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ムンバイ エレファンタ島石窟寺院



インド門の前からエリファンタ島への通いの船が出る。

ムンバイ市街  [地図]

 ムンバイは首都のデリーに続く、インド第2位の都市で人口は2,000万人余り、かってはボンベイと呼ばれていた。半島のようになっているが、実はボンベイ島にある。島のような大陸と地続きの半島のような、地図をみてもよくわからない。かって、ポルトガル人がいくつかの島を埋め立てて地続きに作り変えたようだ。
 ムンバイは、インドで住民税が最も高く、高額所得者が多く住んでいるという。IT関連の企業も多く、インドのカーストの意識も弱く、インドの先進的な産業地域になっている。住民も水ぶくれ式に増えてインフラ整備が間に合わず、車や電車での通勤も殺人的で、限界に近づいているという。
 ムンバイの都市としての歴史は、1534年にポルトガルがグジャラートの土侯からこの地域を譲り受けたことに始まる。ポルトガル人はこの地に、ゴアの補助港としての城塞都市を築き、ここを「ボンベイ」と呼んだ。


チャトラバティ・シバジー・ターミナスと呼ばれる世界遺産の駅。

  2004年にユネスコ世界遺産に登録された現役の駅舎。早朝だったため逆光になってしまった。
 英国の植民地的・歴史的建築物ということである。最初は、ビクトリア女王の時代にちなんでビクトリア・ターミナス駅と呼ばれていた。
 外観は、ゴチック建築の教会のようだが、現在でも駅として機能している。写真をとっていると、物乞いの女性がしつこく寄ってきて閉口した。いくらかあげると駅の方へ去って行った。インド旅観光客の洗礼のようなものか。


インド門とタージマハル・ホテル。

インド門

 1661年、ポルトガルのカタリナ王女がイギリスのチャールズ2世と結婚する際、ボンベイは持参金としてイギリス側に委譲された。(Wikipediaより)

 インド門はジョージ5世とその王妃のインド上陸を記念して作られたもの。前の広場は多くの観光客と物売りとでにぎわっている。
 インド門の向こうに見える建物は、タージマハル・ホテル。 インドを代表する高級ホテルだが、 2008年11月26日のムンバイ同時多発テロでテロリストに占領され、多数の客が殺害された。特殊部隊の投入により3日後にホテルは制圧された。
 2013年2月に訪れた時にも、複数の爆弾テロがあり、イスラム過激派が問題になっていた。カースト的階層社会は貧困と格差の進行となっていっそう顕著になっているようだ。
  ノー天気な観光客はテロにもめげず旅を続ける。


エレファント等の船着き場と島とを結ぶ桟橋。この橋は歩いてもよいが、年代物の汽車で往復している(右の写真) 。機関車の外見は立派だが、エンジンは漁船などに使う焼玉エンジンのようだった。 露店ではおいしそうな果物などを売っていた。
エレファンタ島石窟寺院

 エレファンタ石窟群は、ムンバイ近海のアラビア海に浮かぶエレファンタ島にある。ムンバイのインド門の側にある船着き場から約1時間で到着する。オンボロの観光船のスピードが遅い。船の出発時刻は決まっておらず、満席になると出発するという現実的な運航状態にある。先の船が出た後では、どれだれ待たされるかわからない。この日の帰りは30分またされた。


最初の石窟へのアプローチ。約200mの山の中腹にある。

 エレファンタ島の石窟寺院は、ヒンドゥー教・シヴァ神信仰の中心地であり、グプタ朝時代に建設が始まったとされる。石窟寺院は、東西の祠堂とメインの列柱ホールから構成されている。1987年にユネスコ世界遺産に登録された。
(1) 人類の創造的才能を表現している傑作。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
だという。

 エレファンタ島に残る多くの彫刻は17世紀に、ポルトガル人が銃の練習の標的として用いられてきたという。残念な話である。キリストの像を標的にするのと同じだという想像力がなかったのだろうか。
 ポルトガル人が最初にこの島に上陸した時、象の形をした石が目に付いたためエレファンタ島と名づけられたという。

 石窟寺院の入口は列柱だけのシンプルな造りだが、内部に入るとすばらしい石のレリーフのヒンドゥーの神様がたくさんいた。


踊るシヴァ神。インドの神様は踊る。下の写真のように瞑想するシヴァもあれば、結婚式やセックスをするシヴァ神もある。インドの神様は極めて人間的な振る舞いをする。それが自然なことだと信じられている。

 左の写真はシヴァ神が踊っているところ。手は6本ついているように見える。神様だって嬉しいことがあれば踊る。上の写真も踊るシヴァ神だが、右半分は男、左半分は女の形になっている。自然との合一の象徴のようだが、神が両性具有でも平気なのがインド的。男らしさと女らしさを兼ね備えた男女両性の神は、シヴァ神(右半身)とその妻パールヴァティー(左半身)の合体した姿だと言われるアルダナーリーシュヴァラ神だともいわれる。


瞑想する三面のシヴァ神 。仏陀的なシヴァ神。日本の釈迦=仏陀像はこのあたりから来ているのかもしれない。(クリックで拡大)

