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エローラ石窟寺院 Caves at Ellora [地図]



第10窟仏教寺院へのアプローチ。壊された門を入ると中庭の空間がある。

エローラ石窟寺院 

 アウランガーバード郊外の世界的に有名な石窟群で、市内から30Kmほど離れた村にある。岩を掘って作られたエローラ石窟寺院群は1983年世界遺産に登録された。

 34の石窟が、シャラナドリ台地の垂直な崖に掘られている。5世紀から10世紀の間に造られた仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の石窟寺院や修道院(あるいは僧院、僧坊)が共存している。
  仏教寺院の数は12窟で、石窟寺院群の南端に位置する第1窟から第12窟。ヒンドゥー教寺院(ヒンドゥー教窟)は第13窟から第29窟までの17窟、北端に位置する第30窟から第34窟までの5窟がジャイナ教の寺院となっている。 それぞれ石窟は近接している上に作られた時期も重なっており、これらの事実はインドにおける宗教の寛容性を表している、といわれる。(Wikipediaより)


仏教寺院は優雅な天女たちが出迎える。すばらしい。

仏教石窟寺院

 エローラ石窟寺院群でもっとも古い時代のものが仏教の遺構で、それらは5世紀から7世紀の間に造られた。
 第10窟は仏陀の像が掘られているチャイティヤ窟。 今でいう仏殿や本堂で、仏教石窟の中では最後期のものだという。
 入り口の天井には、左右対称の天女たちの出迎えのレリーフがあり、シンプルだが優雅な雰囲気がある。仏教もインドではずいぶん華やいだ意匠もあったようだ。
  古代、インドの女性たちはブラジャーのようなものは身に着けず、熱い気候のせいもあり、上半身は裸だったようだ。インドの女の神様は、オッパイ丸出しだが、それは普段の姿だったのではないか、とガイドさんはいっている。
  インドの代表的な仏教遺跡でもあり、日本からの観光客だけでなく、お坊さんたちもここを訪れ、許されているのかどうかはわからないが、このホールで読経するのだという。それは素晴らしい声の響だという。


部屋の中に仏陀が静かに座り、読経が響いた。(クリックで拡大)

 ホールの中は左の写真のように、もともとは木造である僧院と仏殿を模範として彫られている。
 インドの現地ガイドさんが、この部屋の天井の高いドームは声の反響が大変よく、読経の声が心地よいのだという。もし希望があれば、試の読経をサンスクリット語で行うという。拍手の後、読経が始まった。

 高いトーンで読経が始まった。ことばひとつひとつが天井に木魂し、心地よい音響を体感することができる。
 日本のお経も悪くはないが、この薄暗く、やや陰気な空気の中で、読経の声は讃美歌や聖歌より、心に染みる。高音のサンスクリットの響が心に響き、仏陀がそれを静かに喜び、仏陀の衆生救済の願いが心に染み入り、意味不明のサンスクリットが心の何かと共鳴し、心が震えるような宗教的な感動とでも呼ぶべきものが、心を満たす。
 読経が終わった。
 拍手が続いた。

 現地ガイドさんは、Ratnakar B.Shevaleさんでした。
 Arigatou Shevale san !


仏陀のうしろにはストゥーパが、左右の像は従者か。 (クリックで拡大)

 仏陀の後ろにはストゥーパと呼ばれる仏塔がある。ストゥーパはもともとは仏舎利を収めた塚のことだが、各地にストゥーパが造られるようになり、様々な形をした塔になった。インドのストゥーパは、初期型の塚の面影を残しているようだ。仏陀の塚の前に仏陀が座っているというのはどういう意味かよくわからない。ごく初期ではストゥーパや菩提樹で仏陀を象徴させていたが、後期には仏陀像が全面に出るようになったようだ。
 仏陀とは、サンスクリットで「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味である。仏陀を釈迦一人とするか何人いてもよいとするかは意見が分かれるようだ。
 インドでは釈迦仏陀一人という解釈が強いように見える。その意味では仏教は仏陀一神教だともいえる。
 仏陀は、カースト制を批判して人間の平等を説き、人としての生き方や解脱を説いた。初期仏教は宗教としての純粋性を保っていたように見える。
 日本への仏教伝来は、中国・朝鮮半島を経由して、飛鳥時代の552年とされ、百済の聖明王により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。607年には法隆寺が創建されている。 日本への仏教の紹介は遅いが、受け入れてから法隆寺建立までの期間は短い。7世紀の前半には、エローラ石窟寺院に匹敵する仏教文化が日本でも花開いていた。


