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幻住庵記(げんじゅうあんのき)  芭蕉47歳


 石山の奥、岩間のうしろに山有り。国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。・・・
日ごろは人の詣(もうで)ざりければ、いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸有り。蓬(よもぎ)・根笹軒(ねざさのき)をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸(こり)ふしどを得たり。幻住庵(げんじゅうあん)といふ。・・・
 予また市中を去ること十年ばかりにして、五十年(いそじ)やや近き身は、蓑虫(みのむし)の蓑を失ひ、蝸牛(かたつむり)家を離れて、奥羽象潟の暑き日に面(おもて)をこがし、高砂子(たかすなご)歩み苦しき北海の荒磯(あらいそ)にきびすを破りて、今歳(ことし)湖水の波にただよふ。鳰(にお)の浮巣の流れとどまるべき蘆(あし)の一本のかげたのもしく、軒端ふきあらため、垣根ゆひそへなどして、卯月(うげつ)の初めいとかりそめに入りし山の、やがて出でじとさへ思ひそみぬ。・・・
・・・
 かく言へばとて、ひたぶるに閑寂(かんじゃく)を好み、山野に跡を隠さんとにはあらず。やや病身、人に倦(う)んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙(つたな)き身の科(とが)を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛離祖室の扉(とばそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。楽天は五臓の神を破り、老杜は痩(やせ)せたり。賢愚文質(けんごうぶんひつ)の等しからざるも、いづれか幻の栖(すみか)ならずやと、思ひ捨ててふしぬ。

先づたのむ椎の木も有夏木立

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 鴨長明「方丈記」抄へ

近津尾神社の横、幻住庵に通じる道
 近津尾神社の横、幻住庵に通じる道。暗い林が続く。途中に清水の出る場所がある。芭蕉はここまで水汲みに降りてきたのだろうか。国分山は独立した山ではなく背後の山に連なっている。

幻住庵 [地図]

  1690年、芭蕉47歳、「おくのほそ道」の旅を終えた翌年、4月〜7月(陽暦の5月〜9月)までの4か月を国分山の幻住庵に暮らし「幻住庵記」を書く。芭蕉俳文中の秀作とされる。鴨長明の「方丈記」を強く意識した作品だか、古典である長明の「方丈記」とは比べるべくもない。
 時代が違う。長明は、平安の公家から武士に権力が移る時代、戦乱続きで明日の命も知れない時代を生きた。だが、芭蕉は江戸時代の安定した平安な時代を門人や弟子たちに囲まれて生きている。同じ無常観が底流にあるものの、隠遁生活の緊張感が違うだろう。
 「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉には、帰るべき家がない。深川の庵は人に渡してしまったから。伊賀上野の故郷や大津・膳所(ぜぜ)の門人にお世話になりながら翌年の4月に幻住庵に落ち着いた。
 写真は、駐車場から幻住庵(大津市国分町・近津尾神社の横)に向かう途中の参道ないし散歩道。杉の木が多く山陰にあるため、昼なを薄暗い。

幻住庵の門
 「幻住庵」の門。門と幻住庵は平成3年「ふるさと吟遊芭蕉の里事業」により新築されたもので、新しく立派。芭蕉の住んだ幻住庵とは別物。
 鴨長明や西行などの隠遁者は、貧しい山居生活をしていたのだろうか。彼らは下鴨神社の神官の息子であり荘園領主の息子であって、なんらかの生活の糧の裏付けがあった。我らが芭蕉先生は、どうやって生活の糧を得ていたのだろうか。幻住庵は、近江の門人膳所藩士の曲水の伯父が建てたものだが住む人もなく荒れていた。芭蕉は膳所の義仲寺からここに移り住んだ。元禄3年4月から7月までの4か月間だった。

 近津尾神社の横の小山に幻住庵がある。このあたりに芭蕉が住んでいた幻住庵があったのだろう。


蓬(よもぎ)・根笹軒(ねざさのき)をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸(こり)ふしどを得たり。幻住庵(げんじゅうあん)といふ。

 屋根は雨漏りし、壁は落ち、きつねやたぬきが住んでいるような庵だという。しかし、今は立派な庵になって、その中の部屋で管理人さんと思しき人がテレビを見ていた。芭蕉の幻住庵をしのぶすべもない。

