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 此の所、太田の神社に詣づ。実盛が甲(かぶと)・錦の切(きれ)あり。住昔(そのかみ)、源氏に属せし時、義朝公より賜はらせ給ふとかや。げにも平士(ひらさぶらひ)の物にあらず。目庇(まびさし)より吹返(ふきかへ)しまで、菊唐草(からくさ)の彫りもの金(こがね)をちりばめ、竜頭(たつがしら)に鍬形(くはがた)打(う)ちたり。実盛討死の後、木曾義仲願状(ぐわんじやう)にそへて、此の社にこめられ侍るよし、樋口(ひぐち)の次郎が使せし事ども、まのあたり縁紀に見えたり。
 むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす

太田神社の参道
太田神社は町の中なある。参道の両脇に兜や石碑が並んでいる。

太田(ただ)の神社ないし
多太(ただ)神社
(小松市上本折町)[地図]
「 さた神社」と発音するという話もある。


 寿永二年(1183年)倶利伽羅(くりから)の一戦で大敗した平家軍は、加賀国の篠原で再び源氏軍と戦うことになる。
 七十歳を越えた斉藤実盛(さねもり)は、若武者に侮られないよう白髪を黒く染め、決死の覚悟で戦いに臨むが、ついには首を打ちとられてしまう。上の写真は、髪を染めている様子を形にしていて、武将の覚悟が伝わってよい顔をしている。


実盛の兜。当然、石でできたまがい物。

 源氏方の大将木曽義仲(きそのよしなか)は幼い頃、実盛に命を助けてもらったことがあった。戦後、義仲は斉藤実盛の供養と戦勝祈願のため、兜をこの神社に奉納したのだという。芭蕉はもともと、こういう忠義と人情に引き裂かれる人間像に深い同情をよせる性分である。芭蕉は、自分の墓は義仲寺で義仲殿に隣り合わせしてほしいと望むほど、義仲贔屓の人だった。
  実盛の兜は、現在は国の重要文化財に指定されている。

 実盛の兜を石で造ったものが鳥居横に飾られている。 本物の兜が納められた宝物館は閉まっていた。公開はしていないようだ。

白い文字で読みやすい「むざんやな・・」の石碑。
白い文字で読みやすい「むざんやな・・」の石碑。

芭蕉翁の像と石碑。

 芭蕉の時代には、かぶとを見ることができたのだろう。転げ落ちる生首とかぶとかぶとの下のきりぎりす。悲劇の武将の潔い最期に芭蕉は涙する。転がったかぶとの下でただこおろぎがなくばかり。
ここで駄句。
暑き日にメットかぶりていざ倶利伽羅


安宅の関跡
安宅の関跡

安宅の関

 芭蕉はかぶとの下のきりきりすについては多くを語ったが、義経ゆかりの安宅の関については何もふれていない。
 芭蕉好みの武将義経の勧進帳の舞台を、芭蕉が見逃すはずがない。どうやら芭蕉が小松を過ぎた1689年頃には「安宅関」なるものは存在せず、芭蕉死後の天保11年(1840)3月、河原崎座で初演された『勧進帳』によって「安宅関」の名が全国的に広まったというのが実際のようだ。

 芭蕉は歌舞伎の勧進帳を見ていたとしたらどうだろう。頼朝に追われる義経主従の涙ぐましい逃走劇に感激しただろうか、それとも風流なし、ばかばかしいと相手にしなかっただろうか。

「弁慶の忠誠心、義経の勇気、富樫の仁」
「弁慶の忠誠心、義経の勇気、富樫の仁」 。富樫が主役か。


勧進帳の舞台

 兄頼朝に追われた義経は奥州平泉に逃れようとする。関守富樫左衛門泰家はいかにも怪しい山伏姿の義経主従12人の前に立ちふざがる。弁慶は富樫に怪しまれた義経を態度が悪いといって、涙を隠して打ち据える。富樫はそれを分かった上で逃走する主従の通行を許した。
 案内板には「弁慶の忠誠心、義経の勇気、富樫の仁」の3つをあげて賞賛している。 芭蕉のみならず日本人は、こういうのに弱い。

総湯と呼ばれていた共同浴場跡にたつ菊の湯
総湯と呼ばれていた共同浴場跡にたつ「菊の湯」。たいへん立派な浴場。夏の暑い盛りに訪れたので、とても湯に入る気分にはなれなかった。 昔の温泉宿では泊まるだけで、湯は共同浴場を利用していた。


山中温泉
 [地図]