仏陀の足元で祈りをささげるインド女性。

 祈りが反響するドームの天井。こういうあばら骨のような構造が音響をよくするのだろうか。
 仏陀の足元で、祈りをささげるインドの2人の女性。祈りの姿はどこの国でも厳粛なものである。

代表的なヒンドゥー寺院16窟。外見からは壮大な露天掘りであることがわからない。

ヒンドゥー教石窟寺院

 ヒンドゥー教石窟は7世紀頃から作られ始めた。 この第16窟はエローラを代表する石窟で、左の写真からは分かりにくいが、岩山を天井から掘り抜いて造られている。100年以上の歳月をかけて、上から・手前から掘り抜き、彫刻を加えた。ひとつの複雑な寺院建築物を、1枚の巨大な岩盤をくり抜き、精巧な彫刻をほどこして造るというのは、当時、どれだけのエネルギーと年月をかけて成し遂げたことなのだろうか。石を積み上げて造る建造物より丈夫だということだが、建造の困難さや技術的なものはどうなのだろうか。

 最初の石窟が5世紀から7世紀にかけ、仏教・仏陀から始まり、続いて7世紀からヒンドゥー寺院の建設が始まった。どういう事情があったのかわからないが、アジャンタ仏教石窟寺院に関わった石工たちがエローラに移り、ヒンドゥー寺院の建設にとりかかったといわれている。


門をくぐった正面でシヴァ神夫人のパールヴァティが迎える。

 寺院の玄関をくぐると、シヴァ神の第一夫人のパールヴァティが迎える。彼女はインド随一の美人ということになっていて、なかなかなまめかしい。像はだいぶ痛んだり風化しているが、彫像の表現の素晴らしさがわかる。
 このヒンドゥー寺院の主役はシヴァ神だが、パールヴァティやドルガー夫人などと一緒にいる彫刻が多い。仏教では考えられないが、インドの神様は夫人連れで描かれることが多い。その時のパールヴァティの体のラインやしぐさがかわいらしい。古代エジブトの神殿の女神やギリシャの彫刻もすばらしい造形だが、それにに比べて、優しく家庭的で愛らしく描かれているように思う。これがインドの人々をヒンドゥー教に引き込む大きな誘因になっているのではないか。インドの神様は特に女神は皆チャーミングで魅力的で、現実的・実利的である。不思議な神様たちだ。


16窟のに入って左手の広場。塔と象の石像がかなりよい状態で残っている。

 寺院の周りは回廊のように広い通路が造られている。広場の塔や象も1枚岩から掘り出されたものである。ヒンドゥー寺院は、象が並んで支えていることが多い。象の造形もまた見事である。

門の右上のテラスから寺院の全景を撮った。 (クリックで拡大)

門の左上のテラスから寺院の全景を撮ったもの。
 日本では見たこともない石窟寺院というものを前に唖然として言葉が出ない。露天掘りで石の寺院を造るという意匠が理解を超えている。

 寺院の土台はたくさんの象が建物を支えているような構造になっている。一頭一頭の象の表情が異なり、表情豊かに個性的に掘り出されている。
 中央の寺院の周りを通路や広場が囲み、さらにその周りを岩をくり抜いた回廊と部屋が配置されていて、寺院機能を配置した壮大な造りとなっている。
 今、立って撮影しているこの場所は、かって岩の中だということをどう理解すれはよいのか。

 若者たちの集団がはしゃぎ、修学旅行や課外学習の子供たちが学習し、ガイドや先生たちの熱心な説明が木魂していた。


寺院の裏山から見た。(クリックで拡大)