  石窟は6〜8世紀に作られたようだ。列柱ホールの最深部の壁面に残る3面のシヴァ神は、三面像。 左が男性でいかつい顔、右が女性でやさしそうな顔、正面は端正で調和のとれた顔。シヴァ神像の最高傑作のひとつといえるのではないか。
 このシヴァ神は仏像を見慣れた日本人にも納得がいく顔になっている。傷みもなく素晴らしい出来栄え。ポルトガル人の射撃訓練の標的にされていた割には、よく無傷で残ったものだ。日の当たる明るい場所の像は破壊され、奥まった暗い所にある像は無傷だったということなのだろう。
  ヒンドゥー教の3神、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァはどれも似たような顔をしている。神様は、誰も実物を見たことがないため、イエス・キリストや仏陀もそうだが、特定の顔をもたない。作者のイメージの顔が形になっているだけのようだ。考えれば至極当然のことではある。
 この真面目そうなシヴァ神は大変よい顔をしているが、3面や被り物がなければ仏陀と言われても通用するだろう。一般に、仏陀の場合は裸ではなく、薄い衣まとい、頭は独特の天然パーマになっているようだ。とはいえ、インドでは、仏陀はヴィシュヌ神の9番目の権化ということになっていて、ヒンドゥーの神に取り込まれている。


大勢の人が集まる、大きなガジョマルの木。
 

インド門広場に入る入口に大きなガジョマルの木がある。ガジュマルは葉が小さくて厚く、つやがある。幹は多数に分岐して繁茂し、囲の枝から褐色の気根を地面に向けて垂らしている。その独特の姿からそれとすぐわかる。インドの中部以南の熱帯域に多いようだ。
 熱いインドでは昼間は大きな木の木陰に好んで人が集まるのだという。この大きなガジョマルの木の下にも多くの人々が集まり、小さなお店も開かれていた。


プリンス・オブ・ウェールズ博物館の外観。

プリンス・オブ・ウェールズ博物館(旧称)

 正式名称は、 チャトラパティ シヴァージ マハラージ ヴァストゥ サングラハラヤ(プリンス・オブ・ウェールズ)博物館、1905年にウェールズ皇太子だった、ジョージ5世がインドを訪問したのを記念して創立された。
 建物の入口では空港並みのものものしいチェック体制がひかれており、ペットボトルは駄目、カバンの中も覗かれる。
館内は美術、考古学、博物学のセクションに分かれている。エレファンタ島出土のシバ神像やガンダーラ美術の仏陀の彫刻、ヒンドゥーやイスラムの細密画、ひすいや象牙の工芸品なども展示されている。インドでも興味深い博物館の一つとなっている。
 時間があれば楽しめる場所だが、ツアーでは見たいものを絞るしかない。
 日本語もあるオーディオガイドを借りるのが良い。


完璧な姿で保存されたシヴァ神レリーフ。若く元気がよい。

3面のシヴァ神。エレファント石窟から出土したようだ。

 上の写真はシヴァ神の息子ということになっているガネーシャ。体は小太りの人間だが頭は象のもの。ガネーシャは商売の神・学問の神として人気が高い。日本人には頭がなぜ象なのか、いまひとつ納得がいかない。


オリエント系の部族のレリーフ。インドでこういうレリーフを見るとは思わなかったが、アーリア人やイスラムの侵入を受けたことを物語っている。やはり戦車を操り、鉄器の武器を持っているのだろうか。

 BC1500年頃のアッシリア時代のものだろうか。アーリア人侵入時代のアーリア人の肖像だろうか。


 お坊さんが、勉強中なのか読経中なのか、じっとたたずんで動かなかった。ヨガや座禅の伝統があるインドでは、こんな風景はほとんど日常のようだ。


インドでは、お昼と夜はすべてカレーが原則。チキンカレーはどこで食べても日本人の口に合いそうだ。野菜と豆はちょっとという感じ。お店により味の違いは当然ある。お米はインディカ米だから、まっそんなもの。コシヒカリのご飯をイメージしてはいけない。
ナンやチャパティは美味しいというほどのものではないが、食べられなくはない。上の写真はチャパティと思われる。
インドの水は硬水で、日本人には免疫がない。煮沸していない水は徹底して避ける。残念ながら洗った野菜もキャンセル。

インドの食事・お酒事情

 インドでは食事のたびに、ほとんど地元ビールの「キング・フィシャー」を飲んでいた。さっぱりした味で結構いける。地元赤ワインを飲んだ。ダメだった。ワインは避けるのが無難。高級レストランでもお酒を置いていないところがあった。考えてみれば、ヒンドゥー教ではお酒やタバコはご法度に触れる。インド人は原則、お酒は飲まない。このあたりはイスラムの習慣と似ている。インドでは牛は食べないが、イスラムでは食べる。ブタ肉はイスラムでは食べない。インドでもほとんで食べられていないようだ。ブタはかわいそうに、イスラムとインドでは嫌われている。 どうもいわれなき迫害のようにも思う。


これがそのキングフィシャー・ビアー。


レストランでナンを焼いている様子。

 インドの食事では一般に右手で食べると言われている。手で食事をする練習が必要なのではと思っていたが、観光客が入るホテルやレストランでは、ナイフ・ホーク・スプーンが当たり前だった。カレーとお米を混ぜて、手でつまんで食べるのは高等技術だという。せっかく期待していたのに残念。

 写真は、 レストランのナン焼き窯でナンを焼いているところ。 ナンとチャパティは同じ小麦粉類を使うが、ナンは発酵させたもの、チャパティそのままという違いがある。小麦粉の他に何を混ぜるか、どういう焼き方をするかで微妙な味の違いがあるようだ。形もナン・チャパティの違いは判らない。

 焼き立ては、ナンもチャパティもふっくらと膨らみ、小麦の焦げ色もついて、おいしそう。冷えると、チャパティはぺっちゃんこになってしまう。ナンはいくらか膨らみを維持している。やはり食べ物は、焼き立て・作り立てが一番。

   
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