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蕪村の芭蕉-金福寺の芭蕉庵



蕪村自筆の「洛東芭蕉庵再興記」

洛東芭蕉庵再興記
佛日山金福寺パンブレットより。

四明山下の西南一条寺村に禪坊あり、金福寺(こんぷくじ)といふ。土人口稱(こうしょう)して芭蕉庵と呼。階前より翆微(すいび)に入こと二十歩、一塊の丘あり。すなわち芭蕉庵の遺蹟なりとぞ。もとより閑寂玄隠(かんじゃくげんいん)の地にして、緑苔(りょくたい)や、百年の人跡を埋むといへども、幽篁(ゆうこう)なを一爐の茶烟(さえん)をふくむがごとし。水行き雲とどまり、樹老鳥眠りて、しきりに懐古の情に堪ず。やうやく長安名利の境を離るといへども、ひたぶるに俗塵をいとふとしもあらず。鶏犬(けいけん)の聲籬(こえまがき)をへだて、樵牧(しょうぼく)の路門(みちもん)をめぐり。豆腐賣小家も近く、酒を沽(か)ふ肆(みせ)も遠きにあらず。されば詞人吟(しじんぎん)客の相往来して、半日の閑を貪るたよりもよく、飢をふせぐもふけも自在なるべし。

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金福寺(こんぷくじ)へのアプローチ。ようやく探しあてた。
人の世はコロナ休み。休みといえどもコロナ中。 京の街を遊び歩くはいかがなものかとの思いもあるが、千載一遇、これを逃してはと門前に立つ。

金福寺

 京都市左京区一乗寺才形町20
 2020年11月2日、京都は1日中雨。
 蕪村・芭蕉ゆかりの地、コロナ禍をついてようやく金福寺(こんぷくじ)を尋ねることができた。
 外国からの観光客が増えてから、長らく京都へは行く気がしなかった。コロナの関係で海外からの観光客がストップしているため、今が京都を尋ねる好機(ほとんどラストチャンス)と考えて京都にやって来た。
 詩仙堂、圓光寺と回って、金福寺にようやくたどりついた。途中の案内はしっかり出ているのだが、最後の金福寺へのアプローチが分かりにくい。地元の人に教えてもらってようやく門前に立つことができた。


金福寺・本堂と庭
 

 金福寺は、近くの圓光寺の鉄舟和尚が荒廃していたお寺を再興したもので、臨済宗南禅寺派のお寺となって現在にいたっている。

 金福寺は、他の多くの有名な寺社が観光客意識が強いのに比べ、自然で質素で蕪村愛好者向けで好もしい。蕪村・芭蕉ゆかりのお寺さんは観光とは一線を画しているようだ。京都のお寺は、信者・檀家のためのお寺と観光客用のお寺があるそうだ。さしずめ金福寺は、蕪村・芭蕉愛好者のような特別の趣味・趣向をもった人のお寺と言えそうだ。
 訪れた日はあいにくの雨。 雨の日の芭蕉庵も一興、詩興というものとしたいが、やはりやや残念な訪問になった。


庭より一段高いところに見える芭蕉堂。芭蕉堂の辺りから京の街並みがよく見える。この場で蕪村は芭蕉庵を再興し、芭蕉を偲び、句会を開いていたのだろう。

 歳末弁
  名利(みょうり)の街(ちまた)にはしり貪欲(とんよく)の海におぼれて、限りある身を苦しむ。わきてくれゆくとしの夜のありさまなどは、いふべくもあらず、いとうたてきに、人の門(かど)たたきありきて、ことごとしくののしり、足をそらにしてののしりもてゆくなど、あさましきわざなれ。
 さりとておろかなる身は、いかにして塵区(じんく)をのがれん。
 としくれぬ笠着てわらぢはきながら
 片隅によりて、此句を沈吟(ちんぎん)し侍れば、心もすみわたりて、かかる身にしあらばといと尊く、我ための摩呵止観(まかしかん)ともいふべし。蕉翁去つて蕉翁なし、とし又去るや又来るや。

 芭蕉去つてそののちいまだ年くれず  蕪村
      (「蕪村文集」岩波文庫)

 

