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朝日町・新湊・金沢
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黒部四十八か瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古といふ浦に出づ。担籠(たこ)の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀れとふべきものをと、人に尋ぬれば、「これより五里、磯づたひして、むかふの山陰に入り、蜑(あま)の苫(とま)ぶきかすかなれば、蘆(あし)の一夜の宿かすものあるまじ」と云ひおどされて、加賀の国に入る。
わせの香や分け入る右は有磯海(ありそうみ)
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北陸本線。富山県に入ってすぐの場所。 |
「わせの香やわけ入る右は有磯海」
芭蕉が残した紀行文「奥の細道」中の「早稲の香や分けいる右は有磯海」の句は、従来定説として新湊あたりの奈古の浜で詠まれたものとされている。が、芭蕉が越後の難所を越え、ようやく越中に入ったときの感懐を込めて詠んだもので、親知らず・市振を越えて富山に入ってすぐの場所という見方があるようだ。
芭蕉がこの句をいつどこで作ったかは、あまり問題ではない。句の印象は、早稲の香と有磯(ありそ)の海がセットで感じられる場所ということで、富山に入ってすぐのこのあたりの場所がふさわしいように思う。早稲の黄金色と有磯海の青の対比がまことに明るく、海岸べりには松の木が並び絵画的で美しい。
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富山県に入ってすぐの元屋敷という場所。「わせの香やわけ入る右は有磯海」のイメージに近いと思う。 |
有磯海は、北陸を代表する歌枕である。
「有磯海」のおおもとの出所は万葉集巻十七にある大伴家持が越中で詠んだ歌のようだ。
「かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを」
「荒磯」がいつのまにか「有磯」に変わったようだ。
荒磯の海はどこにでもあり、そして早稲を掻き分けて見えた青い海も、おそらく日本全国の原風景のひとつだろう。芭蕉のこの句の鮮烈な原風景的・原体験的イメージに、人は感動せずにおれない。日本的風景の源基には稲作文化が造り出した風景あるように思う。
[地図]
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朝日町元屋敷にある芭蕉句碑。畑の中でようやく見つけた立派な碑。 |
「わせの香やわけ入る右は有磯海」
富山県下新川郡朝日町元屋敷に芭蕉句碑がある。
地元の人に尋ね歩いてようやく探しあてた。看板があるということだったが、案内は何もなく、すぐそこという指示でも木々に覆われた数メートル先の石碑がわからなかった。大きな柿木に抱かれるように石碑が立っていた。だいぶ古いもののようだが、りっはなよい石碑だ。文字が大きく深く刻まれているため、風化にも耐えられる。せっかくのよい石碑なのだから文字はこう刻んでほしいものだ。芭蕉句碑屈指のものだと思うのだが、案内がなければせっかくの碑も隠れて見えない。案内を整備し、誰でも楽しめるように公開してはどうだろうか。
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市振を抜けると急に視界が開け、右手には紺碧の海、左手には早稲の田が広がる。黒部川をはじめ黒部四十八が瀬の多くの川が続く。
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芭蕉らは、市振を出発し、新潟県糸魚川市市振から富山県朝日町をへて、入善町に入った。ここでは馬の便が無く、人足を求めて荷物を運ばせたようだ。
市振を抜けると急に視界が開け、右手には紺碧の海、左手には早稲の田が広がる。芭蕉も左手に写真のような風景を見ながら歩んだのだろうか。
黒部川をはじめ黒部四十八が瀬の多くの川を越え、夕方、滑川に到着してそこに一泊した。この日は雨後晴、暑気がはなはだしかったようだ。
明くる日は快晴だったが、猛暑。朝、滑川市を出発して、富山には行かず、常願寺川・神通川・庄川を渡り、高岡市へと旅を続けた。猛暑のなか二人は疲労困ぱいし、この夜は、高岡に宿を取った。
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放生津(ほうじょうづ)八幡宮の境内。 |
放生津(ほうじょうづ)八幡宮
富山県・新湊市八幡町
この八幡宮の案内板によると、天平18年(746年)大伴家持が越中国守として在任中、常に奈呉の浦の風光を愛せられ、九州豊前の宇佐八幡神を勧請し、奈呉八幡宮と称したのが創始であると言われている。