温泉に浴す。其功有明に次と云。
 山中や菊はたおらぬ湯の匂
あるじとする物は、久米之助とて、いまだ小童也。かれが父誹諧を好み、洛の貞室、若輩のむかし、爰に来たりし比、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて、世にしらる。功名の後、此一村、判司の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。曾良は腹を病て、伊勢の国、長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、
 ゆきゆきてたふれ伏とも萩の原  曾良
と書置たり。
「芭蕉の館」
「芭蕉の館」

 かつては、総湯と呼ばれていた共同浴場跡にたつ菊の湯。(左上の写真)菊の湯の名称は芭蕉の「菊はたおらぬ」に由来するとのこと。昔は、旅館は泊まるだけで湯は共同浴場をつかったという。
 芭蕉は山中温泉の和泉屋に9日間泊ったが、総湯は和泉屋の向かいにあった。
 曾良は長旅の疲れか健康が思わしくなく、ここで芭蕉に分かれを告げて伊勢長島の叔父のところで養生するため出立した。

 左の写真は「芭蕉の館」。
 山中温泉での芭蕉を紹介している。町の中には芭蕉ゆかりの場所がいくつもあり、町全体で10あまりの句碑がたっているという。
 芭蕉の館の玄関の右手に、曾良が芭蕉に別れの侘びを入れている様子の像がある。具合が悪いからといって主の芭蕉を残して先に出立するというのはいかがなものか。何か訳がありそうな気がするが。

芭蕉に別れの侘びを入れている曾良
芭蕉に別れの侘びを入れている曾良。曾良はここで「行き行きて倒れふすとも萩の原」と詠むことになっている。「行き行きて倒れふす」覚悟、それなのに身体の具合が悪いと先に旅立つというのは、どういうことか。
西行の「いづくにか ねぶりねぶりて倒れ伏さんと 思う悲しき道芝の露」 が元になっているといわれている。「ねぶりねぶりて」と「行き行きて」では、西行の眠りのほうが実感が伴っていて味わい深い。野に倒れ伏すともといった旅への思いはどこからくるのだろうか。病に伏しても枯れ野をさまようような夢をみたり、こういった旅への漂白の思い、これはもう理屈ではなく、人の本性のようなものかも知れない。いつの日にかその列に加わりたいといった見果てぬ願望のようなものが、私の心を揺する。

 芭蕉に別れの侘びを入れている曾良。
 長旅もようやく終わりに近づき曾良も安堵のためどっと疲れが出たのだろうか。
行き行きて倒れふすとも萩の原 曾良
 どのような訳があったにせよ曾良の別れの句はかっこいい。よすぎる。出来過ぎ。芭蕉が作った句ではないかという話もある。私がしびれてしまった句のひとつ。老人アイドル芭蕉の面目躍如か。この句にしびれて芭蕉が好きになったのだが、曾良の作ということで、がっかり。
野ざらしを心に風のしむ身かな
死にもせぬ旅寝のはてよ秋の暮
年くれぬ笠きて草鞋はきながら
 以上、「おくのほそ道」に先立つ5年前、芭蕉41歳の「野ざらし紀行」より。
旅人と我が名よばれん初しぐれ」芭蕉44歳の「笈の小文」より。
 芭蕉の旅に寄せる思い、覚悟がストレートに語られている。深川の庵も売り払って旅に出た、一所不住、失うべきものは何もない。求めるはただ「風雅の誠」のみ。風狂俳人の心意気である。煩悩凡夫はこういう生きざまにただただシビレてしまう。

萩の花
萩の原ではなく、萩の花。 秋の野の花の代表か。
曾良は、夜もすがら一人寂しく秋風を聞き、さすがの芭蕉も曾良がいなくなってさびしくてならない。「けふよりや書きつ消さん笠の露」とややうらみがましい句を作っている。

  行き/\て倒れふすとも萩の原 曾良

行く者の悲しみ残る者のうらみ、隻鳧(せきふ)の別れて雲に迷ふがごとし。予もまた
 けふよりや書付消さん笠の露
大聖持の城外、全昌寺(ぜんしやうじ)といふ寺に泊る。猶(なほ)加賀の地なり。曾良も前の夜この寺に泊りて、

 終宵(よもすがら)秋風きくや裏の山
と残す。

那谷寺の本堂
那谷寺の本堂

 

那谷寺(なたでら)[地図]

 小松市那谷。山中温泉からひと山越えたところに那谷寺がある。
 芭蕉が、金沢より曾良との交代に来た門人の北枝とともに那谷寺に参ったのにあわせ、曾良は一人旅立ったようだ。