 江戸元禄期、松尾芭蕉は吟行中、金福寺の鉄舟和尚を度々訪れ親交を深めていたという。鉄舟は境内に草堂を建て、芭蕉を慕って「芭蕉庵」と名付けたが、やがて荒廃した。芭蕉に心酔していた儒者、樋口道立が庵の再興を発起したりしていたようだ。
 その後、70年ほどして蕪村が当寺を訪れた頃には、すでに庵は荒廃していた。しかし、村人たちは、「草かる童や麦うつ女」もここを「芭蕉庵」と呼びならわしていた、と蕪村は芭蕉庵再興記の中で書いている。
 蕪村は金福寺に芭蕉庵を再興してから、次のような句を詠んで、金福寺の芭蕉碑の近くに埋葬してほしいと希望している。

 我も死して碑に辺せむ枯尾花 蕪村

 蕪村の芭蕉への敬慕の念がいかに強かったかよくわかる句である。蕪村の墓は本人の望みどうり、この芭蕉庵の少し山を登ったところにある。苔むした石の階段を上りながら心の高鳴りを感じる。

(蕪村筆の芭蕉像)
 「歳末弁」は蕪村の俳文だが、「としくれぬ笠着てわらぢはきながら」(芭蕉)を静かに吟ずると、愚かな自分でも俗塵をのがれんとする気を励まし、心澄みわたり、落ち着かせてくれる、といっている。芭蕉の生き方、作句へ向かう姿勢、旅への思い、それが蕪村の心を揺り動かし、奮い立たせている様子がよくわかる。


庭の井戸と筧のおもむき。自然でいい感じ。

 蕪村は芭蕉を敬慕し師と仰いでいた。俳諧に向かう芭蕉の真摯な姿勢と俳諧革新の静かな熱情に、蕪村も心揺さぶられるものがあっただろう。師と仰ぐ芭蕉に近づきたいと念じながらも、蕪村が詠む句はどうしても芭蕉とは異なってしまう。師の求道的で禁欲的な「俳諧の誠」追求の主観性の強い句に対して、蕪村の句はやや享楽的で、主観性を抑えているが抒情的な句になっている。蕪村の、客観写実ではないが、自由で解放的な感性や郷愁の淡い抒情性が現代人のセンスにもマッチして受け入れやすいように思う。
 芭蕉の句は、以前の俳諧の言葉遊びや滑稽、諧謔趣味を超えようと、深川に隠棲し旅に身をやつし、俳諧に事物の本質に根差した表現を志向した。だが表現がやや重く、枯淡なわびさび色が強い。「軽み」や「俗に帰る」ことを指向することもあったが、やはり重く暗い。芭蕉から70年くらい後の蕪村の句は、自由で感性的でやや耽美的、現代人のセンスに近い。芭蕉は自分に厳しい求道者だったが、蕪村は感性的には自由人だった。


金福寺にある掛け軸。芭蕉の画は蕪村の直筆。
選んだ芭蕉の句は、私好みではあるが、蕪村の排風とは大分異なる。本当に蕪村の選んだ句なのだろうか。

 この芭蕉の肖像画は蕪村筆によるもの。ときに蕪村64歳。蕪村がこの寺のために揮毫し奉納されたものといわれる。この肖像画の上部には、芭蕉を賞賛した清田たん叟の撰文と芭蕉の句の中で蕪村がもっとも好んだものを蕪村自身が書いてこの画像の賛としている。それぞれ芭蕉の主観的な想いが強い、味のある句ばかり。蕪村の句とは遠くて近いような。
 こもを着て誰人います花の春
 花にうき世我酒白く飯黒し
 ふる池やかはず飛びこむ水の音
 ゆく春や鳥啼魚の目はなみだ
 おもしろふてやがてかなしきうぶねかな
 いでや我よききぬ着たり蝉衣
 子ども等よ昼がをさきぬ瓜むかん
 夏ごろもいまだ虱とり尽さず
 名月や池をめぐりてよもすがら
 ばせを野分して盥(たらい)に雨をきく夜かな
 あかあかと日はつれなくも秋の風
 いな妻や闇のかたゆく五位の声
 櫓聲(ろせい)波を打て腸氷る夜や泪
 世にふるもさらに宗祇の時雨かな
 年の暮線香買に出でばやな


