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カジュラホ [地図]




東寺院群。ヒンドゥー教の寺院。

カジュラホ 東西寺院群の外壁の彫刻

 なぜかベナレスから空路カジュラホへ。
 10世紀初頭から12世紀末ごろのチャンデーラ朝時代に、カジュラーホでは、85ヶ所に及ぶ寺院が建設されたという。
  現存しているのは25ヶ所のみで、東西約2キロ、南北約3キロの約6平方キロの範囲に分布している。ヒンドゥー教寺院は、ヴィシュヌ派の寺院が主体となっている。またヒンドゥー教かジャイナ教かによって建築や彫刻に極端な差はほとんどみられず、ミトゥナ像(男女交合のエロティックな彫刻)を含む官能的なレリーフ群も共通して見られ、いずれも豊穣祈願が込められているという。

 ガジュラホの寺院の特異性は際立っている。 いうまでもなくミトゥナ像といわれる男女交合像である。これは驚くべきもので、1986年世界文化遺産指定されたが、世界トンデモ遺産としても筆頭にあげられるのではないか。


イスラム風の土台の上に建てたヒンドゥー寺院。


左の写真は、イスラム風の造りの上にヒンドゥー教寺院をたてた美しい寺院。イスラムによる破壊をさけるため、意図的にイスラム風の意匠でヒンドゥー寺院を立てたものだという。

 上の写真はガジョマルの木。インドではよく見られる美しい木。 観光客や学生たちが木の下に集まっていた。


インド人には人気があるガネーシャの像。シヴァ神の息子なので、このシヴァ神を祭るヒンドゥー寺院にも当然祭られている。

 左の写真の像はインド人に最も人気があるガネーシャ。ちょっと見には間抜けっぽいが人気者。太鼓腹の人間の身体に 片方の牙の折れた、象の頭をもった神で、4本の腕をもつ。障害を取り去り、また財産をもたらすと言われ、商業の神・学問の神とされる。
  ガネーシャには次のような由来がある。
 シヴァ神の妻、パールヴァティーが身体を洗って、その身体の汚れを集めて人形を作り命を吹き込んで自分の子供を生んだ。パールヴァティーの命令で、ガネーシャが浴室の見張りをしていた。そこにシヴァが帰ってきた。ガネーシャはそれを父、あるいは偉大な神シヴァとは知らず、入室を拒んだ。シヴァは激怒したがガネーシャはなかなか手ごわい。そこで仲間をさそってガネーシュをやっつけ、その首を切り落として遠くへ投げ捨ててしまった。
 パールヴァティーに会い、それが自分の子供だと知ったシヴァは、投げ捨てたガネーシャの頭を探しに西に向かって旅に出かけるが、見つけることができなかった。そこで旅の最初に出会った象の首を切り落として持ち帰り、ガネーシャの頭として取り付け復活させた。これが、ガネーシャが象の頭を持っている所以とされる。笑える。


壁一面にミトゥナ像のレリーフ埋めつくされていて圧巻。この情熱はどこから出てくるものなのか。(クリックで拡大)
とんでもミトゥナ像

  ミトゥナ像といわれる男女交合像で埋め尽くされた壁面。唖然、茫然の体で見上げる。とにかくすごいの一言。
 インドには古来、3大性典というものがあり、「カーマ・スートラ」 は古代インドの性愛論書として最も古く重要な文献であるとされる。まさに世界の奇書。カジュラホのミトゥナ像はこの、「カーマ・スートラ」 によるものとされるようだ。本当かどうかはわからない。そうであったとしても、なるほどという程度。
 現代の彫刻家や芸術家がここまでリアルなミトゥナ像を作ったら、社会問題になること間違いなし。ピカソも真っ青もの。宗教寺院でこんなにおおっぴらにミトゥナ像を公開していていいものか。
 ガイドさんは、古代・中世の性愛や子作りの教科書的な役割をしていたのではという。それにしては正常位はなくアクロバットな結合が多いのはどうしたことだろう。女性の顔も皆生き生きとして楽しんでいる風だった。ああ、インドの石工は何を考えながら、こんなものに情熱を傾けて造ってきたのだろう。この馬鹿げた情熱に、笑ってしまう。