 那谷寺は白山信仰の寺で、717年に開創された。歴史の中で興廃を繰り返し、一向一揆の際に破壊された坊舎を加賀藩主前田利常が再建し、今日にいたっているとのこと。

那谷寺の白い岩
那谷寺の白い岩

 白い岩を削りお堂がたっている。芭蕉の有名な句「石山の・・・」はこのあたりから詠んだものか。
 白い岩と緑のコントラストが美しい。
 それにしても白山信仰というのは何なのだろう。芭蕉は「白色」が好きなようで、「しらうおや・・」などとも詠んでいる。

「石山の石より白し秋の風」と「おくのほそ道」の那谷寺についての文章
石山の石より白し秋の風」と「おくのほそ道」の那谷寺についての文章

石山の石より白し秋の風」と「おくのほそ道」の那谷寺についての文章。
 この2つの石碑は、苔むした岩の前におかれ、石碑の石も風雪に耐えていい味を出している。特に、右の碑文の石の風合いがたまらなくいい。書いてあることは下のとおりであまり内容があるとは思えないが、苔むした石の風合いは芭蕉句碑のなかでも屈指のものだと思う。木漏れ陽が碑文に揺れるさまに、奇跡に近い感動を覚えた。ついつい何度も何度もシャッタを切ってしまった。(左下の写真)こなん碑文に出会えることもあるのだ。それにしてもいい味を出している碑文であることか。
 風流の歴史が、こんな風に形になって受け継がれていくことに、感動を覚えざるを得ない。

「おくのほそ道」の那谷寺についての文章の石板
「おくのほそ道」の那谷寺についての文章の石板。苔むした石板に木漏れ日があたり、芭蕉的わびさび世界との現前に感動してしまった。
那谷寺(なたでら)
山中の温泉に行ほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて 、那谷と名付給ふと也。那智・谷組の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。

  石山の石より白し秋の風

「ふるき名の角鹿や恋し秋の月」の石碑
「ふるき名の角鹿や恋し秋の月」の石碑

敦賀

 小松から敦賀に向かう杉津サービスエリアにあった芭蕉の句碑。

「ふるき名の角鹿や恋し秋の月」

 「おくのほそ道」には「気比の月」となっているがここでは「秋の月」となっている。「角鹿」は「つぬが」と呼び敦賀の地名の由来だとか。
 敦賀の気比の浜は月見の名所。芭蕉も中秋の名月の観月を予定していたのだが、「北国日和定めなし」で、期待はずれだったようだ。かろうじて月夜の気比神社に参ることができた。

 

気比神社の境内。遊行のもてる白い砂は残念ながらなかった。
気比神社の境内。遊行のもてる白い砂は残念ながらなかった。 遊行や芭蕉の時代とは違って、宮さびた雰囲気はなく、朱塗りの立派な神社になっている。
芭蕉が訪れた時には、ここは「古例今に絶えず」真砂が敷き詰められていたのだろうか。境内にはりっぱな芭蕉の像や句碑もあるのだから、是非、白砂を敷き詰めてもらいたいものだ。その風情には芭蕉ならずとも感動するにちがいない。
気比神社  [地図]
  漸(やうや)く白根が嶽(だけ)かくれて、比那(ひな)が嵩(たけ)顕はる。あさむづの橋を渡りて、玉江の蘆(あし)は穂に出でにけり。鴬の関を過ぎて、湯尾(ゆのを)峠を越れば、燧(ひうち)が城(じやう)、かへるやまに初雁を聞きて、十四日の夕暮、敦賀の津に宿をもとむ。
 その夜月殊に晴れたり。「明日の夜もかくあるべきにや」といへば、「越路のならひ,猶(なほ)明夜の陰晴(いんせい)はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、気比(けい)の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭(しやとう)神さびて、松の木の間に月のもり入りたる、おまへの白砂霜(しも)を敷けるが如し。往昔(そのかみ)遊行二世の上人、大願發起(だいぐわんほつき)の事ありて、みづから草を刈り、土石を荷ひ、泥ていをかわかせて、参詣往来(さんけいわうらい)の煩なし。古例今に絶えず。神前に真砂を荷ひ給ふ。「これを遊行の砂持と申し侍る」と、亭主の語りける。
  月清し遊行のもてる砂の上
 十五日、亭主の詞にたがはず雨降る。
  名月や北国日和(ほくこくびより)定なき
敦賀で詠まれた月五句の句碑
敦賀で詠まれた月五句の句碑

 月をことのほか愛した芭蕉は、敦賀でも中秋の観月をおこなった。
 気比神宮境内の台座に「月清し」の句が刻まれた芭蕉像と敦賀で詠まれた月五句の句碑。後ろの木は樹齢700年のタモの木、石碑は愛知県石鎚山産の自然の青石。まことに立派で芭蕉の石碑としては最大のものではないか。
 月5句 国々の八景更に気比の月
     月清し遊行の持てる砂の上
     ふるき名の角鹿や恋し気比の月
     月いづく鐘を沈る海の底
     名月や北国日和定めなき