お寺さんのような神社。砂地に松の八幡宮がすがすがしい。芭蕉が尋ねた奈古の浦の面影を少しだけ感じることができた。かっては神社のすぐ裏が奈古の海だったのだろう。境内には砂浜の雰囲気が残る。
芭蕉もこの境内を歩いたのだろうか。
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「わせの香やわけ入る右は有磯海」の句碑 |
境内には「あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣りする小舟こぎ隠るみゆ」の大伴家持歌碑と「早稲の香や分け入る右は有磯海」の芭蕉句碑が建っている。
写真は「わせの香やわけ入る右は有磯海」の句碑だが、さすがに年月を経て碑文は読めず石碑も中央から折れた痕がありそれを修復している。
かって、このあたりは浜辺か田んぼだったのかもしれないが、現在は住宅が密集していて俳句の面影はない。
近くの浜に「海王丸パーク」があり優雅な帆船が繋留されている。かっての湿地帯であったであろう辺りには富山新港が建設中で、芭蕉の時代の風情はもはやない。
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放生津八幡宮裏には「奈呉之浦」の標柱が。 |
放生津八幡宮裏には「奈呉之浦」の標柱がある。いつの時代のものだろうか。
海側は海浜の公園になっていて、かろうじて松の浜が美しい「奈古」の面影を残しているようだ。
公園と海の間は臨海道路が走っていて、海のそばの松林のイメージはない。芭蕉の時代はあまりにも遠すぎる。
奈古の浦 俤いずこ 放生津
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富山県小矢部市の倶利伽羅峠。 高岡市方面を望む。 |
倶利伽羅(くりから)峠 [地図]
高岡をたって埴生八幡にお参りし、源氏山、卯の花山を通り(そんな山が昔あったのか)、倶利伽羅(くりから)峠を越えた。写真は、富山県小矢部市の倶利伽羅峠。国道8号線を離れて旧道に入り「源平ライン」より山道に入る。
越中(富山県)と加賀(石川県)の国境に位置する峠で標高は277m。源平の世、木曾義仲(きそのよしなか)が活躍した古戦場で有名。
木曾の山中で育った源氏の木曽義仲(きそのよしなか)。平家追討の命令を受けて、倶利伽羅峠の一戦に牛の角に松明をつけて、平家の陣中に放した。これが火牛の術という有名な話し。牛の松明に追い立てられた平家軍は山の上から谷に逃げ下り、谷は数万の死体で埋め尽くされたという。この峠への進入路がわからずずいぶん迷ってしまった。平家の亡霊がさ迷っていたのか。
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倶梨伽羅峠の「あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風」
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卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何処と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、
塚も動け我泣声は秋の風(つかもうごけ わがなくこえは あきのかぜ)
ある草庵にいざなはれて
秋涼し手毎にむけや瓜茄子(うりなすび)
途中吟
あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風
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倶梨伽羅峠の「義仲の寝覚めの山か月かなし」の碑
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風化のため文字が読めない。案内板によるとこのような句。
義仲の寝覚めの山か月かなし(芭蕉塚)
「おくのほそ道」にはない句だが、「寝覚めの山」とはどういう意味だろうか。なぜ月が悲しいのか。わかったようでわからない。戦とはいえ多くの殺戮にさすがの義仲も寝ざめが悪かったのだろうか。
この句は、福井県南条郡南越前町今荘にある燧(ケ)城にて詠んだものだといわれている。
とんからら くりからからくり 秋の風
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金沢城の石川門口 |
金沢城
芭蕉は城をこんな間近では見なかっただろう。洗練された美しい城。
当時金沢は加賀藩百万石の城下町で、戸数1万3戸、人口5万人、尾張名古屋と同程度の規模の町で、俳諧も盛んだったという。
芭蕉の俳諧の新風を受け入れようとする人と古き俳諧に留まる人の軋轢もあったという。
芭蕉が金沢に入ったときには蕉門十哲の一人になる北枝ら多数の歓迎をうけ、10日近く金沢に留まることになる。