 この寺院の裏山に登ることができる。ここからの眺めはデカン高原に開かれた寺院のたたずまいがわかり最高のお勧めスポットだが、手すりがついていない。崖の縁からの垂直に切り込みが入っていて注意しないと危険。 
 複雑な寺院の構成が俯瞰でき、人間の偉大な力に圧倒される。

 砂漠の石窟宝物殿(?)ペトラ遺跡とは石窟や彫像の質では比較にならない。ペトラの砂漠と交易の民ナバテア人とエローラの恐らくは農耕の民とでは、歴史と文化と宗教が違う。ペトラは紀元前後だが、エローラは7世紀頃と時代的な開きもある。それぞれ甲乙つけがたい魅力がある。

 インドヒンドゥー教の魅力は、多彩な神様の人間的な様態にあるのではないか。女神ドゥルガーやカーリーの破壊的な魅力もさることながら、シヴァ神と妻パールヴァティとの仲睦まじい夫婦像は、日本の仏像の暗いイメージが強い私には、衝撃だった。これは何の違いによるものなのだろうか。


シヴァ神と妻パールヴァティとの仲睦まじい夫婦像。インドの神様はこんなふう寄り添っていることが多い。どうも仏陀=釈迦如来は堅い。インド人が好きな神様たちとの違いがよくわかった。

 左の写真は、シヴァ神と妻パールヴァティのトー・ショットと思われる。石像は風化してい精巧な細部はわかりにくいが、若く明るい健康そうな夫婦がうらやましい。ヒンドゥー寺院は信仰と祈りの場という暗さがない。明るく楽しい雰囲気さえ醸されているように思う。この明るいおおらかさに、やや暗めの日本老人は面食らってしまう。
  シヴァとその家族は、インドの民にとって夫婦・家庭像の理想であり、インドの明るい未来への期待が反映されたものではないか。それが1500年前のインドの民の願いだとすれば、インドの民の暮らしの現実とその願いは、1500年前とそれほど変わっていないともいえるのではないか。
 ヒンドゥー教は、カーストや輪廻の暗い思想の反面、インド人の夢と希望が託されたような「破壊と再生」の神シヴァ神を生み出し、その妻ドゥルガーやカーリーのような破壊と殺戮の無敵の女神をも取り込む。これは、なんとも常人の理解を超えているが、人間ってそんなものかも知れないといった思いもあり、ある意味、魅力的である。


エローラ32窟のジャイナ教寺院

ジャイナ教石窟寺院

 エローラの北端に位置する第30窟から第34窟までの5窟がジャイナ教の寺院となっている。
 32窟は、石窟の正面の中庭に16窟と同様に外部に出現した天彫りの神殿がある。 16窟と大きく違うのは、石窟のほうも充実していること。32窟の石窟の中はジャイナ教の神殿となっており、天井にはすばらしい蓮の彫刻が見られる。

 インドではB.C.1500年頃のアーリア人の侵入にともなって発生したバラモン教が最も古く、続いてB.C.500年ころにジャイナ教が、続いて仏教が生まれた。ともに紀元前後あたりにはヒンドゥー教に取り込まれた。
 現在、ジャイナ教徒は0.5%、仏教徒は0.8%程度と言われる。ジャイナ教の戒律は厳しく、不殺生・不性的行為・無所有などはなかなか実践しがたい。仏教同様、反カーストの立場をとる。



精巧な造りのジャイナ教寺院。この造りの異様さは尋常ではない。


 ジャイナ教寺院の柱の造りは大変複雑で細密である。神様の像はヒンドゥーの神様と区別がつかないが、女神は色っぽい。上の女神のオッパイがやや黒ずんでいるが、子宝や安産を祈願して、さわっていくためだという。


32窟のジャイナ教開祖マハーヴィラ像。

 修行生活に関する規定は多くあるが、基本は出家者のための五つの大誓戒は次のとおり。
 (1)生きものを傷つけないこと(アヒンサー)、
 (2)虚偽のことばを口にしないこと、
 (3)他人のものを取らないこと、
 (4)性的行為をいっさい行わないこと、
 (5)何ものも所有しないこと(無所有)である。
(この戒律は、仏教とほとんど差がない。ただ。(4)は仏教では性的行為ではなく、邪淫となっている。)
 ジャイナ教徒は、生物不殺生・菜食主義者が多い。根のある野菜は避ける。引き抜くときに殺生することがあるからだという。刃物は持たず、髪の毛や髭は手で引っこ抜くのだという。