種(いろ)の浜の本隆寺
種(いろ)の浜の本隆寺

 

種(いろ)の浜

 十六日、空(そら)霽(は)れたれば、ますほの小貝ひろはんと、種(いろ)の浜(はま)に舟を走(は)す。海上七里あり。天屋(てんや)何がしといふもの破籠(わりご)小竹筒(さゝえ)などこまやかにしたゝめさせ、僕(しもべ)あまた舟にとり乗せて、追風時(とき)の間に吹きつけぬ。浜はわづかなる海士(あま)の小家にて、侘しき法華寺(ほつけでら)あり。こゝに茶を飲み酒をあたゝめて、夕暮の淋しさ感に堪へたり。
  寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋
  波の間や小貝にまじる萩の塵
 其の日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。露通も此の湊まで出むかひて、美濃の国へと伴ふ。

 西行の「潮染むる ますほの小貝拾ふとて 色の浜とはいふにやあるらん」」(山家集)という歌に誘われ、芭蕉も種(色)の浜にて小貝を拾わんと舟に乗ったのだろうか。
 「侘しき法華寺」とは、本隆寺(ほんりゅうじ )(写真左上)のことだという。このあたりで茶を飲みビールでも飲もうかと期待して尋ねたが、浜は夏真っ盛り、道は車で渋滞し、海水浴は若い人でごったがえしていて、とても風情にしたる雰囲気ではない。
 色の浜で小貝を拾おうとしたが、貝はどこにもみあたらなかった。子貝のお土産を買っただけで、残念ながら早々に引き上げた。
 曾良と別れた芭蕉には、今度は北枝に替って等裁が福井・敦賀を案内し、露通も敦賀に駆けつけた。


種(いろ)の浜
奥の細道むすびの地に建つ芭蕉と木因の像
奥の細道むすびの地に建つ芭蕉と木因の像

 

大垣 [地図]


 奥の細道むすびの地に建つ芭蕉と木因の像。長途の行脚を終えた芭蕉を木因が迎えている様子か、旅立つ芭蕉を見送っている様子か。

路通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて
  蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
大垣の芭蕉像
大垣の芭蕉像 。
顔を上げて明日の旅への決意を新たにする芭蕉だが、何か哀しい寂しい感じがする。

 大垣市には、芭蕉の句碑が多く存在している。「奥の細道むすびの地記念館」があり関係資料が展示されている。

 長途の行脚を終え、安堵のなかにもやつれがみえる芭蕉。
 深川の芭蕉庵は人に譲ってしまい、江戸に帰っても住む所はない。旅を住処と決めた芭蕉は、次の旅に夢を馳せているようだ。一所不在。
「おくのほそ道」は終わっても、芭蕉の旅は終わらない。
 この後、芭蕉は伊勢神宮を参り、故郷の伊賀に戻り、近江の膳所や京都の嵯峨野に仮の宿をとりながら、己の俳諧の道を追い求めようとする。
 なんとなく寂しい旅の終わり。「おくのほそ道」は芭蕉にとって何だったのか。私の芭蕉追っかけは何だったのか。いろいろの思いのこもった旅だったが、歌枕を訪ねるという名目の旅は、同時に「たびねして我句をし」ろうとする旅だったのだろう。芭蕉は確かに、野ざらしの旅枕を重ねるなかで芭蕉俳諧の句境を開くことになった。
  私のほうはといえば、情けないことに、芭蕉の世界への仕事と生活からの逃避の旅だったのかもしれない。

「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」の句碑

 1689年芭蕉46歳、深川を出て大垣に至ったが、「おくのほそ道」が完成し出版されるのはそれから5年後、1694年芭蕉51歳のときだった。その年、芭蕉逝く(10月12日)。 大阪に客死し、柩は膳所義仲寺に運ばれ、14日境内に埋葬された。
 芭蕉の辞世の句といわれる句
旅に病み夢は枯野をかけめぐる
 芭蕉は死ぬまで己の旅を続けた。病床にあっても夢にでるのは枯野を駆け廻ることばかり。「日々旅にして旅を栖(すみか)とする人であり、故人の求めたるところを求め続ける人だった。
 古里の伊賀の里ではなく、また松島や姥捨の月や吉野の桜でもなく、どこにでもある枯野というのは最後まで芭蕉らしい風流な夢、詫びつくした枯野というところが芭蕉らしくていい。

 大垣の水門川、高橋の横、送別連句塚。
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

   
photo by miura 2006.10 
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