蕪村筆「紅山清遊の図」 蕪村胸中の図、天橋立か。味のある南画風の画。


芭蕉庵のたたずまい。なんか修復されない方がよいようにも思うのだが。

 あいにくの雨で、芭蕉庵は閉められていて、内部は見られなかった。外観はなかなか味のある形で、茶室風でもあるが生活感のある芭蕉庵にふさわしいようにも思う。最近リフォームしているようで、茅葺き屋根も表面の壁や窓も整備されていた。天気の良い日には修復が始まるのだろう。


芭蕉庵から見た金福寺の庭


芭蕉庵の横の壁。いかにも閑古鳥が鳴き、しみじみと一人生きる淋しさにしたることができそうだ。それにしても「憂きわれ寂しがらせよ」とは、「獨住むほどおもしろきはなし。長嘯隱士(ちょうしゅういんし)の曰、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と素堂此言葉を常にあはれぶ。予も又」(「嵯峨日記」)の後に続く句。

  芭蕉庵の横の壁が修理を待っているのか、いい具合に残っている。なんという風合い。蕪村の句に次のような壁漏る煙があるのを思い出した。

 春雨や人住ミてけぶり壁を洩る 蕪村

 春雨の中、芭蕉と鉄舟和尚がお茶しながら風流や俳諧について語らっている、そんな庵の壁と柱の隙間から煙が漏れて壁を伝っている。そんな叙景を蕪村はイメージしていたのかも知れない。

 憂きわれを寂しがらせよ閑古鳥 芭蕉

 この句は金福寺で詠まれた句である。私はてっきり落柿舎でと思っていたのだが。この句碑が芭蕉庵の前にあったのだが、写真を撮りそびれてしまった。


金福寺の裏山にある蕪村の墓
 私は、芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が気に入っている。この句に出会って芭蕉が好きになったのかもしれない。蕪村もそうだったのではないかと密かに思っているのだが。蕪村の「白梅に・・・」の句は、芭蕉の「旅に病んで・・・」とはずいぶん趣が異なる。かえりみて、私の場合はどうなのだろう。

誰が建てたか蕪村の立派な墓。
 しっかりとした分かりやすい書体で好ましい。芭蕉碑の側、見晴らしの良い場所で、蕪村も満足なのではないか。

蕪村辞世の句といわれる。名句だと思うのだが、ちょっとかっこつけすぎなのでは。
 しら梅に明る夜ばかりとなりにけり

 蕪村は「しら梅」に何を象徴していたのだろうか。心安らかに朝を迎えられたように思われ、よかった。たが「明ける夜」に何を託していたのだろうか。


蕪村の住んでいたとされる住居跡。現在の建物はどこかの会社のようで蕪村とは何も関係ない。


 下京区仏光寺通烏丸西入南側。左の写真の家の前に「与謝蕪村宅跡(終焉の地)」の案内の石柱と案内板が建っている。案内板には、蕪村59歳の時の日記にある、家を見つけたことや家の周りの様子が記されている。
 次のような句を思い出した。

 下京や雪つむ上の夜の雨 凡兆

 「下京や」の上五は、凡兆の師芭蕉がつけたが、凡兆は気に食わなかったようだ。悪くはないと思うのだが、凡兆には別の思いがあったのだろう、腑に落ちなかった。面白い話だ。凡兆の句は蕪村に似て、客観・叙景性の強い句を思っていたのかもしれない。


庭から出るところにある門が、冬の雨にうるんで、気づけばとてもいい感じ。


 庭にある花守の句碑。

 花守は野守に劣るけふの月 蕪村

 一里は皆花守の子孫かや 芭蕉
 
芭蕉にしては珍しく華やいだ句だが、蕪村はそれに対抗したわけではなかろうが、渋い句を詠んでいる。花守には華やかさが、野守には侘びがある。野守には花守にない楽しみもある。


雨に煙る京の街。芭蕉庵より。
 

 受付で、蕪村が金福寺で読んだといわれる句の手書きの竹製しおりを、ついつい買ってしまった。

 畑打つや動かぬ雲もなくなりぬ 蕪村
 夏山や通ひなれにし若狭人 蕪村
 三度鳴きて聞こえずなりぬ鹿の声 蕪村
 冬近し時雨の雲もここよりぞ 蕪村

 受付でおしゃべりをしていたら、蕪村作芭蕉像の色紙をゲットした。だが、私としては、なぜか芭蕉の肖像としてはどうも納得がいかない。それぞれの芭蕉があり、蕪村があるか。それにしても残念なことは、披露すべき私の句がないこと。

   
photo by miura 2020.11
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