階層により、同じ意匠が形を変えて繰り返されているのがわかる。

 男女結合像と宗教と。これがどうも私の内で結びつかない。昔から振興宗教などへの誹謗として、いかがわしい宗教ということで「淫祠邪教」(いんしじゃきょう)という言葉がある。まさに淫祠邪教とはカジュラホのミトゥナ寺院のためにあるようなものでは、と思ったりもした。しかし、それが地方王国レベルで組織的に行われていたとしたらどういうことになるのだろうか。支配者が変わり権力が代わっても、この寺院群は大して破壊されもせず生き延びてきた。どうしてなのだろう。おそらく、それがインドなのだろう。あらためてインド宗教の懐の広さ奥深さに驚嘆せざるをえない。この寺院が日本にあったらどういうことになっていたことか。
 そう思ったら、インド・ヒンドゥー教のこの開放的でおおらかな男女結合像に、自然との合一や、破壊と再生や、殺戮と誕生や、五穀豊穣や、生命エネルギー=エロス的表現のかたちを見たとしても、それはそれでよいのではないかと思えてくる。新ためてインド・ヒンドゥー教の多様さ、懐の広さを感じざるをえないが、一方で生まれにより階層や職業を固定させる支配イデオロギーを維持するための、庶民のガス抜き的な機能を果たしていたのではないかと訝ってしまう。


こういう格好のミトゥナ像が壁面を埋めている。

 アクロバットな格好のミトゥナ像もある。どこをどうすればとこんな結合が可能になるのか。相当高度で芸術的な技能が必要だろう。初心者には奨められない。 上の写真は像が興味深そうにバック結合を見ていた。


 ミトゥナ像の前後に意味ありげな男性や女性がポーズをとっている。それぞれ意味があって立っており、一枚の絵になっているようだ。それにしてもこの開放的でおおらかな結合かはなんなのだろうか。


寺院の中には、さらに大きな女神像が。

 寺院の内部にも、同様だがかなり大きめ女神たちが立ち並んでいる。美人で評判のシヴァ神の妻、パールヴァティーだろうか。
 古代・中世のインドの女性たちはブラジャーなどをする習慣はなくトップレスだったようだ。ガイドさんがそういっていた。オッパイを出しているのは、熱帯のインドではごく自然なことだったのだと。したがって王侯貴族の女性たちも腰に紐状のものを巻いただけで過ごしていたようだ。

 左の写真はどれも見事な女神像。大きなオッパイが誇らしげで、憂いのない明るい表情で立っている。その優美さ素晴らしさには圧倒されてしまう。女性像のオッパイが黒光りしているが、観光客が触っていくのだそうだ。インドの人には子宝祈願・安産祈願・五穀豊穣祈願となっている。私もそのご利益にあずかりたくて、おそるおそる触ってみた。リアリティがあるためつい緊張してしまった。

茫然として見上げる人

 ヒンドゥー寺院の中庭にはブーゲンビリアが群れをなして咲いていた。ミトゥナ像に覆われた寺院と紫の花のコラボはなぜかよく似合ってた。
 この寺院は、シヴァ神の男根を形どったものだとも、ヒマラヤ伝説の「カイラス山」を模したものだとも言われている。この寺院のご本尊はシヴァ神の男根=リンガである。リンガがヨーニ(女陰)に突っ立っているのが、ご本尊。すごいですね。立派なものです。
 ところで、日本の各地に伝わる男根崇拝や祭りは、インドに由来するものなのか、土着のものなのか。男根崇拝は、西洋でも五穀豊穣・子宝祈願・商売繁盛などとしてあるらしい。ある意味、全人類的な普遍性をもっているともいえるようだ。


東のジャイナ教寺院。
 東のジャイナ教寺院。男女が楽しそうに立っていたり、戯れたりしているが、西のヒンドゥー教寺院のような、目立ったミトゥナ像はない。このくらいなら、心騒ぐことなく安心して視ていられる。ジャイナ教は性愛を禁止し、仏教は邪淫を禁止している。
  
戦う殺戮の処女神ドゥルガー。なんか好きになってしまった。
戦争と殺戮が好きな美神だが、武器とともに華を持つ。
鼻ピアスが気に入って、ドゥルガーの壁掛けを買ってしまった。
家ではひんしゆくをものともせず、飾ってある。

インド・ヒンドゥー教の女神たち

 ヒンドゥー教は、次の神の三神一体を教義としている。
ブラフマー :宇宙の創造を司る神
ヴィシュヌ  :宇宙の維持を司る神
シヴァ    :宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神
 現在では、ブラフマー神を信仰する人は減り、ヴィシュヌ神とシヴァ神が二大神として並び称されている。仏陀は、ヴィシュヌの9番目の権化ということになっており、ヒンドゥー教に取り込まれている。

 ブラフマーの妻サラスヴァティは、智恵と芸術を司る至高の女神で、 日本では弁財天となっている。ヴィーナをつま弾く知的で優美な美女としてあらわされる

 ヴィシュヌの妻ラクシュミーは、蓮華に乗った幸福の美女神。現世利益の女神として敬われる。富と幸運の女神として 北伝仏教では吉祥天となっている。

 シヴァにはたくさんの妻がいるが、1番がパールヴァティ。豊満な乳房と肉体を持つ理想のインド美人。シヴァ神とペア、もしくは合体した姿であらわされる。多数いるシヴァの妃神の中で最もたくさんシヴァの愛情を受けているということになっている。
 パールヴァティーの化身で戦いの神が、ドゥルガー。戦う殺戮の処女神。戦うために生まれてきた殺戮の女神だということ。各地で広く信仰、敬われている。その性格とは反対に獅子(トラ?)に乗った美しい美女としてあらわされる。水牛に化けた悪魔を倒す絵が有名。

