストと言われる5番目の不可触民の存在がある。ヒンドゥー・カーストのもとでは生きる意味を見出し得ない人々がイスラム教や仏教に改宗する場合も多いという。貧しいイスラム教徒の中には、自分の子供に教育を受けさせる意義を認めず、無償化や制服支給などのサービスも受けずに、子供に自分の仕事を手伝わせている親も多いという。


たしかにマクドナルドもあり、若者たちがたむろしていた。

デカン高原には、美しい田園風景が続く。小麦畑やさとうきび畑が続く。

  憲法上はカーストは否定され平等ということになっているが、国民の8割に浸透しているヒンドゥーの輪廻や穢れ意識、抜きがたい自己保身の職業的な階層意識などが潜在しているという。カースト的な生まれによる不合理な差別意識に縛られている。インド社会は、人間に対する考えの根本的なセンスを変更しない限り、近代的な国民社会の形成は難しいのではないか。素人の私にさえ、インド社会の限界のようなものを感じてしまう。
 インド社会のエスタブリッシュメントには、それも見えているのだろうが、解決を将来に託し、自らは手を汚すことをしない。 わが身の保身と生活維持に汲々としているように見える。


デリー郊外には、工場の進出と合わせて高層マンションの建設が進んでいた。


デリー郊外には続々と高層マンションが建っているが、これでインド社会は変化しているといえるのだろうか。問題はそこにはないと思うのだが。

 デリー郊外では、工場が続々と新設され、そこで働く労働者向けに現代的な高層住宅の建設も目立つ。日本の企業のインド進出も加速しているという。インド社会は変わっていけるのだろうか。

 現代インド人には、アーリア・バラモンのくびきを断ち切る試練が課されていると思うのだが。仏教に改宗するか、ヒンドゥー教の中から輪廻やカーストを否定するような原理を自ら見出し、それを社会に浸透させていく努力を重ねるしかないのではないか。えらそうなことをいって失礼。

 コカコーラの立看。下に書いてあるヒンディー語は何?。インド・ヨーロッパ語族インド・イラン語派に分類される。インドの主に中部や北部で話されている言語で、憲法によればインドが制定している公用語の内、1番目にくる(2番目は英語)。早口でペチャペチャしゃべられても全く分からない。言語起源的にはヨーロッパ語と兄弟のようだが、面影はない。

 看板の下の文字がCoca-colaかと思っていたが、下の各国語が書いてあるCoca-colaの上から2番目がヒンディー語ということなので看板の文字は、別の言葉ということである。

英語の場合   Coca-cola
日本語の場合  コカ・コーラ
中国語の場合  可口可楽

 中国語の象形文字「可口可楽」に負けず劣らず、日本語の「 コカ・コーラ」という表記は、ヒンディー語に匹敵するユニークな表記だと思う。


インド・ヒンドィー語のユニークさは日本語に勝るとも劣らない。

何かの振興宗教の集まりのようだ。 初期仏教もこんな風に振興してきたのだろうか。

 日本語という象形文字の外国の人にとっての難しさは、漢字の他に、ひらがなとカタカナがあること。この3つの表記が複雑に混在する。1文字で意味も表す漢字は習得するとアルファベット言語以上に効果的な言語だと思うのだが、いかんせん習得の壁が高い。外国の人に閉ざされた言語というのでは、将来に不安を思わないではいられない。

 今回のインドの旅はいわゆるパック旅行で、仏蹟を訪ねるといったマニアックなものではないし、バックパッカー的インド放浪でもない。旅を終えて振り返ってみると、インドとは何なのか、やはりよくわからない。ただ、ヒンドゥーの神々とインド仏教・仏陀の跡だけ見てきたような気がする。原始仏教も興味深いが、特にヒンドゥーの神々の強烈な印象が残っている。そして、謎が一つ。仏教はなぜインドで衰退してしまったのか。ヒンドゥー・カーストを否定して出てきた仏陀がなぜヒンドゥーに取り込まれることになったのか その理由がよくわからない。

 インド人の宗教的な趣味がよくわからない。多少間抜けっぽい三大神ブラフマー・ヴィシンヌ・シバに対して、カーリーやドゥルガーの戦う女神や象面のガネーシヤなどの印象が強い。これらの趣向をみていると、インド人というのは外見によらず破壊と再生への欲求がとてつもなく強いのではないかと思ってしまう。インド人の人気No.1の神はシバ神だそうだ。シバ神は悪を懲らしめる破壊・殺戮と恐怖の神である。こういう神やカーリーのようなシヴァをもしのぐ破壊と殺戮の神を好むインド人の心理はそうとう屈折しているのではないか。この日本人とはあまりに異なる心象は何なのだろう。

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