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嵯峨日記(さがにっき)  芭蕉48歳


 嵯峨日記


元祿四辛未(しんび)卯月十八日、嵯峨にあそびて去來ガ落柿舍(らくししゃ)に到。凡兆(ぼんちょう)共ニ來りて、暮に及て京ニ歸る。予は猶暫(なほしばらく)とゝむべき由にて、障子つづくり、葎引(むぐらひき)かなぐり、舍中の片隅一間(ひとま)なる處伏處(ふしど)ト定ム。机一、硯、文庫、白氏集・本朝一人一首・世繼(よつぎ)物語・源氏物語・土佐日記・松葉集を置、并(ならびに)唐の蒔繪(まきえ)書たる五重の器にさまざまの菓子ヲ盛、名酒一壺(いっこ)盃を添たり。夜るの衾(ふすま)、調菜(ちょうさい)の物共、京より持來りて乏しからず。我貧賤をわすれてC閑ニ樂。
・・・
甘日 北嵯峨の祭見むと、羽紅尼來ル。
 去來京より來ル。途中の吟とて語る。
 つかみあふ子共の長(たけ)や麦畠
 落柿舍は昔のあるじの作れるまゝにして、處々頽破ス。中/\に作みがかれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ。彫(ほりもの)せし梁(うつばり)、畫(えがけ)ル壁も風に破れ、雨にぬれて、竒石怪松も葎(むぐら)の下にかくれたるニ、竹高フ前に袖(ゆず)の木一(ひと)もと花芳(かんば)しけれは、
 袖(ゆず)の花や昔しのばん料理の間
 ほとゝきす大竹藪をもる月夜
・・・

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畑なのか空き地なのか、その向こうに一目でそれとわかる落柿舎がある。

落柿舎と「嵯峨日記」

 2020年11月、JR嵯峨嵐山駅を出て渡月橋に向かう。ぷらぷら渡月橋を往復し秋の嵐山の雰囲気を楽しんだ。
 紅葉が始まった天龍寺の庭を鑑賞し、竹林の小径を抜け、野宮神社に挨拶して、嵯峨野をあちこち散策した。ようやく目指す落柿舎の前の畑に至ることができた。この畑は写真で見ていたのだが、何故落柿舎の前に整地された畑のようなものがあるのか疑問に思っていた。きっと落柿舎のために昔の風情を残そうという風流心からではと解したい。

 芭蕉について、「嵯峨日記」が私的には課題として残っていて心残りだった。それがどういう訳か、コロナ禍をついてようやく落柿舎を尋ねることができた。外国からの観光客が増えてから、長らく京都へは行く気がしなかった。コロナの関係で海外からの観光客がストップしているため、今が京都を尋ねる好機(ほとんどラストチャンス)と考えた。それでようやく落柿舎を訪ねることができたという次第。

 嵯峨日記の23日の句に、次のような凡兆の句がある。
 題落柿舎         凡兆
 豆植る畑も木部屋も名所哉


 その昔、落柿舎の前の畑には豆が植えられていたことがあったのかもしれない。「名所哉」は、江戸時代から落柿舎が名所だったということなのか、嵐山辺りのことなのか。


 1691年、元禄四年、芭蕉48歳。
 その前年、1690年、元禄三年には、芭蕉は一所不住そのままに、なかなか落ち着かない。その前年、「おくの細道」の旅から帰ってきたばかりだった。
 元禄四年1月、伊賀上野に帰郷。
 3月義仲寺の無名庵に滞在。
 4月〜7月まで国分山の幻住庵に暮らし「幻住庵の記」を書く。6月京都に出て凡兆宅に滞在。幻住庵に戻る。
 伊賀に帰るが、12月には大津の乙州の新宅に滞在する。
 京都の凡兆宅から、去来の別宅、落柿舎(らくししゃ)へ移り、16日間ほど滞在した。そこで「嵯峨日記」を記した。
 この年、去来・凡兆は「猿蓑」を編集する。

 かって、この庵の敷地には40本ほどの柿木があり、柿がおいしそうに熟れていた。京から商人が来て全部売ってほしいという。去来はお金をもらって売る約束をした。商人が柿を採りに来るという前の晩、「ころころと屋根走る音、ひしひしと庭にぶつかる声。夜もすがら落ちもやまず」(去来「落柿舎ノ記」)だったらしい。あくる日、商人が来た時には、柿はい一つもなっていなかった。去来は仕方がないので、商人にお金を返して帰ってもらった。こうして去来の別荘は「落柿舎」と呼ばれるようになったという。

 落柿舎のいわれはわかったが、なんとなく嘘くさい話だ。

 現在では、公益財団法人「落柿舎保存会」が維持・運営にあたっている。10月には「去来祭」が行われ、講演や直会、句会が催されている。
去来の肖像
「応応といへどたたくや雪の門」(雲英文庫)