パールヴァティーの化身でドゥルガーよりも荒々しい戦いの神がカーリー。ドゥルガーが戦いの中で切れるとカーリーになるという説もある。コルカタ(カルカッタ)の地名はカーリーから来ている。


 ガネーシヤ、インドで人気が高い。シヴァ神の子供で象の頭を持つ神、鼠に乗る。富と繁栄、智恵と学問を司る。
  ガネーシャには次のような由来がある。
 シヴァ神の妻、パールヴァティーが身体を洗って、その身体の汚れを集めて人形を作り命を吹き込んで自分の子供を生んだ。パールヴァティーの命令で、ガネーシャが浴室の見張りをしていた。そこにシヴァが帰ってきた。ガネーシャはそれを父、あるいは偉大な神シヴァとは知らず、入室を拒んだ。シヴァは激怒したがガネーシャはなかなか手ごわい。そこで仲間をさそってガネーシュをやっつけ、その首を切り落として遠くへ投げ捨ててしまった。
 パールヴァティーに会い、それが自分の子供だと知ったシヴァは、投げ捨てたガネーシャの頭を探しに西に向かって旅に出かけるが、見つけることができなかった。そこで旅の最初に出会った象の首を切り落として持ち帰り、ガネーシャの頭として取り付け復活させた。これが、ガネーシャが象の頭を持っている所以とされる。
 インドでは、シヴァ神の乗り物の牛と同様に、象も神聖なものとして大事にされている。


 全身黒色で3つの目と4本の腕を持ち、目は血の赤色で、手には様々な武器を持ち、、牙をむき出しにした口からは長い舌を垂らし、髑髏をつないだ首飾りをつけ、切り取った手足で腰を被った姿で表される。カーリーの足の下にはシヴァ神がふんづけられている。シバは、勝利に酔ったカーリー神が踊り始めるとそのあまりの激しさに大地が粉々に砕けそうになったため、その衝撃を弱めるためにカーリー神の足下に横たわったという神話によっているらしい。血と酒と殺戮を好む戦いの女神である。
 こういうハチャメチャなカーリーを好むインド人って、何を考えているのだろう。


リンガとヨーニ。ヒンドゥー寺院のご神体として安置されていることが多い。

シヴァリンガ

 ヒンドゥー教の3最高神の一人シヴァは、、世界の寿命が尽きた時に世界を破壊して次の世界創造に備える役目をしているという。 破壊と再生の神と言われる。そのシヴァはこの世ではいろいろな形をとなって現れる。


祠の中を覗いてみたら。
 ヒンドゥー教のシヴァの寺院では、その像ではなくシヴァリンガが神体として安置されており、それが礼拝の対象になっている。シヴァリンガは、リンガとヨーニの2つの部分からなっている。受け皿状の円形または方形のテーブルになっているのがヨーニで、ヨーニの中心部にリンガと呼ばれる先の丸い円柱が立っている。
 ヨーニは女性器の象徴で、リンガは男性器の象徴であり、性交した状態を示す。性交しているシヴァを女性器の内側から見ている形になっている。これは、シヴァ神が女性と性交をして現われたのがこの世界で、それが我々の住んでいる世界という意味になっている。(Wikipediaより)

  ヒンドゥー教の祠はあっちこっちにあり、写真のような形状のリンガが安置されている。シヴァリンガがシヴァの象徴として礼拝の対象となっている現実は、私にはよく理解できない。ヒンドゥー教の世界理解は精神性においてよりも、現実実利的・身体妄想的であるのかも知れない。女性には世界を子宮で感じるということがあるというが、やはりよくわからない。

道はオートリクシャとバイクと人と牛のもの。

インドの車・バイク事情

 インド人の運転の荒っぽさは、筆舌に尽くしがたい。ボコボコの道でスピードを出すし、ちょっとでも遅い車がいると1車線でもむりやり追い抜こうとする。対向車が向かってきていて盛んにパッシングをする。かわす時も紙一重。
 バイクの多くバックミラーが吹き飛んでないか内側に折りたたんで走っている。それほどギリギリの運転をしているということだ。バイクの3人乗りは普通で、子供を入れた4人乗りを何度も見た。恐ろしい。
 信号無視は当たり前、走っている車がいなければ当然に交差点を突っ切る。信号で止まったりしていると何を言われるかわからない。
 オートリクシャという三輪車タクシーが庶民の足となっている。2人乗りだ普通だそうだが、10人以上乗って落ちこぼれそうになりながら走っている。 「リクシャ」というのは人力車の「人」が「」オート」に代わったものだという。日本とのどういうつながりだろうか。