 「行く河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまる例なし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」(鴨長明「方丈記」のはじめ)
 方丈記のはじめもよいが、終わりもよい。はじめの続きと終わりはここをクリック。方丈記はやはり無常観深い隠遁文学の傑作、芭蕉もそうとう憧れていたのだろう。
 幻住庵記の最後で、芭蕉はいろいろ「いづれか幻の栖(すみか)ならずやと、おもひ捨ててふしぬ」とあるが、方丈記の最後の「不請(ぶせい)の阿弥陀仏(あみだぶつ)、両三遍申してやみぬ」に依るものだろう。

幻住庵
 「幻住庵」 どうも芭蕉の住んでいた幻住庵とは別物のようで、芭蕉好みの侘び住まいではない。

 「おくのほそ道」で芭蕉は、黒羽の雲巌寺にある仏頂和尚の山居跡を訪ねた。仏頂和尚は芭蕉の参禅の師であり、江戸で交流があった。

竪横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば

 人が生きていくのに、本当は草の庵さえ必要ではないのだ。芭蕉はこの歌に感動して、和尚の山居跡をたずねた。それ以来、芭蕉のなかには山居の侘び住まいのイメージがあったのだろう。

 鴨長明が生きた時代は、平安から鎌倉、公家から武士の時代への過渡期。1212年、源実朝の鎌倉時代に「方丈記」は書かれた。長明は、保元・平冶の乱、藤原氏の公家政治や院政から平氏の武家政治へ、平氏からさらに源氏への動乱の時代を生きた。その間に、大火事、大地震、福原遷都の混乱と無常を経験している。

この木がその「先づたのむ椎の木」と根っこの句碑
この木がその「先づたのむ椎の木もあり夏木立」と根っこの句碑。
 この椎の木が芭蕉当時のものかどうかは不明だが、木の中心ががらんどうになっていて、ようやく命を助けてもらったという風だった。
 

 しかし、「方丈記」の生き難い時代と、芭蕉の江戸・元禄の時代では、 時代がちがう。芭蕉は仏頂和尚とも、長明とも違って、芭蕉の時間を生きるしかない。芭蕉は、このころには、俳諧の人気宗匠として多くの門人に囲まれ、自分の望んだ納得できる生活をしていたのだろう。隠遁・隠棲といっても世捨ての生活というより、俳諧の新しい境地を築き得た充足感が感じられる。
 「さすがに、春の名残も遠からず、つつじ咲き残り、山藤松にかかりて、時鳥しばしば過ぐるほど、宿かし鳥のたよりさへあるを、啄木のつつくともいとはじなど、そぞろに興じて、魂呉・楚東南に走り、身は瀟湘・洞庭に立つ。山は未申にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫峰よりおろし、北風湖を侵して涼し。比叡の山、比良の高根より、辛崎の松は霞をこめて、城あり、橋あり、釣たるる舟あり、笠取に通ふ木樵の声、ふもとの小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。」

 

「先づたのむ椎の木も有夏木立」 の素朴な句碑
「先づたのむ椎の木も有夏木立」 の素朴な句碑。

 「山居といひ、旅寝といひ、さる器たくはふべくもなし。木曽の桧傘、越の菅蓑ばかり、枕の上の柱にかけたり。」

 武士として仕官したかったがかなえられず、 仏門に入ろうととしたがうまくいかず、花鳥ににうつつをぬかして、無能無才にして俳諧の道一筋に生きてきた。我が人生に悔いなし、といったところか。

 神社の横、大きくはないが椎の木が1本たっている。その根元の石碑には、


先づたのむ椎の木も有夏木立


とある。幻住庵記の唯一の句である。

 いよいよとなったら椎の実でも食べようというのだろうか。心地よい木陰の椎の木さん、たのみますよ。

 旅に生き一所不住を旨とした芭蕉だが、気候温暖、風光明媚な湖南の地は、大変気に入ったようだ。なによりも湖南の蕉門の人々との交歓が、芭蕉には心地よかった。

 行く春を 近江の人と 惜しみける

 芭蕉にとって、いっしょに行く春を心行くまで惜しむのは、「近江の人」でなくてはならなかった。

   
photo by miura 2006.8
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