 落柿舎の去来の別荘だが、その前は大富豪の商人の若い愛妾の別宅として造られたものだという話もあるが、本当はどうなのかわからない。けっこう瀟洒な作りだったようだが、年を経てところどころ破損しているところもあったようだ。芭蕉は、「作みがかれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ」といって楽しんでいるふうでもある。

 落柿舍は向井去来の別荘で、芭蕉は三度にわたりこの庵を尋ねている。
 去来は師である芭蕉を落柿舎に迎えるため、障子を張り替え、雑草をとったり、師芭蕉の寝室をつくったり、様々な準備を進めた。机と筆記道具一式を揃え、「文庫、白氏集・本朝一人一首・世繼(よつぎ)物語・源氏物語・土佐日記・松葉集を置」いた。豪華な器に菓子を盛り、名酒も一壺添えた。食べ物、食材も京よりたくさん持ってきて、芭蕉は貧賤を忘れて清閑・閑寂を楽しんだ。門人も毎日のように訪ねてきたり、あたりを散歩したり、独居を楽しんだり、まさに嵯峨野での別荘生活を満喫した。一所不住を標榜する芭蕉だが、たまにはこのような至れり尽くせりの別荘住まいも悪くはないといった感じか。

 去来は凡兆とともにこの落柿舎で「猿蓑」の編纂にいそしんでいたのだろう。

 去來京より來ル。途中の吟とて語る。
 つかみあふ子共の長(たけ)や麦畠
 落柿舍は昔のあるじの作れるまゝにして、處々頽破ス。中/\に作みがかれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ。彫(ほりもの)せし梁(うつばり)、畫(えがけ)ル壁も風に破れ、雨にぬれて、竒石怪松も葎(むぐら)の下にかくれたるニ、竹高フ前に袖(ゆず)の木一(ひと)もと花芳(かんば)しけれは、

 袖(ゆず)の花や昔しのばん料理の間
 ほとゝきす大竹藪をもる月夜


「ほととぎす」は、カッコウ目カッコウ科の鳥。「不如帰」や「時鳥」と書いたり、さらに「子規」がある。正岡子規も、結核を病み喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くといわれるホトトギスに喩えて「子規」と号したといわれる。

 落柿舎の去来の別荘だが、その前は大富豪の商人の若い愛妾の別宅として造られたものだという話もあるが、本当はどうなのかわからない。けっこう瀟洒な作りだったようだが、年を経てところどころ破損しているところもあったようだ。芭蕉は、「作みがかれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ」といって楽しんでいる。

 料理の間だといわれている部屋の近くに柚子の花が植えてあり、ここで生活した人の昔がしのばれることだ。
 大竹藪に月明かりがもれ、ほととぎすが鳴いている。
  これは実景だろうか、この2つの句で落柿舎の部屋のたたずまいや、嵯峨野の竹藪の月夜の様子がリアルに実感できる。

 尼羽紅
 又やこん覆盆子(いちご)あからめさかの山
 去來兄の室より、菓子・調菜の物なと送らる。
 今宵は羽紅夫婦をとどめて、蚊屋(かや)一はりに上下(かみしも)五人舉(こぞ)リ伏たれば、夜もいねがたうて、夜半過よりをの/\起出て、昼の菓子・盃なと取出て、曉ちかきまてはなし明ス。去年(こぞ)の夏、凡兆が宅に伏したるに、二疊の蚊屋に四國の人伏たり。「おもふ事よつにして夢もまた四種(くさ)」と書捨たる事共など、云出してわらひぬ。明れは羽紅・凡兆京に歸る。去來猶とどまる。

 凡兆夫婦(羽紅)と去来の5人で一つ蚊帳に入って上下なって寝たがいろいろ話が出て寝られない。とうとう起きだして、昼の菓子(くだもののこと)や盃(お酒かお茶か)を取り出して、朝方まで語り明かしたという。かって凡兆宅で二畳の蚊帳に4人で寝たことなどの想いで話などをして笑いあった。

  凡兆夫婦と去来・芭蕉では4人にしかならない。一つ蚊帳に寝たもう一人とは誰なのだろう。
凡兆の肖像
「下京や雪積上の夜の雨」 (雲英文庫)

廿二日 朝の間雨降。けふは人もなく、さひしきまゝにむだ書してあそぶ。其ことば、
「喪(も)に居る者は悲をあるじとし、酒を飮ものは樂(たのしみ)あるじとす。」「さびしさなくばうからまし」と西上人のよみ侍るは、さびしさをあるじなるべし。又よめる

 山里にこは又誰をよふこ鳥

 昔の人は、どこへ行くのも歩くしかなかった。京の街中から嵯峨野までは10km程度で3時間くらいで歩くことができる。落柿舎に芭蕉を訪ねてきて、話し込んで、その日のうちに帰れなくもないが、やはり一杯やりながら夕食を共にし、泊まっていくのが普通だったのだろう。
  1970年前後まで、こんなことは若者の間ではどこにでも普通にあった。芭蕉の時代から続く日本の古き善き伝統文化だった。みんな一途に何かを求め、議論し、喧嘩して、純粋で貧しかった。