北枝は刀研ぎ師だが、金沢から芭蕉の旅に同行した。小松で曾良が体調を崩し中山温泉で分かれることになると、その代わりをして芭蕉に同行、案内することになった。
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金沢市兼六園内にある「あかあかと日はつれなくも秋の風」の句碑 |
金沢市兼六園内にある「あかあかと日はつれなくも秋の風」の句碑
兼六園山崎山の階段下にある。
残念ながら文字が風化して読めない。庭園を整備する予算を芭蕉の句にもさいてほしい。
芭蕉の俳文より
旅愁なぐさめ兼て、ものうき秋もややいたりぬれば、さすがにめにみえぬ風の音づれもいとどかなしげなるに、残暑猶(なお)やまざりければ、
あかあかと日はつれなくも秋の風
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犀川大橋の東側の遊歩道にある「あかあかと・・・」の句碑。 |
犀川河畔
犀川大橋の東側の遊歩道にある「あかあかと・・・」の句碑。
この句は「おくのほそ道」では金沢から小松への途中吟とされているが、金沢の犀川の橋上で詠んだ句ともいわれている。残念ながら犀川大橋からの夕日は見ることができなかったが、犀川のまわりは京都加茂川のような雰囲気があり、そこから見る暑き日の夕日はさぞ風情があることだろう。
この句碑も案内がなければほとんど判読できない。
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金沢市野町2の願念寺 |
願念寺
金沢市野町2の願念寺に一笑の塚がある。
「一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて・・・」
一笑(いっしょう)は小杉味頼。茶屋新七という製茶販売業を営んでいた。蕉門の金沢における第一人者。芭蕉も信頼していた弟子の一人だったが、芭蕉一行の到着を待たず元禄元年11月6日、36歳で早世した。芭蕉は思わぬ凶報に慟哭せずにはおれなかった。
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願念寺境内の一笑塚 |
願念寺境内の一笑塚。
一笑の辞世の句が添えてある。
「心から 雪うつくしや 西の雲」
芭蕉の「塚も動け」というような激しい句と対照的に一笑の辞世の句はあまりにもやさしい。そのような一笑を芭蕉も愛したのだろう。
一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、
塚も動け我泣声は秋の風
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一笑塚 にしがみつく蝉がら |
上の写真は、芭蕉にちなんでか蛙の置物が2つ並んでいた。芭蕉の蛙か。一笑塚に蝉のぬけがらが1つついていた。
一笑の 塚いとほし 芭蕉の蝉
一笑塚 ぬけがらひとつ 秋の風
最初に訪れたとき願念寺の門が閉まっていた。対面の家のおかあさんに、「いつもしまっているのですか」と聞いたら、「いつもは6時には開いている」とのこと。先に成学寺に行ってきますといって分かれたが、私が成学寺を訪ねているとき、親切にも「願念寺の門が開きました」と知らせに来てくれた。金沢の人の親切に感謝。
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成学寺にも一笑の塚がある |
あるお寺の入り口で。石仏たちが並んでいた。このあたりは寺町であり、とにかくお寺が密集している。土地の人に尋ねてもなかなかわからない。それぞれのお寺にはそれぞれの顔がある。願念寺から犀川寄りに広い道を挟んで成学寺がある。また途中にはカラクリ屋敷の忍者寺として有名な妙立寺があり、こちらのほうが観光客には人気があるという。
成学寺にも一笑の塚がある。
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成学寺の一笑の塚。 |
小さなお寺さんで、門を入ってすぐ左に塚がある。
願念寺のものに比べるとだいぶ小ぶりの塚だが、一笑塚のリアリティは草に埋もれる成学寺のほうがよい。いかにも芭蕉に愛された一笑の塚という感じ。いつの頃の塚だろうか。まさか江戸時代ということはないだろうが。境内が狭いので落ち着ちつく場所がないが、俳味のあるいい塚だった。
一笑と芭蕉は会ったことがなかった。だが、芭蕉は一笑の名と句は知っていた(「あら野」)。芭蕉は一笑の句のセンスを愛したようだ。一笑が生きていれば、蕉風の継承第一人者になったのではないかといわれている。小杉一笑、享年36歳。
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photo by miura 2006.8
出雲崎・市振 |
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