オートリクシャはこんなかわいい形をしている。
 オートリクシャはインド文化圏や東南アジアでの利用が多い。走行距離を表示する機械がついているが、料金は基本的に交渉で決まるようだ。やたら小回りが利くがエンジン排気量が小さくスピードは出ない。

サトウキビを満載したトラックをよく見かけた。

 恐ろしく荒い運転で事故が起きないはずがない。あっちこっちで大破し放置された車を見かけた。
 インド人は、交通渋滞や対向車にもめげず一生懸命に真剣に運転している。車間は何cmだったのだろう。運動・反射神経全開で神業的にトリッキーなハンドルさばきの運転は、インド人の国民性が疑われるのではないか。考え直したほうがよいと思うのだが。
バイクの3人乗りは当たり前

 インド人はバイクが好きなようだ。スズキやホンダなどが進出している。純粋な日本製は高価なため少ない。国産バイクがほとんど。100〜250ccくらいの排気量が中心だが、日本のバイクに比べると性能は相当落ちるようだ。日本のバイクが、性能が良すぎるのか。
 バイクは庶民の足だがほとんどが2〜3人乗りで運転している。規制があるのかどうかわからないが、ヘルメットもなしに平気で3人乗りをしている。インドの交通事情を考えると恐ろしい。

いつまでもボールペンをくれといって離れない少年。

 外でタバコを吸っていると、自転車でやってきた青年がボールペンをくれという。学校に通っていて、勉強したいのだという。それと靴の底を見せて穴が開いていてこれもなんとかしたいのだという。 残念ながらボールペンは自分が使う分一本しか持っていない。ボールペン代として100ルピーを渡した。
 一人の少年もボールペンをほしがって、バスから離れようとしなかった。いつの日が君たちの時代が・・・、少年の将来を祈らないではおれなかった。


頭に荷物を載せて運ぶポーターたち。


 駅で、パッケージを2つ頭の上に載せてバスとホームの間の荷を運ぶ人たち。2つで40Kgを超える重さ。

 ホームにはキップがなくてもはいれるため、物乞いの家族がついてきた。昼食の残りをあげた。学校の制服を着た少女と幼児がかわいかった。この親子がなぜかなかなか離れない。ホームに座り込んでしまった。 

 道化の化粧をした一人のインド人少女が日本人観光客の前に来た。すると突然カンカンを取り出して持っていた棒でたたきだした。注目が集まると少女はホームに座り込んで、日本の越後角兵衛獅子(かくべえじし)のような踊り(?)を演じだした。体の前で両手を組み、そのまま頭から後ろに回して足から抜けた。今度は逆に組んだ手を足から回して背中から頭を回して前にもって来た。その少女は、そんな動作を組み合わせて、驚異的な柔軟性を披露したのだった。少女の熱心な曲芸的運動に拍手が起こった。
 少女はカンカンを出してお金を入れてくれという。観光客は突然の出来事に唖然としながらも、ほとんどの人がルピーを入れた。少女はお礼の会釈をすると風のように去って行った。
 その少女が観光客の前に出たとき、実は私と目があったのだ。その眼は、毅然として冷静で、プロの曲芸師のものだった。私は、少女が去った後も、感動のようなものに胸が震える思いだった。当然、写真を撮ることもできずに立っているだけだった。その少女を写真に残せなかったことが悔やまれるが、もしその写真があったり、私を見た少女の瞳が写っていたら、私のインド旅行の最高の傑作となって思い出とともに残っただろう。それほど少女は、毅然としてカッコよかった。

 面白うてやがて哀しき曲芸少女
 


食べ物を求めて駅舎に入り、レール上を徘徊するインドの牛たち。
別に珍しくもない風景のようだ。

 客車で食事をした人はゴミを車窓から捨てる。線路には牛たちが待っていてそのゴミをあさっていた。

 インドの鉄道は1853年英国が綿花を本国に送るために造られた。日本の明治5年の新橋−横浜の鉄道よ19年早い。その後、インド政府が鉄道業を引き継いだが、お金がないため安いゲージを採用した。その結果、インドには何種類ものレール幅が残ることになったとのこと。

 私たちが乗る列車はクーラー付の二等車。一等車から五等車まである。二等車は観光客が多いようだ。一等車が座席数が少ない上、二等車とかわらない。三等車は普通の人たちが乗り、四等車はさらに安く汚い。五等車は無賃乗車の人もいるという。無料ではないが無賃なのだという。たまにある検札に捉まると罰金が重いという。

   
photo by miura 2013.3 mail:お問い合わせ
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