 「悲をあるじとし」「楽をあるじとす」「さびしさをあるじ」という表現は荘子の文書にみられる表現といわれるが、面白い。
 とふ人も思ひたえたる山里の淋しさなくば住み憂からまし 西行
 この歌は「さびしさをあるじなるべし」としている。淋しさがあるじであるが、それがなければ憂いに沈むことだろうと、淋しさを楽しんでいる。こういう「わび・さび」趣味も悪くはないと思うが、現在では老人臭すぎて、あまり好まれないかもしれない。

獨住むほどおもしろきはなし。長嘯隱士(ちょうしゅういんし)の曰、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と素堂此言葉を常にあはれぶ。予も又

 うき我をさひしからせよかんこどり

 とは、ある寺に獨居て云し句なり。
・・・
宵に寢ざりける草臥(くたびれ)に終日臥。昼より雨降止ム。
 明日は落柿舍を出んと名殘をしかりければ、奧・口の一間/\を見廻りて、

 五月雨や色帋(しきし)へぎたる壁の跡

 「ある寺」とは金福寺のことだと言われている。蕪村は芭蕉を偲んで、ここに芭蕉庵を再建した。
 客が半日の閑を楽しめれば(つぶせれば)、主は半日の閑の楽しみを失う、というのだ。後に続く、「うき我をさひしからせよかんこどり」という句の導入になっている。芭蕉の心憎い演出、芭蕉の実感なのか、面白い。こんな構成と表現はなかなかできるものではない。

 能なしの寢たし我をきやう/\し

 こんな句も詠んでいる。「きゃうきゃう」はスズメ科の「よしきり」のことということだが、私はてっきり「能なしで眠たがっている」自分自身を「ぎゅうぎゅう」しているのかと思ったのだが。自分を叱責しているのか、慰めているのか、もっと寝かせといてくれといっているのか。

「 明日は落柿舍を出んと名殘をしかりければ、奧・口の一間/\を見廻りて、
 五月雨や色帋(しきし)へぎたる壁の跡

 落柿舍の受付で、投句をと言われて、俳句の記入用紙をいただいた。庭に出て、一句をひねって投句した。忘れないようにと頭に刻んだ、つもりだった。後日、この思い出を書き出そうと、思い出そうとした。やはりというべきか、私の頭の中で霞と消えてしまっていた。言葉だけで作為的な句を作ろうとすると、たいがい三ポ歩けば忘れるものだ。駄句というのはそういうものなのだろう。

 芭蕉は、明日は落柿舎を後にするという前日、一つ一つの部屋を見て回り、名残を惜しんでいる。
 色紙(壁紙か)が剥がれかかっている壁をみて、そのわび・さびを味わっている。


落柿舎の門の梁に掲げられている看板。
芭蕉が落柿舎での排席で即興でつくったとも、その前に去来が元案を作ったともいわれる。「俳諧奉行」は芭蕉の戯言か。「灰吹を棄つ」や「隣の据膳」が何をいっているのかよくわからない。

落柿舎制札

1 我家の俳諧に遊ぶべし
  世の理屈を謂うべからず
1 雑魚寝には心得あるべし
  大鼾をかくべからず
1 朝夕かたく精進を思ふべし
  魚鳥を忌むにはあらず
1 速に灰吹を棄つべし
  煙草を嫌ふにはあらず
1 隣の据膳をまつべし
  火の用心にはあらず
 俳諧奉行 向井去来


去来の墓がある墓所。西行は出家して、最初に嵯峨野のこの地に住んでいたようだ。

去来の墓のある墓所

 落柿舎の後ろというか北方向100mほどの墓所に去来の墓があり、右手に「去来先生墳」の石標がある。
 ここには去来の遺髪が埋葬されている。実際の墓は左京区吉田山の真如堂にある。向井去来は、武士をやっていたが若くして武士の身分をすてて俳人となった。

 ここを訪れた高浜虚子は「凡そ天下に去来程の小さき墓に詣りけり」と詠んだ。師芭蕉によく使え、奥ゆかしい謙譲の人だったようだ。虚子もそのような去来のひととなりに敬意を表している。

去来の墓

 芭蕉庵の後ろ(北側)に去来の墓がある。墓は極めて質素、30cm足らずの「お結び山」のような墓石。
去来は芭蕉が最も信頼した高弟で、芭蕉は「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と称えている。
 去来は芭蕉研究の最高の俳論書とされる『去来抄』(1775)を記した。また、『旅寝論』 や句集『去来発句集』 がある。

 

西行の住居跡

  墓地の隣に「西行井戸」がある。西行は北面の武士だったが、出家して諸国を巡り、多くの歌を残している。西行は出家すると最初に嵯峨野に草庵を営んだといわれ、そのとき使った井戸がこの場所だと伝わっている。
 井戸の上に西行の歌碑「牝鹿なく小倉の山のすそ近みただ独りすむ わが心かな」がある。

 

   
photo by miura 2020.11
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