  ジャイナ教開祖マハーヴィラ像は美しい神様である。仏陀とほぼ同時代の人で、姿かたちもとても似ている。似ているといえば、シバ神もヴィシュヌ神も仏陀に似ている。仏陀の方が似ているのかもしれないが。インドのみ神は皆そうである。兄弟のようなものである。だが、ジャイナも仏教もバラモン教(後のヒンドゥー教)のカースト的な不合理・不平等に対して敵対している。

 エローラ石窟の近くのレストランにて。
 テラスのブーゲンビリアの棚。熱帯にはブーゲンビリアの花がよく映えて美しい。仏教・ヒンドゥー・ジャイナの石窟を見た後の鮮やかな紫の花は心を和ませてくれる。


ダウラタバード城跡

ダウラタバード

 地方の王族の城跡である。小山の頂上の城を取り囲むように堅固な城塞が造られている。
 小山の左手のミナレットは インドで2番目の高さだという。

 バス移動の途中で、写真休憩時に撮ったもの。


タージマハルの縮小版のお墓

ビービー・カ・マクバラー Bibi-k-Maqbara

 アウランガバード市街地からちょっと外れたところにある。
タージ・マハールをモデルに作られた墓所で、実物の1/3の大きさつくられているという。
 1678年に母のラビア・ドゥラーンを偲んで息子のアザム・シャーが立てたが、予算がないため白い大理石を使ったのは建物のドームと他の一部で多くは石に漆喰を塗っている。遠目にはタージ・マハールと区別がつかない。
地元の人々には大変愛されていた、夕方や日曜日には家族連れでにぎあうという。

 

 子供たちには日本人を見るのが珍しいようで、近寄ってきて顔をまじまじと見たり写真に収めたりしていた。インドに来る外人は欧米が中心でアジア人の顔を見る機会はすくないようだ。子供だけでなく大人たちも、アジア人の集団を物珍しそうに見ていた。見物に行ったのに逆に見物されるのは何か不思議が感じがした。
 一般にインド人には日本人はどれも似たような顔で見分けがつかないという。ましてや中国人や韓国人、その他のアジア人の顔はどれも同じように見えるらしい。それなのに日本人とすぐわかるのは、インドに観光にくるアジア人は日本人と相場が決まっているらしい。台湾の仏教関係の団体も来ていたのだが。

オーランガバード石窟寺院(Aurangabad Caves)

 アウランガバード石窟はアウランガバード市街地の北方3kmの山の中腹にある。
 6〜7世紀頃のもので、第1窟から第10窟の10の石窟から構成される。仏教寺院ということだが、ヒンドゥーの寺院との違いがわかにない。
 規模がやや小さく、観光客があまり行かないため、静かに見学できるとのこと。

 地元の小学生たとが先生に引率されて見学にきていた他には、観光客はいなかった。子供たちはわれわれ観光客になついてきて、いっしょに写真をおさまっていた。インドの子供たちは明るく開放的で、人懐っこい。子供たちはズックを履いていたが、裸足になるのが好きなようで、よく靴を脱いで遊んでいた。


外見はシンプルな仏教寺院

 ここでもシヴァ神?とおぼしき神や女神たちが踊っていた。外見のシンプルさに反して、内部はヒンドゥーの神々の競演といったところだが、ここは6・7世紀頃の仏教寺院。インドの仏教寺院には、女神たちのかわいい肢体や踊りがある。

狭い中庭から奥の部屋への入り口。

 インドの子供たちは写真に撮られるのが大好き。みんなではしゃぎながら写真におさまっていた。薄暗い石窟の神様の像は子供たちには関心がなさそうだった。引率の先生も大変だ。
   
photo by miura 2013.2 mail:お問い合わせ
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